、殊に其の罪の為に死刑、終身刑の宣告まで受け、牢の中に憂月日を送ったとすれば既に罪だけを償った者では有るまいか、況《ま》してや死人と為って、生まれ変って来て見れば、全く別人の様な者で、前身の輪田夏子の罪の為に、後身の松谷秀子が生涯罪人の様に見做さるるは、視做す方が余り邪慳だ、決して慈悲ある人間の道では無いと、一方から此の様な気が込み上げて来れば又一方からは、幼い時から家庭、学庭、境遇、口碑などに仕込まれた是非善悪の本念が湧き起り、何が何でも罪人を敬愛する道はないと思い、余が心の裡は殆ど火水の戦争である。
 其のうちに秀子は気が附いて、徐ろに目を開き、第一に硝燈の光を見、次に室中を見、権田時介を見、最後に余の顔を見た、幸い手の古傷は権田が既に包み直した後で有った為自ら見なんだ、見廻す中に今までの事を思い出したか、小児の様な力無げな口調で「貴方がたお両人が喧嘩でも成さるかと気遣って茲の境に立って居るうち、アア気絶したと見えますよ。此の様な心弱い事では仕方がないけれど、此の頃苦労な事ばかり引き続いた者ですから」と自分の気絶を詫びる様に云うた。余は茲ぞと思い「ナニ秀子さん最う何の様な苦労が有ろうと心配に及びません、私が附いて居ますから」と云い、権田を推し退けて其の傍に近づくと、何の気力も為さ相に見えた秀子は、殆ど電気に打たれた様に身を起し、腹立たしげ恨めしげに余の顔を見詰めて「再び私の身にお障り成さるな、私は輪田夏子です」と最と苦い言葉を吐いた、如何にも権田の云った通り、気位の高い女で、痛く余の言葉を気に障え、再び余とは交わらぬ程に思って居ると見える、余は憐れむ可き有様と他人が見たら言い相な有様と為り必死の声を絞って「秀子さん、秀子さん、お腹も立ちましょうが其の様に云わずと過ぎ去った昔の事は全然《すっか》り忘れて――」秀子「ハイ貴方と一旦お近づきに成った事まで忘れましょう、最う茲に居る用は有りません、丸部さん、貴方にはおさらば[#「おさらば」に傍点]です、爾して権田さん貴方には又お目に掛ります」両人へ別様に挨拶して、未だ定まり兼ねる足を蹈みしめ早や此の室を立ち去ろうとする様子である、余は熱心に「イヤ秀子さん、茲を立ち去る前に何とか無事の地へ逃れる丈の工風を相談して定めませねば」余は秀子が明日にも探偵森主水の為に捕縛されるだろうとの念が有る為に斯う云うた、全く何処か無事の地へ、縦しや当分の間なりとも逃して置く外はない、秀子は此の声に又|一入《ひとしお》腹を立つ様に、余に振り向いて「逃れるとは何を逃れるのです、罪もないのに」余「イヤ、探偵森主水が貴女を捕縛する許りに成って居るのをヤット私が二日だけ猶予を請うたのです、二日の間に私は貴女の清浄潔白な証拠か証人かを得る為に巴里へ行き、今帰る所ですが、既にお聞きの通り其の目的を達せずに来たのですから、茲で三人の智恵を以て、何うか当分の貴女の身の隠れ場所及び其の方法を定めねば」余の言葉の未だ終らぬに戸の外から「イヤ二日の猶予は既に切れたのですから其の相談の無益と云う事をお知らせに、nイ此の森主水が参りました」と云って此の室へ這入って来る者が有る、見れば確かに、先刻忍び提灯で此の家の門札を読んで居た怪しい男である、是が森主水であったとは驚いた。

