の思想伝統が、その根柢から考え批判せられなければならないといわれる時代、我々は再びデカルトの問題に返って考えて見なければならない。それはカントの如くに、如何にして客観的知識が可能なるかとの問題ではなくして、自己自身によってあり、自己自身を限定する真実在とは、如何なるものなるかとの問題でなければならない。学問も歴史的世界の所産である。カントの時代は、世界が科学から考えられた。今日は科学が世界から考えられなければならない。
最初から、内と外、主観と客観、内在と超越という如き対立を考え、外から内を考えるのも独断的であるが、内から外を考えるのも独断的たるを免れない。「存在の前に当為がある」、存在から当為は出て来ないという。然らば爾《しか》考えるものは何物であるか。考える何物もないのであるか。考えるものがなければ、当為ということもない。斯くいうのが誤《あやまり》であるならば、誤る自己がなければならない。ないというならば、爾いう自己がなければならない。デカルトはコーギトー・エルゴー・スムといって、自己から出立した。しかし彼はその前に自己の存在まで疑って見た。而して彼はそこに考えるものが考えられ
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