ご》段の所まで行った、此の時は既に窓の外が明るくなり、日の出る刻限であるけれど下では誰も起き出て居ぬ様子である、未だ降りて行ったとて仕様が無いか知らんと、暫し足を留め、段の上の横手に佇立《たたずん》で居ると、下から誰やら登って来る足音がする、下僕でも起きたのかと思えば爾でも無い、此の人も余と同じく何事をか思案して居る者か歩む足が甚だ捗々《はかばか》しく無い、一段上っては休み、休んでは又上る様である、誰だろうと暫し静かにして待って居ると、漸く其の頭より半身が上に現われた、是は何うだ権田時介である。
彼は全く何の思案にか暮れて茫然として歩んで居る、余は驚いて、殆ど我知らず走り寄り「オヤ権田さん」と出し抜けに呼び掛けた、彼は恟《びっく》り驚いて「オオ」と云い、其の顔を上げる拍子に、身体の中心を失って、階子段を踏み外し、真逆様《まっさかさま》に下へ落ちはせぬけれど殆ど落ちん有様で有った、若し余が抱き留めねば必ず落ちる所で有った、余は遽てて抱き留めたが、権田は性根の附いた様に背後を向き今上って来た階段の高さを見て「オオ、貴方が抱き留めて呉れねば頭を砕いて此の世へ暇を告げる所でした、本統に一命を救われました」といい、彼に有るまじく思われるほど感謝の様を現わしたが、頓て「アア貴方は、抱き止めずに放って置けば手も無く恋の敵をなき者とする所で有ったのに、エ、爾では有りませんか、抱き止めずとも誰も貴方を咎める者は無く、私が自分の疎相で階段から落ちて死ぬのだから、私自身とても貴方を恨む訳には行きません、私が貴方なら決して抱き留めはせぬのです」
真面目に云って、益々深く余の親切に感じて居る、余「成るほど爾でした。惜しい事を仕ましたよ、併し今貴方をなくしては、秀子の汚名を雪ぐに充分な反証を持って居る者がないから」権田「イヤ其の心配も今は消滅したのですよ」余「エ何と」権田「イヤ其の反証は既に悉く相当の手へ渡して了いました」余「相当の手とは誰の事です」
権田「ハイ探偵森主水と、貴方の叔父朝夫君です」とて是より権田の説き明かす所を聞けば、一昨夜余が権田の許を辞して後、権田は彼の森主水を、次の間からクルクル巻に縛ったまま引き出して、細々と秀子、イヤ輪田夏子の事を話し、昔お紺婆を殺したのは其の実高輪田長三だとて、有る丈の事を語り、有る丈の証拠を示した所、森主水は証拠の争う可からざるに全く己れの過ちを悟り「好うこそ私を此の様に捕えて縛り、職務を行い得ぬ様に妨げて下さった、若し貴方がたが、此の断乎たる非常策を施さなんだなら、森主水は今までに無い職務上の大失策を遣らかし、同僚の物笑いと為って、探偵としての名誉を全く地に委《い》する所でした」とて深く謝したと云う事である、夫から森主水の繩を解いて遣ると彼は至急に運動せねば可けぬとて、其の夜の中から昨日へ掛け一生懸命に奔走して、其の反証が全く真物《ほんもの》で有る事を夫々突き留め、其の上に彼の高輪田長三が其の後も秀子を陥しいるる為に倫敦の解剖院の助手に賄賂して、女の死骸を買い取った事までも分り、昨日の昼頃礼|旁々《かたがた》にそれ等の次第を報じて権田の許へ来たに依り、権田は直ぐ様同道して此の土地へ出張し、既に其の夜の中に余の叔父に逢いて、前に森主水に告げた丈の事実を悉く叔父にも告げたとの事である、爾して猶彼は、要を摘まむに慣れた弁護士の弁舌で、余の知らぬ様々の事を語った。
第百二十回 思案も智慧も
