直ぐに立ち去りました、私は何処を何うすれば外へ出られるか少しも案内を知りませんから唯長三の言葉に従い彼の迎えに来るのを待って居る外はなかったのです。
「夜に入って後、彼は迎えに参りました、此の時は忍び提灯を持って居ましたから分りましたが、彼は一方の手に、書斎に在った卓子掛けを持って居るのです、兼ねて私も見覚えの有る印度の織物ですから、何んの為に其を持って来たと問いましたら、無言《だまっ》て見てお出でなさい、これが成功の種に成るのですと答えました、此の時は合点が行きませんでしたけれど、後で分りましたが、堀の中へ或る女の死骸を投げ込んだとき、其の卓子掛けに包みました」
余は是まで聞いて殆ど恐ろしい想いがした、堀から出た彼の死骸も高輪田長三の仕業で有ったのか、彼の悪事は何れほど底が深いかも知れぬけれど、恐ろしさより先に立つは不審の一念だ、彼の死骸が何者であるかは今以て解釈の出来ぬ問題で、森主水は其の時、死骸に首の無いだけ却って手掛かりが得易いと云い、又其の首は倫敦で尋ねればなどと云ったが、果たして倫敦で充分の手掛かりを得たのであるか、未だ其の辺の事情を聞かぬけれど、兎に角も其の怪しさは今猶昨の如しである、之が今茲でお浦の口から分るかと思えば殆ど後の言葉が待ち遠しく思われ「シタが彼の時の女の死骸は全体何者でしたか」と余は問い掛けた。
第百一回 本統の悪魔
「彼の時の女の死骸は全体何者でしたか」と余の問う言葉に、お浦「彼は高輪田が倫敦から得たのです」倫敦から得たと云えば、何うやら森主水の其の時の言葉が全く無根でもなさそうだ、余「エ倫敦から」お浦「ハイ能くは知りませんけれど、何でも解剖院の助手に賄賂を遣り、アノ様な死骸を買って来たのです」開いた口が塞がらぬとは此の事だろう、解剖院から窃に死骸を買い取るなどは何所まで悪智恵の逞しい男だろう。
お浦「私の見た時は、既に首がなかったのです、多分首は倫敦で其の助手に切り捨てさせ、外の死骸と共に焼くか何か仕たのでしょう、夫だから彼の死骸が何所の何者だと云う事は分りません、何所かの貧民病院で何かの病気で死んだ女だろうと思われます」余「貴女が其の様な恐ろしい目ろみに賛成したとは驚きました」口に斯くは云う者のお浦の今までの挙動を考えて見れば、実は驚くにも足らぬのだ、曾ては秀子を虎の居る室に誘い入れ、其の生命を奪おうとまで仕たではないか、人殺しをさえ目ろむ女が、何事に躊躇する者か、お浦「私も余り恐ろしい事と思い、少しは争いましたけれど、是をせねば秀子に恨みを返す事が出来ぬと云われ、ツイ其の言葉に従う気になり、自分の指環や着物|抔《など》を与えました、高輪田は其の指環や着物を以て死骸を私と見擬《みまが》う様にし、彼の印度の織物に包んで堀の中へ投じました」余「此の様な悪事に賛成するほど秀子が憎いとは貴女も能く能くの因果です、秀子の命を奪わねば到底満足が出来ぬと見えますネ」お浦「でも秀子は当然此の世に住む権利のない人間では有りませんか、之を殺すのは唯の人を殺すとは違い天罰を補うのだと高輪田が云いました、私も成るほどと思いましたけれど今では後悔します、ハイ後悔に堪えねばこそ此の通り何も彼も打ち明けて貴方へ申すのです」
是だけは嘘らしくない、余ほどの後悔に責めらるるに非ずば仲々斯うまで打ち明ける事はせぬ、余「後悔が遅過ぎましたネ」お浦「本統に遅過ぎました、其の後と云う者は犇々《ひしひし》天罰が自分の身へ落ちて来るのかと思われました、アノ死骸が頓て堀から引き出され、貴方の証言で浦原お浦の死骸ではないと分って、全く高輪田の計略が外れたと知れた時は、私は世界の果てへでも逃げて行き度い程に思い、高輪田に其の心を伝えましたけれど、彼は猶慰めて、まだ様々の工夫が有るのだから、気長く仕揚げまで見て居ろと云い、爾して一方では私へ婚礼を迫りました、初めの中なら無論断りましたけれど、斯うまで彼と共に悪事へ深入りをしては最う断る事は出来ません、殊に彼は二言目には私を嚇かし、妻にならずば此の家へ隠れて居る事を世間へ知らせるの、又は自分へ縋って居ねば再び世間へ顔を出す時は来ぬのと様々の事を云いますから、到頭彼の言葉に従い彼と婚礼する事になりました」