第八十九回 呼吸の根

 探偵森主水は何しに来た、松谷秀子を捕縛に来た、エエ、彼の来るのが今半時も遅かったなら、余は充分秀子を逃す丈の手続きを運んだ者を、其の相談の未だ定まらぬ中に遣って来たとは、其所が探偵の機敏な所とは云え折も折、時も時だ、実に余は驚いた、余のみでない権田時介も驚いた、松谷秀子も驚いた、暫し三人で顔見合わす許りである。
 一人驚かぬは森主水だ、彼は先にも記した通り大きな眼鏡を掛け、自分の面相を変えては居るが三人の驚く様を平気で見て憎らしいほど落ち着いて、徐ろに其の眼鏡を取り外し、冷かに笑って「アハハハ、此の眼鏡が大層役に立ちました、是がなければ丸部さん此の門口で貴方に気附かれる所でしたよ、実は此の婦人が」と云いつつ秀子の方を目で指して「幽霊塔を出る様子ゆえ、或いは世に云う風を喰って逃げ出すのでは有るまいかと、姿を変えて後を尾けて来たのですが、イヤ逃げ出す為ではなかったけれど、尾けて来た甲斐は有りましたよ、何も彼も戸の外で立ち聴きして、今まで合点の行かぬと思ったことも皆合点が行きました、全体立ち聴きと云う奴は余り気持の好い者でなく、又、余り安心して居られぬ仕事でも有りませんけれど、此の様な功能があるから、此の職業では用いずに居られません、丸部さん、丸部さん、貴方も口ほどには信用の出来ぬ方ですねえ、決して松谷秀子を逃さぬと私へ固く保証し、其の保証の為に二日間の猶予を得て置いて爾して御自分が先に立って秀子を無事の地に逃れさせる議を持ち出すなどとは、併しナニ茲が痴情の然らしむる所でしょう、私としても貴方の地位に立てば貴方と同様のことを目論むかも知れませんから先ア深くは咎めますまい、兎も角も貴方の其の目論見を妨げて、貴方が法律上の罪人に成るのを喰い止めたのは何よりも幸いです、他日貴方も痴情が醒め、静かに考え廻して見れば実に好い所へ森主水が来て邪魔して呉れた、彼が来なくば全く罪人を逃亡させる容易ならぬ罪に触れる所で有ったと御自分で私を有難くお思いなさる、ハイ夫は必ずですよ」
 自問自答の様に述べ終って、更に容儀を正して爾して秀子の方へ振り向いた、此の時まで余は唯呆気に取られ殆ど茫然として居たが、彼が容儀を正すを見て、初めて真成に秀子の身の危険な事を暁《さと》った、彼は容儀の改まると共に、全く厳めしい法律の手先と云う威厳が備わり、何となく近づき難い所が現われた、権田時介も余と同様に、此の時初めて秀子の危険を知り、容易ならぬ場合と思ったか、電光の様に余に目配せした、余も同じく目配せした、目配せの中には暗々《やみやみ》秀子を渡して成る者かと云う意味が籠り充分互いに通じて居る。
 森主水は秀子に向かって「モシ、輪田夏子さん綽名《あだな》松谷秀子嬢、貴女を茲で捕縛するは私の最も辛く思う所ですが、私情の為に公の職務を怠る訳には行きません、養父丸部朝夫に対し毒害を試みた嫌疑の為に、貴女は唯今から私の捕縛を受けた者とお心得なさい」丁寧な言葉では有るけれど、其の意味は「御用だぞ、神妙にせよ」と叱り附けるのと少しも違いはない。
 アア養母殺しの輪田夏子、死刑終身刑の宣告を受け、首尾よく牢を脱け出だして松谷秀子と生まれ代わり今は又養父殺しの罪に捕わる、業か因果か、無実の罪か抑《そもそ》も又|覿面《てきめん》の天罰か。
 余と権田とは再び眼を見交わせた、船を同じくして敵に合わば呉越も兄弟、今まで競い争うた恋の敵も、秀子捕縛の声の為には忽ち兄弟の様に成って、言い合わせる暇もないが、早くも二人の間に分業の課が定まり、時介は飛鳥の様に室の入口に飛んで行き、其の戸に堅く錠を卸し、猶念の為にと自分で戸を守って居る、此の心は探偵を其の室から此のままは帰さぬ積りであろう、余も其の呼吸に少しも後れず、直ちに後ろから森主水に飛び附いて、抱きすくめ、爾して其の顎をば拉《ひし》げるほどにしめ附けた、之は声を立てさせぬ用心である。此の様な事には余の大力が最も適して居る、権田とても随分頑丈な男では有るが、荒仕事に掛けては大力の評判の有る余に及ぶ筈はない、彼自らそうと知って其の身は戸を守る役を勤め荒仕事を余に振り分けたは当意即妙と賞めても好い、探偵は余の手の内で悶くけれども宛も悪戯児供の手に掛かった人形の様である、グーの音も出る事でない、権田は此の様を見て「好く遣った、其の手を少しでもお弛め成さるな、探偵などと云う者は得て呼子の笛を鳴らします、其の笛を鳴らしたら、万事|休焉《きゅうす》です、今に私が呼吸の根を止める道具を持って来ますから」と云って次の室へ退いた。

