の室へ運びつつも、秀子が何の様に思うて居るかと、横目で其の様を見たが、秀子は青い顔を益々青くし、唇を噛みしめて、爾して一方の壁に靠《もた》れ、眼は只室内を見詰めて居る、全く心中に容易ならぬ苦しみが有って、非常の決心を呼び起こそうとして居るのだ、或いは自殺でもする気では有るまいか。
 之を見ると実に可哀相である、世間の娘達は、猶だ是位の年頃では浮世に艱難の有る事を知らず、芝居や夜会や衣服や飾物に夢中と為って騒いで居るのに、如何なれば此の秀子は牢にも入り死人とも為り、聞くも恐ろしい様な境涯にのみ入るのであろう、犯せる罪の為、心柄の為とは云う者の、斯くまで苦しき思いをすれば大抵の罪は亡ぶる筈だ、最う既に亡び盡して清浄無垢の履歴の人より猶一層清浄に成って居るかも知れぬ。
 此の様に思いつつ元の室へ出て来ようとすると権田は背後から余を引き止め「お待ちなさい、茲で相談を極めて置く事が有ります」余「エ茲で、茲では森主水に聞かれますが」権田「構いません、爾ほど秘密のことではなく、殊に秀子の前では言いにくい事柄ですから」余「では聞きましょう、何の相談です」権田は今探偵を投げ込んだ其の押入れの直ぐ前に立ったまま「是から秀子を逃がすとしても、只一人で逃がす訳にも行かず、貴方か私か随いて行って、愈々之で無難と見届けの附く迄は一身を以て保護して遣らねば成りませんが、其の任は何方が引き受けます、貴方ですか、私ですか」
 余は縦しや秀子を我が妻には為し得ぬ迄も、永く後々まで有難い人だと秀子の心に善く思われたい、茲で保護の役を引き受ければ外の事は兎も角も充分恩を被せる事が出来るから、少しも躊躇せず「夫は無論私が勤めます、貴方は弁護士と云う繁忙な身分ですから」権田「イヤお為ごかしは御免です、職業などは捨てても構わない決心です」余「そう仰有れば私の方は命でも捨てて宜い決心ですが」権田「イヤ斯う争えば果てしがない、寧その事、秀子に選ばせる事に仕ましょう、選ばせるとは聊か心細い手段では有るけれど仕方がない」余「宜しい」と云って承知し、二人で元の室へ帰って見た。
 オヤオヤ何時の間にか肝腎の秀子が、居なくなって居る、察するに秀子は、今し方唇を噛みしめて非常な決心を呼び起こそうと仕て居る様に見えたが、全く決心が定まって何処へか立ち去った者と見える、錠を卸して有った入口の戸が明け放されて居る、兼ねて権田が、何時でも自分の室へ随意に出入りの出来る様に合鍵を渡してある事も之で分る、余「オヤオヤ若し自殺でもする積りで馳け出したのでは有るまいか」権田「馳け出したには相違ないが自殺の為では有りません、自殺する様な気の弱い女なら今までに自殺して居ます、深く自分に信ずる所が有って、其の所信を貫く為に牢まで出たほどの女ですもの、容易に自殺などしますものか」余「兎に角も其の後を追い掛けねば」権田「お待ちなさい。何でも是から何処かへ身を隠す積りでしょうが、非常に用心深い気質ですから、後で人に見られて悪い様な書類や品物を焼き捨てる為に幽霊塔へ引き返したに違い有りません」余「では私は直ぐに幽霊塔へ帰ります、兎に角、停車場まで行って見ます」
 早や立ち上ろうとすると権田は又も引き留めて「ナニ幽霊塔へ行ったなら、此の通り森主水を押さえて有るから秀子が直ぐに捕縛される恐れはなく、猶だ一日や二日は安心です、緩々私と相談を極めた上でお帰りなさい」余「左様さ愈々幽霊塔へ行ったのなら一時間や二時間を争う訳では有りませんが、若し幽霊塔へ行かずに直ぐに出奔したなら大変です、兎に角停車場まで行き、見届けて来るとしましょう」権田「ではそう成さい、ですが、若し停車場で秀子に逢っても貴方が一緒に幽霊塔へ帰っては了ませんよ、唯秀子に、猶二三日は大丈夫だから落ち着いて幽霊塔に居ろ、其のうちに安全な道を開いて遣るからと斯う云って安心させ、爾して此の家へ引き返してお出でなさい」成るほど是が尤もな思案である、余と権田との間に、未だ少しも相談の極まった所がないから、最う一度引き返して来べきである。