も聞いて置き度く思いますが」権田「証拠の中で最も争い難い一物です、即ち私はお紺婆を殺した其の本人を突き留め、何時でも其の者を其の筋へ突き出す事が出来るのです、のみならず其の事が自分でないなどと強情を張る事の出来ぬ様に、何も彼も調べ上げて有りますから、多くの月日を経ぬうちに目的を達します、其の男が愈々白状して有罪と極まって御覧なさい、全社会が秀子の前に平身低頭して今までの見損じを謝し、秀子は罪なくして罪を忍んだ憐れむ可き犠牲と云われ、全国第一の名高い女と為り、非常な尊敬を博します。サア斯うまで位置が転倒して、貴方の愛する女が不名誉の極点から、名誉の極点に飛び上るかと思えば、貴方は秀子を私へ譲ったのを嬉しいと思わねば成りません、エこれが嬉しくは有りませんか」
 彼は余を慰める積りであるか将た冷やかす積りであるか、余には更に分らぬけれど、真に其の通りとすれば、余は嬉しい、然り残念ながら嬉しいのだ。
「ハイ権田さん、喜んで私は其の事を貴方に托します、斯う云ううちにも最う汽車の時間ですから立ち去りますが、直ぐにも何うか其の手続きを」権田「ハイ手続きの手初めは先刻の森主水の捕縛を解き彼の耳へ誠の罪人の姓名を細語いても済むのです」彼は斯く云いつつ、次の間の戸を開いたが、驚く可し森主水は、グルグル巻に縛られたまま、何うしてか此の戸の外まで転がって来て居る、多分二人の話を又も立ち聴き、イヤ寝聴きして居たので有ろう、寝聴きして何と思ったか知らぬけれど其の顔には相変らず怒りの色が現われて居る、併し余は彼に拘って居る暇はないから其のまま権田に分れを告げたが、権田は余の背影を見送りつつ「安心なさい丸部さん、此の探偵吏の始末も悉皆私が引き受けました、猶私は明日にも貴方の後を追い幽霊塔へ秀子に逢いに行きますから、其の時に若し秀子が少しも貴方に愛想を盡した様子がなければ、貴方は不徳なる違約者として充分に責めますよ」と云った、彼の声は絶望した余の耳へ警鐘の様に響いて居た。

第九十六回 颯《さっ》と戸帳を

 余は権田時介の声を聞き流して二階を降りた、後で権田と森主水との間に何の様な応対が有ったかは知らぬ、唯早く幽霊塔へ帰って見度い一心で停車場へ駆け附けて、やっと終列車に間に合った。
 汽車の中で漸く気を落ち着けて見ると、秀子が清浄潔白の女と分ったのは実に有難い、之だけは神にも謝したい程の気がする、けれど其の清浄潔白の女を、猶も疑う様に見せ掛け、其の女から生涯賤しまれる様に、愛想を盡され度外に措かれる様に、仕向けねば成らぬとは何たる情け無い始末で有ろう、泣いて好いか笑って好いか、我が身で我が身が分らぬとは茲の事だ。
 併し其のうちに汽車の中で眠って了い、塔の村の停車場へ着いた時、初めて目が覚めた、早や朝の七時である、何でも秀子は夜の明けぬうちに茲へ着いた筈では有るが、実際此の地へ来たか知らん、途中で何所かの停車場から降りたでは有るまいかなど、様々に気遣われ、急いで幽霊塔へ帰って見た、爾して門の番人に、第一に秀子が帰ったかと問うて見たが、昨夜遅くに倫敦から秀子に宛てた電報の来た事は知って居るが、秀子の帰った事は知らぬとの返事、其の電報が即ち余の発したのに違い無いから、シテそれを何うしたと問えば虎井夫人に渡したとの事である、自分の室へも入らずに其のまま夫人の居室に行くと夫人は例の狐猿に顔を洗って遣って居る、其の様甚だ優長には見ゆるけれど併し心の中に何か穏やかならぬ所の有るは、余の顔を見ての眼の動き工合でも分る、扨は此の夫人、既に余が養蟲園へ行き夫人の身許まで探ったのを知り、居起《いたた》まらぬ気でもするのか、夫とも外に気に掛かる所が有るか知らんと、余は疑う色を推し隠して「秀子さんは」と極く軽く問うた、夫人は狐猿の顔を拭い終わって「サア昨日何処へか出て未だ帰りませんが、倫敦から電報なども来て居ますから、早く帰れば好いと思って居るのです」云う様が毎もの嘘ではないらしい、是で見ると秀子が此の家へ帰り着かぬのが本統だろう、夫とも夜が引き明けに、丁度番人の怠って居る時に着き、其のまま自分の室へでも隠れたのか知らん。