第九十回 鸚鵡返し

 探偵森主水の呼吸の根を止めると云って、権田時介は何の様な道具を持って来る積りか知らん、次の室へ這入って了った。まさかに探偵の息の根を本統に止める訳には行かぬ、余には余だけの考えがある。
 けれど森主水は必死の場合と思ったか、時介の恐ろしい言葉を聞いて益々悶掻き始めた、余は実に気の毒に堪えぬ、然り余の心には充分の慈悲があるけれど余の手先には少しも慈悲がない、彼が悶掻けば悶掻くだけ益々しめ附ける許りである、此の様を見兼ねたか、松谷秀子は青い顔で余の前に立ち「此の方が幽霊塔で私の挙動を見張って居た探偵ですか、若しそうならば何うか其の様な手荒な事を仕て下さるな、私の為に人一人を苦しめるとは非道です、私は捕縛せられようと、何うされようと最う少しも構いません」健げなる言い分では有るけれど余は唯「ナアニ」と云って聞き流した、思えば実に邪慳な乱暴な振舞いでは有る、余は自分で自分が非常な悪人に成った様に感じた、若し他人が女の為に探偵を此の様な目に逢わせたならば余は其の人を何と云うであろう、決して紳士と崇めは仕まい、それもこれも皆秀子の為だから仕方がない。
 其の中に時介は次の間から出て来た、見れば四五人の人を捕縛しても余る程の長い麻繩と、白木綿の切れとを持って居る、彼は縛った上で猿轡を食《は》ませて置く積りと見える、余の了見とても詰りそれに外ならぬ、唯秀子を無事に落ち延びさせる迄此の探偵の手足の自由を奪い、爾して声を出させぬ様に仕て置けば宜いのだ、時介は余に向かい「丸部さん、少しも手を弛めては了ません、足の方から私が縛りますから、ナニ私は水夫から習って繩を結ぶ術を心得て居りますよ、私の結んだ繩は容易に解ける事では有りません」と云い早や探偵の両足を取り、グルグル巻に巻きしめて縛り始めた。
 森主水は幾等悶掻いても到底余の力には叶わぬと断念《あきら》めたか悶掻く事は止めた、其の代わり彼の眼には容易ならぬ怒りの色を浮かべ、余の顔を睨み詰めた、人を睨み殺す事の出来る者なら余は此の時睨み殺されたに違いない、たとい決心はして居る身でも、斯う睨まれては余り宜い心地はせぬ、何とか、言葉だけででも慰めて遣り度い、余「森さん、森さん、恨めしくも有りましょうけれど、ナニ全く貴方の為ですから我慢なさい、今此の通り貴方の自由を奪わねば、貴方は罪のない秀子を捕縛し、職務上の失策として後々まで人に笑われますよ、先刻貴方は好意を以て、私が罪人を助ける罪を妨げて遣るのだと仰有ったが、今は其のお礼です、私も厚意を以て、貴方の職務上の大失策を妨げて上げるのです、ナニ秀子が無事に落ち延びて、貴方の手の届かぬ所へ行けば、直ぐに貴方を解いて上げます、其の時には解いたとて貴方が失策をする種が有りませんから」と殆ど鸚鵡返しの様に云うた、彼の心が此の言葉に解けたか否やは判然せぬ。
 彼は物言いたげに口を動かそうとするけれど、其の顎をしめ附けて居る余の手が少しも弛まぬから如何ともする事が出来ぬ、唯犬の唸る様な呻き声を発する許りだ、秀子は此の様を見、此の声を聞き「丸部さん、何うあっても其の方を許して上げぬのですか」と云い、更に権田時介に向かい「貴方は紳士の名に背く様な卑怯な振舞いはせぬと先刻も仰有ったでは有りませんか、此の様な振舞いが何で卑怯で有りませんか、何で紳士の名に負《そむ》きませんか、私の名を傷つけまいと思うなら、何うか其の繩をお捨てなさい」権田も一様に聞き流して、早や腰から手から首の所まで、宛も簀巻《すまき》の様に森主水を縛って了い、最後に猿轡をまで食ませ終った、権田「サア丸部さん是ならば呼吸の根を止めたのも同様です、次の間へ運んで暫く押入れの中へ投げ込んで置きましょう」言葉に応じて余は彼の首を、権田は彼の足の方を、双方から捕えて舁ぎ上げ、次の間へ運んで行き、瓦礫《がらくた》道具でも扱う様に押入れの中へ投げ込んで戸を閉じた。

第九十一回 真に烈女

 手も足も首も胴も、長い繩でグルグル巻に巻き縛られては、幾等機敏な森主水でも如何ともする事は出来ぬ、余と権田とに舁ぎ上げられ、手もなく次の室へ運ばれて押入れへ投げ込まれたは、実に見じめな有様である。
 余は彼を次
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