方へ行きましょう」と引き退ける様にした、此の時忽ち余の足許をば、矢を射る様に通り過して縁側に飛び出した一物が有る、それは虎井夫人の彼の狐猿で有る、今此の室の戸を内から引っ掻いて居たのも即ち此の狐猿であろう。
 秀子は石の柱の様に突っ立って少しも動かぬ、肩を推しても無益である、爾して恐ろしさに見開いた其の眼を宙に注ぎ、遠く眼前の以外に在る何事をか見詰めて居る様である、アア秀子は室の中の様に驚き、今は何事をか連想して、心を遠い遠い事柄に注いで居ると見える、宛《まる》で醒めながら夢でも見る有様で何事も移らぬのである。
 秀子を斯くまで驚かせた室の中の光景は如何である、余の常に倚《よ》る安楽椅子に、背様《うしろざま》に靠《もた》れ、一人の男が顔に得も云えぬ苦痛の色を浮かべ、目を見張った儘に死んで居る、爾して所々に血が附いて居て、殊に其の頬の辺に噛まれたか掻かれたか痛々しい傷が有る、之も確かに狐猿の仕業で有ろう、猶好く見れば其の手先も痛く噛まれて居る、抑も此の男は誰、余は容易に判じ得なんだが、見て居る中に高輪田長三と分って来た、生き顔と死顔とは相恰が変るとは云え斯くまで甚く変るとは思わなんだ、傷の為苦痛の為最っと醜く筋々が伸縮して居る外に猶、不断とは全く違って見える所が有る、本来彼の顔は美しくて滑らかで底に薄気味の悪い所が有りはするけれど、悪人程には見えなんだが死顔は全く大悪の相である、生前は余ほど容子を作り、自ら善人に善人にと見せ掛けて居た為に此の大悪の相恰《そうごう》が現われなんだのか知らん、兎に角も恐ろしい顔である。余が未だ充分には明け切らぬ薄暗い室の中で蝋燭の光で見ては猶更恐ろしく感ぜられる。
 アア彼何が為此の余の居間へ入ったのか何が為に死んだのか、真逆の狐猿の仕業で人一人を噛み殺す事は出来ぬ、合点の行かぬ事では有るが、昨夜の叫び声の出所だけは之で分った、彼の死に際の声で有った、爾すれば彼は夜の十二時が打って間もなく死んだものだ。
 余が斯の様に思いつつ猶死因を考えて居る間に秀子は忽ち身を躍らせて「分りました、分りました」と打ち叫んだ、何が分ったか知らぬけれど余ほど心の騒ぐと見え、日頃の落ち着いた様とは打って変り、発狂でもしたではないかと気遣わるる程である、余「何が分りました、秀子さん」
 秀子の耳に余の問いが聞こえたのか聞こえぬのか秀子は、猶も夢中の人の語る有様で「分りました、八年前に此の室で、養母お紺を殺したのは此の高輪田です、此の長三です、私一人其の声を聞き附けて此の室へ走って来ましたが、真暗の中で何者にか突き当たりました、これが確かに曲者とは思いましたけれど私を突き退けて逃げ去りました、女ながらもそれを追う為私が馳け出そうとする所を、暗の中から死に際の声で、曲者と云って私の手を捕え左の小腕へ噛み附いたのがお紺でして、死に際の苦痛と云い殊には暗の中と云い人の差別も分らなんだのでしょうが、私は唯痛さと恐ろしさに気を失い、自ら逃げるのか曲者を追い掛けるのか、夢中の様で駆け降りて堀の端まで行き、倒れました、翌朝我に復《かえ》って見ると早や養母殺しの罪人として警官の手に捕われて居たのです、外に罪人の有る事は知りながらも誰と指して云う事は出来ず、争いは争いましたが、手に残る歯形と云い、肉が老婆の口に残って居た事と云い、似寄った事情と間違った推量とが証拠と為って、自分の言い立ては少しも通らず、云えば云うだけ偽りを作るに巧みな天生の毒婦だと罵しられ、遂に人殺しの罪人として宣告を受けました、未丁《みてい》年の為死刑を一等だけ減じ終身刑に処するから有難く思えと言い渡されました。女王陛下にまで哀願しても許されず、終いに罪なき清浄の一少女が稀代の毒婦輪田お夏とて全国に唱われました」
