^実在の哲学的原理が把握せられたということができる。我々の自己が何処までも徹底的に否定的自覚の立場に立つ時、そこに内在即超越、超越即内在の絶対矛盾的自己同一の原理に撞着《どうちゃく》せなければならない。自己を外からと考えても、内からと考えても、自覚というものはない。自覚は自覚によって基礎附けられねばならない。人は自覚を内からという時、自己は既に外に出ているのである。
 カントを出立点とした純粋自我的主観主義は、ヘーゲルによって一応克服せられたということができる。認識主観としての純粋自我は、フィヒテにおいて、事行《じこう》的として弁証法的自我となり、それがフィヒテの実践我として、私はそこに既に新なる実在の世界が開かれたと思うのである。カントにおいて道徳的当為としての実践我の世界は、フィヒテにおいて実在的世界となったのである。シェリングにおいて、その立場から絶対的インディフェレンツまたはイデンティテートとして、一旦スピノザ的になったが、更にヘーゲルに至って、その主観的卵殻を脱して論理的弁証法的実在の世界となった。世界は客観的理性の自己発展の世界となった。世界は、しかし烏滸《おこ》がましいが
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