余「エ、此の様に隠れて居て、能く婚礼が出来ましたネ」お浦「ハイ夫は高輪田が巧みに計らいました、彼は私の姿を変えさせ、引き連れて夜汽車に乗り、此の隣りの州へ行き、矢張り之も賄賂の力で貧しい寺の和尚を説き、婚礼の式を挙げさせ、爾して翌々日の晩に此の土地へ帰って来ました」余「其の様に式まで行うた夫婦なら生涯彼の愛を頼みとする外は有りますまい」
お浦は益々恨めしげに「エ、エ、彼の愛、彼に愛の心などが有りますものか、彼の目的は唯私を元の通り丸部の養女にして爾して叔父の財産を手に入れるのみに在るのです、彼は叔父さんが秀子の為に遺言状を作らぬ先に事を運ばねば了けぬから夫で当分は丸部家へ入り込んで居ねば成らぬと云い、私の許へは帰っても来ぬほどです、私は一人此の室に居て彼の心を考え、次第に恐ろしくなりまして、今では何うしたら宜かろうと唯途方に暮れて居るのです」
余は是だけ聞いて殆ど目の醒めた想いがした、今まで高輪田長三を何となく怪しい奴とは睨んで居たが斯うまでの悪人とは思わなんだ、是で見ると過る頃から幽霊塔に引き続いた不思議の数々は悉く彼の仕業である、余の怪我も彼、お浦の紛失も彼、怪しの死骸も彼、シテ見れば叔父を毒害する者も彼に違いない、爾だ彼は叔父を殺して其の疑いを秀子に掛けさえすれば、丸部家の財産は、少くとも半分までお浦の物に成ると信じて居る、夫が為に幽霊塔へ詰め切って居るのである、夫が為に此の際疾《きわど》い場合に於てお浦を自分の妻にしたのである、猶此の上に叔父が秀子の為に先頃作った遺言状まで盗んで揉み消して了う積りで居るに違いない、是ほどの悪事を今まで察し得なんだとは我ながら愚の至りである。
是で見ると彼は生得の大悪人だ、人間の皮を着た本統の悪魔である、幽霊塔へ来ぬ以前とても定めし悪事のみを為して世を渡って居た者に違いないと、余は知らず知らず以前の事まで遡って考えるに連れ、又大変な事を暁《さと》り得た、今の秀子、即ち其の頃の夏子が殺したと為って居るお紺婆の殺害者も若しや彼では有るまいか、叔父を毒害して其の疑いを秀子に被せようとする今の所行と、養母を殺して其の罪を夏子に着せた其の時の行いと何の相違が有る、正しく同じ人の心に出て、同じ人の手に成った、同一の事柄である、爾だ、愈々爾だ、昨夜権田時介も現に本統の罪人は此の人だと指示《さししめ》す事が出来ると云った、其の本統の罪人が此の高輪田長三でなくば、何うして此の人と指示す事が出来よう、エエ知らなんだ、知らなんだ。
第百二回 毒薬か、ハイ
お紺婆を殺したのが果たして高輪田長三だと云う事は、別に証拠の有る訳ではない、けれど余はそう感ずる、只感ずる丈では何の当てにも成らぬとは云え、宛も磁石が北の方を感ずる様に、天然自然に感ずるので、之に間違いが有ろうとは思われぬ。
何故此の感じが最っと以前に起こらなんだで有ろう、切《せめ》て今一日早かったなら、秀子を権田時介に救わせずして自分で救う事の出来た者を、縦しや救い得ぬ迄も権田時介に彼様迄は譲歩せずに済んだ者を、今と為っては如何とも仕方がない。
余は之を思うと、何がなしに只悔しく只腹立たしい、殆ど誰れ彼れの容赦もないほどの見幕で、お浦に向かっても最と邪慳に「お浦さん、貴女は実に大変な者を良人としました、貴女は未だ高輪田長三の悪事を十分の一をも知らぬのです、彼が秀子を傷つける為に、堀へ死骸を投げ込んだ位な事は極々罪が軽いのです、彼は過日来、私の叔父を毒害しようと仕て居ます、幽霊塔へ入り込んで帰らぬのは夫が為です、それに又八年以前にお紺婆を殺したのも彼の所為です、彼は通例の悪人と違い恐ろしく悪智悪才に長けて居て、自分が悪事を為すには必ず他人へ其の疑いの掛かる様に仕組んで置いて其の上でなすのです、叔父を毒害するにも其の疑いが秀子へ掛かる様に仕組んで置きました、お紺婆を殺した時も矢張り其の伝です、輪田夏子へ一切の疑いを掛けて了い、爾して自分は何事もなく助かったのです」お浦は打ち叫んだ「エエ、お紺婆を殺したのが彼の仕業、爾して叔父さんをまで毒害しようと、本統に其の様な悪人ですか、爾して私が其の悪人の妻に成ったとは」