 千古の恨みを吐き出して其の声は人間の界《さかい》を貫き深く深く冥界と相通ずるかと疑われる様な音である、余は感動せずに聞く事は出来ぬ、知らず知らず一身が秀子の声と相融和して自ら恨みの中の人と為り、共に悔しい想いがする、秀子は猶も同じ調子で「牢を抜け出て後、私の密旨の一つは誠の罪人を探し出し天の如き裁判を彼に加えて一身の無実を雪《そそ》ぐに在りましたが、今は其の罪人が有りました、彼に相当した通りに天の裁判が降りました、彼は此の高輪田長三です、多少彼では有るまいかと疑ぐった事は有りますけれど今此の天の裁判を見て初めて彼と確かに知る事が出来たのです、天の裁判が如何に彼に降ったか此の様を見れば分ります」真に秀子は其の熱心を以て、人の目に見えぬ所をまで見て取り得たのか、斯く叫ぶ間も、猶其の眼を、人間以外に注ぐ様に宇宙に浮かべて居る。

第百十八回 シテ密旨の第三は

 成るほど秀子の「密旨」の一つが、お紺殺しの真の罪人を探し出し、自分の汚名を雪ぐに在ったのは尤も千万な次第である、塔の宝を見極めるが密旨の第一、罪人を突き留めるが同じく第二、シテ其の第三は何であろう、確か密旨が三個ある様な口振りで有った、第一第二は既に届いたも同じ事、第三の何とも未だ知れぬ密旨も果たして届く事で有ろうかと、余は世話しい中にも此の様な思案の浮かぶのを禁じ得なんだ。
 秀子は猶も夢中の様で言葉を継いだ。「此の天罰が何の様に彼の身に降り下ったとお思いなさる、私の目には面前《まのあた》り見る様に分ります、先年彼が養母お紺を殺したのは丁度此の塔の時計が夜の十二時を打った時でした、私が時計の音に目を覚まし、寝返りをして居ると此の室から養母の叫び声が聞こえたのです、それで私が馳せ上って来たのです、彼は其の後も此の時計の十二時を聞く度に其の夜の事を思い出すと見え、顔に恐れの色を浮かべます、彼が根西夫人に連れられ初めて此の家の宴会に来ましたとき、彼が挨拶の中途で言葉を留め、我知らず指を折って時計の音を数えた事は定めし貴方も御存じでしょう、彼は何故に時計の音が十一で止んだのを見て安心の色を浮かべました、十二時かと思ったのが未だ十二時より一時間前だと分った為漸く其の神経が鎮まったのです、彼若し養母を殺した本人ならずば十二時の音を斯うも恐るる筈は有りません、其の後彼は此の家へ出入し悪人同志は懇意と為るも早いと見え、虎井夫人と懇意に成りました、アノ夫人は兼ねて私が此の塔の秘密を解くに心を注いで居る事を知り、塔の宝を取り出したなら其の割前に与《あずか》る積りで兄の穴川甚蔵等と様々に私を威して居たのですが、其の威しの利かぬ為果ては自分で取り出すと云う非望を起し、遂に図※[#「※」は「たけかんむりの下にかねへんの碌」、読みは「ろく」、205−下12]を盗み取り兄の許へ送った事は貴方が御存じの通りです、けれど一昨夜貴方が権田時介へお話の通り、兄も貴方に攻められて思う仕事が出来ぬ事と為りましたから、妹虎井夫人は兄の代りに高輪田長三を抱き込む気に成り、長三へ秘密を打ち明けたのです、長三は塔の底に宝が有るなどと昔は信じませんでしたが、夫人の言葉で信ずる事に成りました、それは此の頃彼と、虎井夫人とが折々|密々《ひそひそ》話などして居た様子で私が見て取りました、彼全く虎井夫人と同じ気に成り、夜更けて人の寝鎮まるを待ち、自分の力で塔の秘密が解ける様に思い、貴方が此の家へ帰った事を知らず留守の間に仕事をする積りで昨夜此の室へ忍び込んだのが此の通り天罰を受ける元に成ったのです」
 理を推し情を尋ねて云う言葉、一々に順序あり脈絡あり、そうでなしと争う可き余地もない程に述べ来るは全く熱心の迸《ほとば》しりて知らず知らず茲に至る者と見える、余は唯聞き惚れて一言をも挿《さしは》さまぬ、秀子「此の室へ来て貴方の書類を探したり咒語の意味を考えたりする為に、自分で戸を〆切ったのですが、何うか云う事で虎井夫人の彼の狐猿が紛れ込み一緒に閉じ込められたのです、爾とも知らず彼様々に思案して居るうち直ぐに自分の頭の上で、時計が十二時を打ち、昔お紺婆を殺した時と同じ様に聞こえましたから、彼は必ず神経を騒がせました、其の時宛も室の隅か何所かで狐猿が異様な物音をさせたのでしょう、彼が何れほど驚いたかは茲に燃えさしの蝋燭が消えて居るのでも分ります、彼手燭を持って立ち上がらんとし其のまま取り落したのです、或いは其のとき彼の紊《みだ》れて居る神経へお紺婆の死に際の顔でも浮かんだかも知れません、彼は狼狽の余り怪物と思って狐猿を攫《つか》むか何うかしたのでしょう、狐猿も死に物狂いに彼の頬を掻き彼の手に噛み附いたのは此の有様で分って居ます」
