驍烽フであるという主語的実体の矛盾的自己同一的真理を把握したのである。私はこれに反しそこから新なる論理と新なる実在の概念が出なければならなかったと考える。しかし彼はアリストテレス的論理と実在の考の上に出なかった。我々の自己自身の実在を考える論理は、我々の自己を外延として含む一般者の論理でなければならない(私のいわゆる場所的論理)。カントの対象認識の論理は、最初からかかる実在を否定した論理である。考える自己が、対象的に考えることのできないのはいうまでもない。然るにアリストテレスの論理は、無論自己を包むものではないが、その主語となって述語とならないというヒュポケイメノンは、カントの認識対象というよりも、広い意味を有《も》つということができる。私が考えるという時、その私というのは、一応主語的意義を有つということができる。無論、私がここに広いというのは、未定的という意義に過ぎない。この故に私はかつてカント哲学を越えて、新なる論理の立場を求めた時、アリストテレスのヒュポケイメノンの立場へ返って考えて見た。今日人の考える如く、論理は我々の自己の主観的形式ではない。論理の立場とは、主客の対立を越えて
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