「宜しい、好く分りました」との一語を残して余は直ぐにパヂントンの停車場へ馳せ附けたが、生憎塔の村へ行く汽車の出る所だ、一髪の事で余は後《おく》れたのだ、ハテな秀子が此の汽車へ乗ったか乗らぬかと気遣いつつ其の汽車を見て居ると、一等室の窓からチラリと秀子の姿が見えた、さては全く幽霊塔へ帰るのだナと是だけは先ず安心し、次の汽車は何時かと時間表を検めると今のが真夜中の汽車で、次のは午前一時半の終列車だ、猶だ一時間半だけは権田と相談する事が出来ると、気を落ち着けて、茲で電報を認め、秀子へ向けて兎も角も一二日は安心だから余の帰るまで幽霊塔を去る勿れとの文意を送り、爾して約の如く又権田の許へ引き返した、全体権田が何の様な事を云う積りだか、聞き度くも有り聞き度くもなしだ。
 権田はイヤに落ち着いて煙草を燻らせて居たが、余から停車場での事柄を聞き取り終わって「ソレ御覧なさい、私の云うた通りです、秀子のする事は自分の事の様に私の心へ分ります」余「其の様な自慢話は聞くに及びません、早く相談の次第を」権田「云いますとも、サア此の通り私には秀子の心が分って居るに附いて、有体に打ち明ければ、イヤお驚き成さるなよ、残念ながら秀子の心は少しも私へ属せず深く貴方へ属して居るのです」恋の敵から斯様な白状を聞くは聊か意外では有るけれど余は当り前よと云う風で「夫が何うしたのです」権田「全くの所、秀子が先刻気絶したのも貴方に自分の旧悪を知られ、貴方が到底此の女を妻には出来ぬと断言した為、絶望して茲に至ったのですけれど、お聞きなさい、貴方は到底秀子に愛せられる資格はない、既に旧悪の為愛想を盡したのだから、エ爾でしょう、夫に反して此の権田時介は先刻も云った通り少しも旧悪に愛想を盡さぬのみか、其の旧悪をすら信じては居ぬのです」余「エ、旧悪を信ぜぬとは」権田「詳しく云えば秀子は人殺しの罪は愚か何等の罪をも犯した事のない清浄潔白の女です」余「何と仰有る、裁判まで受けたのに」権田「其の裁判が全く間違いで、外に本統の罪人が有るのに周囲の事情に誤られて、無実の秀子を罰したのだから、夫で私が秀子を憐れむのです。否寧ろ尊敬するのです、秀子は真の烈女ですよ」

第九十二回 貴方は人間

「秀子が清浄、秀子が潔白」余は思わず知らず声を立て、跳ね起きて室中を飛び廻った、真に秀子を何の罪をも犯した事無く、唯間違った裁判の為牢に入れられたとすれば少しも秀子を疎んず可き所は無い、寧ろ憐れむ可く愛す可く尊敬す可きだ、権田の云う通り全くの烈女である、世にも稀なる傑女である。
 とは云え意外千万とは此の事である、如何に裁判には間違いが多いとは云え何の罪をも犯さぬ者が、人殺しの罪人として、罪人ならぬ証拠が立たず、宣告せられ処刑せられる様な怪しからぬ間違いがあるだろうか、余りと云えば受け取り難い話である。
 若しも秀子の人柄を知らずして此の様な話を聞けば余は一も二も無く嘲り笑って斥ける所である、今の世の裁判に其の様な不都合が有る者かと誰でも思うに違い無いけれど、秀子の人柄を知って居るだけに、そう斥ける事が出来ぬ、何う見ても秀子は罪など犯す質では無く、其の顔容、其の振舞い見れば見るほど清くして殆ど超凡脱俗とも云い度い所がある、此の様な稀世の婦人が何で賤しい罪などを犯す者か。
 余が初めて秀子の犯罪をポール・レペル先生から聞いた時、何れほど之を信ずるに躊躇したかは読者の知って居る所である、余は顔形の証拠に圧倒せられ、止むを得ず信じはしたが、決して心服して信じたでは無い、夫だから信ずる中にも心底に猶不信な所があって動《やや》ともすれば我が心が根本から、覆《くつがえ》り相にグラついた、其の故は外で無い、唯秀子其の人の何の所にか、到底罪人と信ず可からざる明烱々《めいけいけい》の光が有って、包むにも包まれず打ち消すにも打ち消されぬ如く感ぜられる為で有る。
