輪田長三に違いないと余は勿論推量して居た、推量しては居たけれど、お浦が随意に自分の口から言い切るのを聞こうとて待って居たのだ、愈々幽霊塔にあった此の頃の幾秘密は、彼高輪田長三に繋がって居るに違いはなく、お浦の口から分って来るに違いはない。
第九十八回 危険な問題
幾等悪心のお浦にもせよ、高輪田長三の妻に成ったとは聊か憐れむ可き堕落である、余は思わず嘆息して「貴女は罪な事、邪魔な事ばかりを目《もく》ろむから此の様な始末に成ったのです」と慰めるのか罵しるのか自分にも分らぬ様な言葉を吐いた。
お浦は此の言葉にワッと泣き伏した、爾して泣き声と共に叫んだ、「道さん、道さん」斯うは云ったが流石に余を「道さん」などと幼名を以て慣々しく呼ぶのが気恥ずかしく成ったのか「丸部さん」と云い直して更に「貴方は何にも知らぬから其の様に私をお責め成さるのです、聞いて下さい、何も彼も云いますから」勿論余は聞かねば成らぬ、全体お浦が何うして幽霊塔の書斎の中で紛失したか、又其の後お浦の死骸として堀の中から引き上げられた女の死骸が何うしてお浦でなかったのか、此の辺のことは奇中の奇で、お浦自身の説明を聞く外はない、余「ハイ聞きましょう、貴女も有体に云う方が、罪が滅びます」とは云えお浦は仲々話などの出来そうな様ではない、顔の色青冷めて全身が震えて居る、余は此の様な悪人に手を触れるさえ汚らわしい程に思って居れど、此のまま置いては何の様な事に成ろうとも知れぬ故、先ず助け起こし長椅子へ息《やす》ませようと思い、其の手を取るとお浦は溺れる人の様に余の手に獅噛《しが》み附き、身体の重みを余の腕に打ち掛けた、余は彼の書斎でお浦が紛失した少し前に、丁度此の様に手に縋られ喃々《なんなん》と説かれた時の様を思い出した、余り好い気持はせぬから成る丈早く此の荷物を長椅子へ任せて了った。
けれど猶話し得そうにも見えぬから、葡萄酒でも呑ませたらと思い、室中を見廻しつつ「浦原さん飲物でも欲しくは有りませんか」お浦は人生の恨みを唯此の一刻に引き集めた様に呻き「ハイ毒薬ならば飲みましょう」と云ったが、更に「イエ、イエ、私は生まれ附き臆病です、飲み度くとも毒薬などは飲み得ません、死ぬる苦痛が恐ろしい、死ねば真暗に成った様な気持がするだろうと夫が恐ろしいのです、道さん、イヤ丸部さん、何にも要らぬから、話す間貴方の手を握らせて置いて下さい、貴方と私は幼な友達では有りませんか」と云い半分ほど身を起こして爾して聊か声を確かにして「私は本統に過ち許り重ねましたが、其の過ちは総て愛と嫉妬から出たのですよ、云わば貴方の為ですよ」
何から出たにせよ罪は罪、悪事は悪事、少しも許す所は無いが、併し愛と云い嫉妬と云い、事実には違いない、此の女が小児の頃から何かに就けて嫉妬の深かった事は余が知り過ぎるほどに知って居る、殊に其の嫉妬が余が為と云われては、余の身にも幾分か責任のある様に思われ、余は言い訳の如くに「私の為とて、私は貴女に愛せられて居るなどと少しも気が附かずに居たのですもの、又気の附く筈も有りませんワ、既に貴女から爾云ったでは有りませんか、到底私を愛する事が出来ぬから、無理な許婚を取り消して分れよう、其の方がお互いに清々すると」お浦「ハイ爾は云いましたけれど心の中は爾でなく、唯貴方と松谷秀子とが何だか親しい様に見え、夫が気に障って成りませんから、彼の様に云って分れて居れば其のうちに貴方の心が此方へ向く事に成るかと思い夫で伊国《イタリア》へ行きました。帰って来て貴方と秀子の益々親しい様を聞きも視もした時には自分で発狂するかと思いました、ハイ憎い二人、イヤ貴方と秀子とを取り殺して遣り度いと思いました」
