A主客の対立、相互関係も、そこから考えられる立場でなければならない。我々の自己が自己を考えるのも、論理的形式によって考えているのである。我々はカント哲学の独断を否定して、新なる自覚の立場から出立しようとする時、その立場は何処までも論理的でなければならない。而してそこに論理の深い自己反省がなければならない。然るに無造作に因襲的論理の立場から出立する人は、因襲的立場以上のものは、すべて神秘的などと考えている。
カント以後、主観的自己の立場を否定して、純なる論理的立場に立った人は、ヘーゲルである。フィヒテが「自己が自己である」Ich−Ich という立場から出立したのに反して、ヘーゲルは「有」から出立した(〔Encyklopa:die〕, ※[#ローマ数字1、1−13−21]. §86.)。ヘーゲルの哲学は、自己自身によってあり自己自身によって理解せられる論理的実在の哲学であった。そこにデカルトと結合するものがあると思う。しかもヘーゲルはデカルトと異なって、そこに新なる実在と論理の原理とを把握した。それがヘーゲルの弁証法である。ヘーゲルによって、始めて自己自身によってあり、自己自身を限定する
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