 若し彼の電報を見たのなら、兎に角余が安心させる様に認めて置いたから落ち着いて居るだろうが、彼の電報が猶秀子の手に渡らずに有って見れば、当人は今以て心も心ならずに居るで有ろう、早く逢って安心させて遣り度い、イヤ今は安心させる訳にも行かず、逢えば唯余に愛想を盡す様に仕向けねばならぬのだけど、夫でも逢い度い、逢って顔見ねば何だか物足らぬ所が有る。
 是から余は秀子の室へも行き猶家中をも尋ねたけれど、秀子の姿は見えぬ、此の上は再び停車場へ引き返して、誰か秀子の下車したのを見た者はないか聞き合わして見ねば成らぬ、トは云え余自ら此の家へ帰り、猶生死の程も分らぬ叔父の病気を見舞わぬ訳に行かぬから、先ず其の病室へ行き看護人に尋ねて見た所、叔父は日増しに快くなる許りであるが今は眠って居るゆえ、二時間程経ねば逢う訳に行くまいとの事だ、夫では停車場へ行って来ての上にしようと、先ず馬厩へ行き、日頃乗り慣れた一頭を引き出したが、三四日誰も乗らぬ為、余ほど奮《はず》んで、殆ど張り切って居ると云う様である、鞍置かせて乗るが否や、鞭も当てぬに一散に駆け出して少しの間に停車場へは着いた、茲で少し許り聞き合わせて見ると直ぐに分ったが、秀子は確かに今朝早くの汽車で此の停車場へ降り、居合わす馬車の御者が、乗る様に勧めたけれど、それに及ばぬと断って幽霊塔の方を指して歩み去ったとの事で、其の御者さえ猶だ茲に居合わせた、サア分らぬ、愈々着いて幽霊塔の方へ行ったとすれば、何う成っただろう、曾て浦原お浦が消滅した様に、消えて了ったのか知らん、或いは停車場と幽霊塔との間で何か用達しでも仕て居るのか、何さま合点行かぬ次第だから余は又馬のまま引き返して村の方へ来ると、少し先の方で歩んで居る小僧が有る、町で朝の買物をして帰る所とでも云う様に手に物を提げて居る、近づいて見れば後姿で分って居るが、其の小僧は確かに先頃余に贋電報の発信人を密告した、彼の千艸屋と云う草花売りの婆の雇人で、手に持って居る品が、此の辺の人の持たぬ貴夫人持ちの提皮包《さげかばん》である、秀子が昨夜此の様な皮包を提げて居たか否やは覚えぬけれど、若しや秀子が草花屋へ立ち寄って此の小僧に何か買物を托したでは有るまいかと思い、馬を猶も其の方に近づけると、小僧は足音に驚いて振り向いた、振り向く途端に馬は驚き、常よりも張り切って居る為に、忽ち逸して、余が手綱を引きしめる暇もないうち横道へ走り出した、後で思うと何か人間以上の力が此の馬を導いたかとも怪しまれる程である、馬は走り走った揚句、遂に其の草花屋へ駆け込んで其の庭で踏み留まった、是だけでは別に怪しむにも足らぬけれど、此の時此の家の奥の室とも云う可き所に方《あた》る一つの窓の戸帳《とばり》を内から颯《さっ》と開いた者が有る、何でも遽しい余の馬の足音に驚き何事かと外を窺いた者らしい、併し其の者、余のpを見て又遽しく其の戸帳を閉め、内に姿を隠したが、余は自分にも信じられぬほど目早く、チラリと其の顔を見た、見て殆ど馬から落ちんとする程に驚き、思わず「ヤ、ヤ」と声を発した、此の様な所で此の様な顔を見るとは、余りの事で自分の眼を疑い度いけれど、余の眼は見損じなどする眼でない、今まで幽霊塔に満ちて居る秘密の一部分と云い度いが寧ろ大部分が今窓の中に隠れた其の顔に包まれて居るのだ、読者は此の顔を誰のと思う。

第九十七回 彼奴とは彼奴

 窓に隠れた其の顔は、実に意外千万な人である、余は一時、秀子が事をさえ忘れる程に打ち驚き、直ちに馬を庭木に繋いで其の家の玄関とも云う可き所の戸を推し開き中に這入った、中は空間同様で誰も居ぬゆえ、今しも件の顔を見た奥の間の方へ行こうとするに界の戸に錠が卸りて居る。