幾等嫉妬の為にもせよ人間の道を踏み迷うに至っては、全く一人前の善心がない者で、善よりも他の念が強いのだから、即ち悪人である、斥けねば成らぬ人間である。それは兎も角も、何しろ余に取っては極めて迷惑な、又極めて危険な問題であるから余は之を聞き度くない、余「イヤ浦原さん過ぎ去った感情はお互いに云わぬ事とし、事実だけを伺いましょう」冷淡過ぎるかは知らぬけれど、余は明らかに斯う云い切って、爾して自分の掛けて居る椅子を少しばかりお浦の傍へ引き寄せ、願いの通り握らせる様に、余の手だけを差し延べて遣った、お浦は幾分か力を得た様子で「ハイ感情は云う丈気分を損じます、忘れましょう、忘れましょう、爾して事実だけ申しましょう」とて余の手を取った、云わば頼みの綱に縋る様な風である。
第九十九回 今以て大疑問
余は早く合点の行かぬ廉々《かどかど》から聞き度いと思い「全体貴女が、何うして彼の書斎で消えて了ったか、其が今以て大疑問と為って居ますが」と言い掛けるに、お浦は「イイエ、事の初めから順を追うて申しましょう」と断り、さて愈々説き出した。
「私と根西夫人と伊国の旅館で初めて高輪田長三に逢いました。其の時は何者とも知りませんでしたが、私が幽霊塔の話をすると、彼は忽ち自分が其の塔の今までの持主で、此のほど丸部朝夫氏へ売り渡したのだと云いました、彼は私が其の丸部の養女だと知ってから急に私の機嫌を取る様に成りましたが、私が松谷秀子の身の上を知るに屈強の人に逢ったと思い、充分懇意に致しました、爾して或る時秀子の事を話し、多分古山お酉と云う女中で其ののち米国へ行ったのが、金でも儲けて令嬢に化けて此の国へ帰ったのだと思うが、何うだろうと問いますと、彼は秀子の様子の容貌などを詳しく聞き、イヤ夫はお酉とは違う様だ、若しや其の女の左の手に、異《かわ》った所はないかと問い返しました、左の手は斯々で異様な手袋に隠して居ると云いました所、彼は顔色を変えて驚き、頓て、事に由ると養母殺しの輪田夏子が、何うか云う次第で生き返り姿を変じて現われたのかも知れぬと云いました。
「其のうちに彼は私が深く秀子を恨んで居る事を見て取り、果ては自分の妻たる事を承諾さえすれば共々に力を合わせて其の秀子の化けの皮を剥ぎ、何の様な目にでも逢わせて遣ると云いました、勿論私は彼の妻などに成る気は有りませんけれど一時の手段と心得、夫は随分妻に成らぬ事もないが兎も角も貴方の手際を見ねばとて成るだけ彼を釣る様に答え一緒に此の国へ帰って来たのは貴方が御覧なさった通りです。
「彼は唯一目秀子の顔を見さえすれば直ぐに輪田夏子と云う事を看破すると云い、其の積りで幽霊塔の夜会へ出ましたが、愈々秀子に逢って見ると彼は気を失うほど驚きました、何うでも輪田夏子に違いない様にも見えるけれど、能く見れば又何うしても夏子ではない様に思われる、此の様な不思議な事はない、此の上は左の手の手袋を奪い其の下に何を隠して居るかを見る一方で、之をさえ見れば確かな所を断言する事は出来ると云いました。
「之より私は唯秀子の手袋を奪うのと、貴方に逢って能く自分の心の中を打ち明けることを目的とし其の機をのみ待って居るうち、貴方の仰有る私の紛失の日が来たのです。
「アノ日私は多分貴方か又は秀子かが読書の為に来るだろうと思い、独り書斎へ忍び込んで居りますと、兼ねて長三は私が貴方に心を寄せて居る事を疑い、嫉妬の様な心を以て窃に見張って居ると見え、窓の外へ来て、恨む様な言葉を吐きました、若し彼様な所を貴方にでも秀子にでも見られては何事も面白く行かぬと思い私は長三に其の旨を説き、ヤッと彼を追っ払いました、彼が立ち去ると引き違えて貴方が一方の戸の所から這入って来ました。
「其の後の事は申さずとも御存じの通りです。夫から私は貴方の言葉に失望して、庭の方へ立ち去ると松谷秀子に逢いましたから、寧ろ此の女を貴方の前へ連れて行って、無理にでも左の手袋を取らせるが近道かと思い、話が有るからと云って誘い、引き連れて再び書斎へ行って見ますと最う貴方は居ないのです、居ないのではなく、後で分りましたが大怪我をして声も立たぬほどの有様となって本箱の蔭に倒れ、私と秀子との問答を聞いておいでなさったのです。