権田時介は言葉を継いだ。「私と一緒に来た森主水は第一に高輪田長三を逃さぬ様にせねばならぬとて彼長三の室へ行って見ると、流石悪人だけ、自分の身の危い事を知ったと見え、早や逃げ去った後でした、其処へ丁度此の土地の警察から森主水の手下が来て、先に消滅した浦原お浦嬢が此の土地の千艸《ちぐさ》屋に潜んで居るとの事を告げましたから、扨は長三め、必ずお浦嬢の所へ行っただろうと森主水は直ちに又其の家へ馳せ附けましたが其の家にも長三は居ず、其の上にお浦嬢の姿さえ見えぬので、甚く失望して帰って来ました、後で医者の言葉を聞くと長三は数日来、持病の心臓が起り、物に驚きでもすれば頓死すると云いました、シテ見ると逃げ去る途中で死ぬるかも知れません」余は話に釣り込まれ「ハイ彼長三は既に心臓病の為に昨夜死んで了ったのです」と云い、此の権田には隠すにも及ばぬ訳だから事の次第を詳しく語った、権田は合点の行った様に「それでは昨夜私が、貴方の叔父朝夫君に詳しく秀子嬢の身の上を語り終り、其の枕許で椅子に凭《よっ》たまま微睡《まどろん》で居ると、何か異様な叫び声が微かに聞こえた様に思いましたが其の声が彼長三の死に際の悲鳴でしたな」と驚きつつ点頭《うなず》いた。
余「では最う叔父は詳しく秀子の事を知って居ますな」権田「ハイ叔父御は秀子が其の実輪田夏子だと云う事を先日高輪田長三の毒舌で聞されて非常に心を痛めて居たのですから私が悉く其の輪田夏子の清浄潔白な次第を告げたのです、それを聞いて叔父御の喜びは一方ならず、是で最う病気も癒ると云い、私を引き留めて放さぬのです、到頭私は叔父御の枕許で夜明かし同様に明かしました、ですが丸部さん肝腎の私自身が未だ秀子の其の後の有様を知らぬのです、今は何所に居るのですか」余「甚く疲れて居室へ退きましたから多分今は寝て居るのでしょう」権田「シタが貴方の約束は」余は少し不機嫌に「ハイ厳重に履行しました、秀子は全く私を恨み、不幸の境遇に陥った女を憐れむ事さえ知らぬ見下げ果てた男だと本統に愛想を盡して居るのです」
之を聞いて権田は痛く打ち喜ぶかと思いの外聊か面目なげに「実に邪慳な約束でお気の毒に思いますが」と、一昨夜の様に代え、頭を掻いて何だか打ち萎れた様子である、余は猶も腹の底に癒え兼ねる所が有るから未練ではあるけれど「貴方は定めし満足でしょう」と聊か厭味の語を洩らした、権田「イヤ私は失礼ながら貴方を見損なって居ましたよ、斯うまで身を犠牲にして約束を守るとは、アア今時に珍しい真に愛す可く尊う可きお気質です」と云って暫し考えた末「併し叔父御が頻りに貴方の事を気遣い、何所へ行ったのだろうなどと云って居ますから、他の話は後にして先ず叔父御の寝室へお出でなさい」
余は其の意に従いて彼と共に叔父の室へ行った、叔父は随分病み耄《ほう》けて居るけれど、余ほど回復したと見え、床の上へ起き直り「オオ道九郎か、何より先に其の方へ頼み度いは何うか秀子を探して来て、己に代わって詫びをして呉れ、己は秀子を疑ぐって済まなんだ、昨夜此の権田氏から聞けば権田氏が今まで秀子の為に盡されたも感心だが、秀子の清浄潔白なのも感心だ、夫を知らずに己は秀子が其の輪田夏子だと聞いて、数日来胸が悪く思って居た、実に相済まん訳である、殊に其の昔第一に輪田夏子の死刑を主張したのは此の己だが、其の罪が夏子でなかったとすれば重々己の過ちだ、孫子の末まで裁判官などを勤めさせる者ではない、それに就けても憎いのはアノ高輪田長三だ、彼は養母お紺が毎年一度銀行から一切の財産を引き出して検める事を知り、それを窃む為に倫敦から忍び返ってお紺を殺したのだ、其の疑いを輪田夏子へ掛け自分は其の金を隠して置き年を経るに従って漸々《だんだん》に引き出して自分の物にして了ったのだ、其の金を隠して有った所から其の引き出した度数と月日まで此の権田|氏《うじ》が取り調べて悉く証拠を得たので最早高輪田を処刑し、秀子の寃《えん》を雪ぐ事が容易である、けれど道九郎、それに就いて又一つ困難なは高輪田を処刑するには勢い再び秀子を人の口端に掛かる様な位置に立たさねば成らぬ、最早今日では輪田夏子は牢死した者と偽り其の墓まで其の屋敷に在るのだから、今更世間の人へ其の墓が空だと云う事を知らせ爾して夏子が今の秀子で有ると云う事を悟らせるも辛し、夫かとて長三を裁判へ引き出す日にはそれを悟られずには済まぬ訳だし、此の辺の事に就いても其の方の智恵を借らねば、己は最う思案も智慧も盡きて居る」後悔やら当惑やら全く持て余したる体である、余「イエ叔父さん、少しも其の様な御心配には及びません、高輪田長三は既に相当の裁判に服しました、爾して秀子も其の裁判を見て既に満足したのです」叔父は、寝台も揺ぐほど驚いて「エ、エ、何と」