 戸を叩き破っても奥へ入って見ねばならぬ、余は昨夜探偵森主水を縛った事を思えば人の家宅へ闖入する罪を犯す位は今更恐れるにも足らぬ所だ、戸に手を掛けて一生懸命に揺って居ると、一方の窓から「貴方は何をなさる」と咎めつつ六十にも近く見ゆる老婆が出て来た、見れば其の手に幾個の鍵を束ねて持って居る、多分是が此の家の主婦人であろう、余は「奥の室に居る人に合わねばならぬ用事があります」と云い其の婆の持って居る鍵を奪い、婆が驚いて妨げる間もないうちに早や界の戸を開いた、此の戸の中が確かに彼の顔の隠れた室である。
 婆の足許に鍵を投げ遣って置いて戸の中へ入ると、猫に追い詰められた鼠の様に隅の方に蹙《すく》んで居るは彼の顔の持主である、最早詮方のない所と断念したのか、立ち上って余に向かい「貴方は余り邪慳です。乱暴です、人の許しも得ずに此の室へ這入って来て」と余を叱る様に云うは、正しく窮鼠の猫を噛む有様である、此の窮鼠を誰とする、読者は大概推量し得たであろう、消失して更に成り行きの知れなんだ浦原お浦である。
 お浦が何うして紛失した、何うして此の家に隠れて居た、多分は種々の秘密が之に繋がって居る事で有ろう、余は何も彼も説明される時の来た如く思い、捕吏が罪人を捕える様にお浦の手を捕り「ハイ邪慳に乱暴に、私が此の室へ闖入するのを貴女は拒む権利が有りますか、お浦さん、貴女は実に女の身に有るまじき振舞いを為し他人に非常の損害を与えました、今は其の損害を償い、神妙に謝罪の意を表す可き時が来たのです」
 お浦「エ損害と仰有るか、謝罪と仰有るか、私こそ一方ならぬ損害を受けた女です」怒る様には云うけれど、実際怒る丈の勇気はなく、事の全く破れたを知って、絶望の余り空元気を粧うて居る事は其の声の恐れを帯びて震えて居るにも分って居る、余「其の様な空々しい偽りを吐く者では有りません、損害を掛けたのは貴女で、損害を受けたのは外の女だと云う事は貴女自ら能く知って居るでは有りませんか」お浦は悔しげに余の手を払い退け「貴方は爾うまで私が憎いのですか、爾までアノ女が可愛いのですか」と打ち叫んだ、余は厳重に「憎いの可愛いのと云う事は別問題です、私は愛憎に拘らず貴女を責めるのです、斯く云えば矢張り松谷秀子を愛する為に私が云う様にお思いでしょうが、秀子を愛すると云う事は過ぎ去った夢になりました、此の後再び秀子の顔を見るか否かさえ分りません」
 お浦は驚いて一歩前に進み出で「アア到頭貴方は松谷秀子の汚らわしい素性を看破りましたか」余「看破りも何も致しません、唯松谷秀子が無実の罪を被、長い間濡衣に苦しんで居た不幸なるイヤ清浄潔白な女だと云う事を知ったのです、夫は知りましたれど、秀子は私の者ではなく全く他人の者に成りました」お浦「エ他人の、とは弁護士権田時介氏の事でしょう」余「爾です、秀子は権田時介の妻とする事に定まりました」
 お浦は何事か合点し得ぬ様に暫し余の顔を見詰めて居たが、忽ちワッと泣き出した。「エエ、欺された、欺された、アノ悪人に、彼奴め復讐をさせて遣るの秀子を滅して遣るのと云い、初めから人を欺き、爾して今は其の復讐さえも出来ずして終わるとは」余は女の涙には極めて脆い性分である、お浦の様な忌む可く憎む可き女の顔にもまこと涙の流れるを見ては甚く叱り附ける勇気がない、少しは言葉を柔らげて「貴女は誰の事を其の様に云うのです、彼奴めとは誰を指します」お浦「彼奴めとは彼奴めですよ、彼の悪人ですよ、私の所天《おっと》ですよ」余「エ、エ貴女は既に所天を持ったのですか、貴女は所天が有るのですか」お浦「ハイ彼奴が私を欺いて無理に婚礼させました、御存じの通り私は自分の過ちの為とは云え貴方に捨てられ、其の腹立たしさやら絶望の余りに益々深く彼奴の様な悪人の言葉を聴き、彼奴が貴方に対して充分恨みを晴させて遣るの、秀子を滅して遣るのと云うにツイ載せられて、ハイ私は彼奴の為に道具に使われまして、今までとても気が附いては居ましたが、今ほど明らかに彼奴の憎さが分った事は有りません」余「だけれど其の彼奴と云うのが誰の事か未だ私には分りませんが」お浦「オヤ貴方に分りませんか、彼奴とは高輪田長三の事ですよ」高
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