 爾すれば昨夜十二時の打った後で、余が二度までも異様な悲鳴の声を聞いたは、確かに狐猿の声と彼の叫びとの混じたので有っただろう、秀子の考えに寸分の相違はない、秀子「真暗の処に入れば唯の人さえ恐れを生じますのに況《ま》して彼は自分が養母を殺した此の室に入り、手燭は消え時計の響きは残り、何んとも知れぬ狐猿は騒ぎ廻りますから、必ず逃げ出そうとして戸などを探りましても彼の知って居た頃とは此の室の案内も違い、暗闇で仲々戸を開けられる者では有りません、それに狐猿は或る国では雷獣とも名づけられて居るほどで、雷の鳴る時は甚《いた》く電気を感じ全く発狂の体と為るとも申しますゆえ、定めし散々に荒れ廻り彼の前、彼の背後などから飛び附いたり躍り掛かったりしたのでしょう、彼は子供の折から心臓に異状が有り、殊に此の頃は其の発病の為、若し甚く身体や心を動かしては心臓破裂に為るとて医師に誡められて居るほどゆえ、其の騒ぎに遂に此の通り死んだのでしょう、彼の仕業の為私が手の肉を噛み取られた此の室で、夜の同じ刻限に彼自ら狐猿に悩まされ所々を噛み切られて爾して最期を遂げるとは是が天の裁判では有りませんか、丸部さん私は誠の罪人を探し出して明らかに白状させて爾して自分の汚名を清め度いと思いましたが、彼の死んだ後で是だけの事を知り得たのは残念ですけれど、到底私の手では是だけの罰を彼に帰せる事は出来ず天が代って罰して呉れたかと思えば全く密旨の此の一部分も届いた者として深く感謝する外は有りません」と再び天に手を挙げて礼拝する様にした、余は只管感に打たれるばかりである。

第百十九回 此の世へ暇を

 全く秀子の云う通りで有る、彼高輪田長三は天罰を受けて居たのだ。
 余は秀子に向かい「貴女の熱心が天に届いたのです、けれど秀子さん茲に長居する必要は有りません、死骸の後の処分などは私が致しますから、サア貴女は早く室へ行って一休みすると成さい、余ほどお疲れで有りましょう、ソレに又二人が塔の底へ忍び込んだ事が分り、塔の秘密を人に悟られる様な事が有っては宜く有りませんから」と云うに、秀子は今まで引き立てて居た気も弛んだか全く他愛も無いほど疲れた様で「ハイ、兎も角も暫し休みましょう、爾せねば私は、最う何の考えも定りません」実に其の筈である、二十四時間の上、食事もせず、而も人の一生にも無い程に心を動かした事なれば、如何に健《けな》げな女でも最早堪え難いであろう。
 余も疲れては居るけれど、余の心には大なる不平が有る、漸く秀子の念願が届き掛け其の身の上が幸福に成ろうと云う時に当って、自分から秀子に賤しまれる様に仕向け、秀子を失わねば成らぬかと思えば、仲々気の弛むトコロで無い、休もうとて休まれもせず、独りで篤と此の後の身の振り方なども考えて見ねば成らぬ。
 此の様に思いつつ秀子を送って塔を降り、此の家の二階へは着いた、秀子の室は未だ遠いけれど矢張り此の二階続きに在るのだ、秀子は最う送って貰うに及ばぬと謝して独りで立ち去った、余に愛想を盡さぬ前なら、何も其の室の入口まで余の送って行くのを邪魔だとも思うまいに、アア唯一時、意外な高輪田長三の死に様に驚いて居た間だけは、外の事を打ち忘れて、余に殆ど以前の通り打ち解けた様な容子に語ったけれど、其の驚きが過ぎ去って、心が常の水平に返れば直ぐに余を賤しむ心が戻り、口をきくのも好ましく思わぬと見える、実に権田時介との約束には甚い目に遭った。
 空しく秀子の姿が見えずなる迄見送って、兎に角誰かに高輪田長三の死を伝えねば成らぬがなど思案しつつ、徐々と、下に降る階子《はし
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