「最う序でですから何も彼も申して置きますが貴方の怪我も長三の仕業です、彼は私に追い払われて一旦窓から立ち去りましたけれど、立ち去ったと見せて又引き返し、アノ室の仕組は誰よりも能く知って居る者ですから、壁の間に秘密の道が有ると知り其所へ潜り込んで爾して様子を窺って居た相です、窺って居ると私が貴方に向かいアノ通りの事を云いましたから、彼は貴方が世に有る間は到底《とて》も私を自分の妻にする事は出来ぬと思いましたか、自分では嫉妬の一念に目が眩んだと云いますが私の立ち去った後、貴方が壁の傍へ来て、丁度長三の居る所へ背を向けて立ったのを幸い、ソッと秘密の戸を開き貴方を刺したのだと申す事です」
長三が其の様な事をするは余に取って左まで意外な事ではない、けれど余は今が今まで確かに彼とは思い得ず、又壁の間などに秘密の戸や秘密の道などが有る事も知らねば、到底説き明かす事の出来ぬ不可思議の事件だと思って居た、是で見るとお浦の口から未だ何の様な意外の事件が説明せられるかも知れぬ。
第百回 成功の種
勿論幽霊塔は、奇妙な建築で、秘密の場所のみ多いけれど、彼の書斎の壁の背後に人の隠れる様な所の有るは知らなんだ、探偵森主水さえ看破る事が出来なんだ、此の向きでは猶何の様な不思議の事を聞くかも知れぬと、余が耳を傾くると共にお浦は徐々《しずしず》語り続けた。
「貴方が怪我して、イヤ刺されて本箱の蔭に仆れて居ようとは私も秀子も其の時は未だ知りませんから、誰も聞く人はないと思い、云い度い儘を云い、争い度い儘に争った事は定めし御存じでしょう、爾して争いは私の勝と為り終に秀子の左の手袋を奪い取り其の下を見ましたが、全くお紺婆に噛み附かれた歯の痕が三日月形に残って居て、確かに輪田夏子だと分りました、夏子は痛く驚き怒って、此の秘密を他言せぬ様に堅く誓いを立てねば此の室を出さぬなど云い、甚い剣幕で私へ迫りました。私は之が養母をまで殺し、牢から脱け出て来た女かと思えば、唯の一刻も差し向かいで居るのが恐ろしくなり、何うかして室の鍵を奪い、戸を開いて逃げ出し度いと思い、再び争いを始めました、今度は口だけの争いではなく、身体と身体との争いです、私は鍵を取ろうとする、向こうは取られまいとする、組んづ解《ほぐ》れつ闘いますうち私は滑らかな床に足を辷らせ、自分で※[#「※」は「てへん+堂」、読みは「どう」、177−上6]と倒れました、此の時次の室の片隅から苦痛に耐えぬ声が聞こえました。
「是は貴方の声でしたが二人はそうとは知らず、さて聞いて居る人が有ったのかと一方ならず驚きました、けれど何方かと云えば秀子の方が私よりも深く驚いたのです、私は人に聞かれたとて大した迷惑は有りませんのに、秀子は誰にでも聞かれては全く身分を支える事が出来なくなります、夫ゆえ秀子は声を聞いて其の方へ馳せて行きましたが、其のあとで私の紛失と云う奇妙な事が出来たのです。
「お浦の紛失とか浦原嬢の消滅とか云って非常に世間が怪しんだ相ですが、爾まで怪しむにも及びません、私が床に仆れて起き上ろうとして居ると、横手の方から又異様な物音が、最と微かに聞こえました、振り向いて見ると、今まで戸も何もなかった壁の一方に、葢《ふた》を開けた様に戸が明いて居て、爾して、其の所から高輪田長三が顔を出して居るのです、私は何うして此の戸を脱け出そうかと苦心して居る時ゆえ此の様を見て嬉しく思いました、長三は総て様子を聞いて居たと見え、唇へ指を当てて私を招くのです、其の心は声を立てずに密に茲まで来いと云うのです、其の通りに私はソッと立って其所へ行きましたが長三は壁の間の暗い所へ私を引き入れ、何の音もせずに其の戸をしめて了い、爾して云いました、此の様な秘密の道の有る事は自分の外に知る者がないのだから是切り姿を隠して了えば充分秀子を窘《いじ》められると。
「私は、唯秀子を窘めると云う言葉が嬉しく、何分宜しく頼みますと答えました所、長三は私の手を引き壁の間から床の下へ降り、爾して穴倉の様な所へ私を入れて置いて、後ほど迎えに来るから夫まで静かに茲に居ろと云い、其の身は
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