第百二十一回 寧ろ兄妹
叔父は容易に驚きが鎮まらぬ、「エ、高輪田長三が相当の裁判に服したとな、其の様な筈はない」余「イエ叔父さん此の世の裁判ではなく天の裁判です、昨夜彼は心臓破裂の為頓死しました」
余は此の事を先ず暫くは叔父の耳へ入れずに置く積りで有ったけれど、今は叔父の心配を弛める事に事細《ことこまか》に語って了った、叔父は安堵の胸を撫で「本統に天の裁判だ、それは何より安心だ、是で最う秀子を再び人の口端に掛からせるに及ばぬ、若しも他日秀子と夏子と同人だなど疑う人が有れば、其の時に夏子の潔白を証明し誠の罪人は高輪田だったと知らせれば好いのだ、夫を知らせる材料は既に権田氏が取り揃えて呉れたのだから、併しナニ其の高輪田が死んで見れば、彼冥途から毒舌を振うて秀子を傷つける事も出来ず、誰も秀子の前身を疑いなどする者はない、アア人の死んだを目出度いと云う事はないけれど高輪田の死は全く天の干渉だ、先ず先ず目出度い」暫く安心の息を吐いて居たが又思い出した様に打ち萎れ「それに就けても己は益々秀子に済まぬ、充分に詫びをして秀子の心の解ける様にせねば」と云い、容易に落ち着く気色も見えぬ、余は慰めて「イエ叔父さん、済まぬのはお互いでしょう、秀子とても今まで幾分か貴方を欺いて居たでは有りませんか」叔父は断乎として「イヤイヤ秀子は少しも人を欺かぬ、既に己が高輪田長三から秀子と夏子と同人だと聞いたとき詰問したのに秀子は有体にハイ私は元の輪田夏子に相違有りませんと答えた一言でも嘘言を吐いた事のないのは恐らく秀子だろう、若し幾分でも秀子の為に吾々が欺かれた事が有るとすれば、それは秀子が欺いたではなく、吾々が自ら思い違いをしたのだ、其の思い違いをば秀子がそれは思い違いですと説き明かして吾々の迷いを解く事はせなんだかも知れぬが、自分から進んで人を欺いた事は決してない」成るほどそう云えば爾で有る、唯秀子が此の方の思い違いや認め違いを、其のまま正さずに放って置いた事は有るが夫は秀子の罪でなく此方の不明と云う者だ、初めて逢った時から今日まで秀子の言行は唯誠で貫いて居る。
余が斯様に考えて居る間に叔父は余を迫立《せきた》てて「何うか道九郎、茲へ秀子を連れて来て己と共々に其方の口から詫びて呉れ、其方ならば遠からず秀子の所天《おっと》になるのだから、所天の言葉と思って秀子も心が解けるであろう、さァ直ぐに呼んで来て呉れ」
余が秀子の所天と既に定まった様に云っては、権田時介が何の様に思うだろう、余は時介に対しても此の言葉を黙って居る訳に行かぬ。「イエ叔父さん私と秀子とは未来の夫婦ではないのです」叔父「エ」余「ハイ少し仔細が有って其の約束を取り消しました、奇麗に全くの他人、寧ろ兄妹の様に成る事に、既に秀子と相談を極めました、夫ですから秀子を茲へ呼ぶなら何うか此の権田氏にお呼《よば》せ下さい」
是だけ云えば、扨は権田が秀子の所天に成る訳かと大抵叔父が覚り相な者である、縦し覚らずとも余は此の上の説明をする勇気がないから「それに私は尚だ捨て置き難き用事が有りますから」と云って叔父が問い返す暇のない間に此の室を立ち去った、秀子に関する一切の事は最う権田に任せて置く外はない。
茲を立ち去り直ぐに自分の居間へ帰ったが、最早全く秀子を権田に渡して了ったと思えば、此の世の楽しみが悉く消え失せて殆ど生きて居る張り合いもない、と云って真逆に死ぬる訳にも行かぬから、当分此の国を立ち去って、心の傷の癒えるまで外国を旅行しよう、父から遺された財産が尚だ幾分か存して居るから其の中には何うか身を定める工夫も附くだろうと、独り陰気に考え込んで居る間に、昨夜来の疲れと見え、卓子に臂《ひじ》を突いたまま眠って了った。
暫くして人の足音に目を覚して見ると傍に彼の森主水が立って居る。彼は権田に謝
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