お浦自ら長三に劣らぬ悪人なりとは云え流石、女だけ、気の弱い所が有って、男ほどには行かぬと見え、此の語を発したまま気絶して、長椅子の上へ反返《そりかえ》った。
余は何が何でもお浦には構って居られぬ、是だけの事が分ったに就いては益々早く秀子を尋ね出さねばならぬ。
イヤ、待てよ、秀子を尋ね出した所で、猶権田時介との約束に縛られて居るのだから、少しも慰めの言葉を発する事は出来ず、飽く迄も秀子を汚らわしい罪人と信じて居る様に見せ掛けて居ねばならぬ、お紺婆を殺した下手人が分ったの、叔父に毒薬を与えた本人が知れたのとは※[#「※」は「くちへん+愛」、180−上14]《おくび》にも出されぬ訳だ、何たる辛い場合だろう、併し夫にしても秀子を探し出さぬ訳には行かぬ、探し出して何とかせぬ訳には行かぬ。
幸い其のうちにお浦は人心地に復った、此の上は捨て置いても自分で回復するだろう、余は斯う見て取ったから「今誰か介抱する者を寄越します」と言い捨てて此の室を出で、此の家の女主《あるじ》を呼び、一応介抱の事を言い附けて戸表《おもて》へ出た、何うしたか知らぬけれど庭木に繋いで置いた余の馬が見えぬ、併し馬にも構って居る場合でない、其のまま外へ出て了ったが、向こうの方から慌ただしく余の馬を引いて来るは例の小僧だ、彼手柄顔に「旦那が疎漏《ぞんざい》にお繋ぎ成さった者だから、放れて飛び出しましたのを私が追い掛けてヤッと此の通り捕えて来ました」何を云うのだ自分で繋ぎを解いて乗り廻したに違いない、爾して例の通り褒美の欲しさに此の様な事を云うのだと、余は深く疑がったけれど、其のまま小銀貨を投げ与えて其の馬を受け取った、彼は猶余の顔を差し窺き「最う是だけ下されば、旦那が知り度いと思って居る大変な事を知らせて上げますけれど」余は秀子の身に就き少しの手掛かりでも得たいと思う場合ゆえ「大変な事とは何だ」小僧「貴方の尋ねて居る美人の事です、アノ日影色の着物を被た」余「己が其の美人を尋ねて居るなどと何うして知れた」小僧「今此の馬に乗って停車場まで、イヤ此の馬を追い掛けて停車場まで行き、馬車の御者から聞きました」余「シテ汝が何の様な事を知って居る」小僧「確かに銀貨二個ほどの価値の有る事を知って居ます」余は又銀貨を出して与えた、小僧「では言いますが、アノ美人が今朝早く此の家へ来ましたよ」余「此の家へ来て夫から」小僧「婆さんに逢って、大変な品物を小瓶へ一杯、買って行きました」「大変な品物とは」小僧「婆さんが容易に人に売り渡さぬ品物です、巡査にも分らぬ様にして折々内所で売る品です」余「毒薬か」小僧「ハイ」
真に秀子が毒薬を買ったとすれば今度こそは自分で呑む積りに違いない、自殺などする女でないと確かに権田が言い切ったけれど、夫は時と場合に由る事、秀子の様に、其の身の寃罪《えんざい》を解こうとする大密旨を持って居る女が、其の密旨の到底遂げるに由なきのみか又更に別に寃罪を受けんとして之を逃れる道もなきを見ては、決して自殺せぬと限らぬ、余が自ら秀子の位置に立ったとして考えても殆ど自殺の外に道がない、秀子は其の毒薬を持って何所へ行ったか知らぬけれど、兎に角も早く捜し出して自殺だけは妨げて遣らねばならぬ、と云う中に早や日は正午を過ぎた、既に自殺した後かも知れぬ、余「シテ夫は何時頃で有った」小僧「今朝私が起きた許りの時ですから、今より六時間も以前です」余「夫から其の美人が何方へ行ったかを知って居るか」
小僧「知って居ますとも落ち着く先まで私は見届けましたが、之は確かに銀貨三個の価が有り相です」
第百三回 何の謎
斯うなっては小僧の請うが儘に賃
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