 爾れば意外であるけれど、其の意外は決して、罪人と聞いた時の意外の様に我が心に融解し難い意外では無い、罪人と聞いた時には余は清き水が油を受けた様に心の底から嫌悪と云う厭な気持が湧き起こって、真に嘔吐を催す様な感じがした、決して我が心に馴染まなんだ、今度は全く之に反し、一道の春光が暖かに心中に溶け入って、意外の為に全身が浮き上る様に思った、極めて身に馴染む意外である、此の様な意外なら幾等でも持って来いだ、多ければ多いだけ好い、縦しや信じまいとした所で信ぜぬ訳に行かぬ、心が之を信ぜぬ前に早や魂魄が其の方へ傾いて、全く爾に違い無いと思って了った。
「エ、貴方は真に其の事を知って居ますか」とは余が第一に発した言葉である、権田「知って居ますとも、今では其の犯罪人が秀子で無い、此の通り外に有るのだと証明する事が出来ます、貴方に向かっても世間へ向かっても、法律に向かっても立派に証拠が見せられるのです、其の証拠を見せるのも、見せぬのも別言すれば罪人が外に在るなと証明するも証明せぬも、単に私の心一つですと云い度いが、実は丸部さん貴方の心一つですよ」余「エ、エ、貴方は、其の様な証拠を握って居ながら、今までそれを証明せずに秀子を苦しませて置いたのですか、全体貴方は人間ですか」と余は目の球を露き出して問い返した。
 権田「イヤ先ア、そう遽て成さるな、決して知り乍ら故と証明せずに居た訳では無い、纔かに此の頃に至って其の証拠を得たのです、尤も私は秀子の件イヤ輪田夏子の件を弁護した当人ですから其の当時幾度も秀子即ち夏子の口から全く此の人殺しは自分で無いとの言葉を聞き大方其の言葉を信じました、信ずればこそ一生懸命に肩を入れ充分弁護しましたけれど、如何せん其の時は総ての事情が秀子に指さして居る様に見え、私も反対の証拠を上げ得なんだ者ですから、弁護も全く無功に帰し、秀子即ち夏子は殺人の刑名を受けましたけれど、其の時私は秀子に向かい、真に貴女が殺さぬ者なら、遅かれ早かれ終には誠の罪人の現われ、何所にか其の証拠が有りましょうから、貴女が牢に入って居る間に私が其の証拠を捜しますと受け合い、秀子も亦、甘んじて此の乱暴な裁判に服する事は出来ぬから、何の様な事をしてなりと牢を抜け出で、盡くすだけの手を盡くして、縦んば唯の一人なりとも此の世に輪田夏子は殺人の罪人でないと信ずる人の出来る様にせねば置かぬ、此の目的の為には自分の生涯を費やす覚悟だと殆ど眼に朱を注いで私へ語りました、即ち秀子が牢を脱け出たも其の結果です、牢に居ねばならぬ義務の有るのに牢を抜け出る世間の脱獄者とは聊か違うのです、牢に居る可き筈がないのに唯法律の暴力の為に圧せられて、止むを得ず牢に居るから及ぶ丈の力を以て其の暴力の範囲から脱け出たのです、脱け出て後も、今日まで全力を其の目的の為に注いで居たのでしょう」
 是で見れば秀子が密旨と云ったのも多分は其の辺に在ったであろう、尤もそれだけとしては猶多少合点の行かぬ所も有りはするけれど、兎に角大体の筋道だけは分った、余は殆ど目の覚めた気持がする。

第九十三回 そこが相談

 余は何も彼も打ち忘れて喜んだ、「成るほど権田さん、アノ裁判は間違いに違いない、秀子が人殺しなど云う憎む可き罪を犯す女でない事は誰の目にも分って居ますよ」権田は嘲笑って「爾ですか、誰の目にも分って居りますか、実に貴方は感心ですよ、自分の妻と約束までした女を、ポール・レペル先生から人殺しの罪人だと聞けば直ぐに其の気になり、今又私から罪人でないと聞けば、何の証拠も見ぬうちに又成るほどと合点成さる、実に暁《さと》りが早いですネエ」余は殆ど赤面はしたけれど「ハイ証拠を見ずとも是ばかりは信じます、秀子の容貌、秀子の振舞いなどが百の証拠より優って居ます」
 斯う云い切って更に考え見れば、唯喜んでのみ居る可き場合でない、愈々其の様な清浄無垢の女なら早く其の清浄無垢が世に分る様に取り計って遣らねばならぬ、余「イヤ権田さん、私が軽々しく有罪と信じ又無罪と信ずる反覆は如何にも可笑しいでしょう、之は何の様な嘲りでも甘受しますが、夫よりも先に其の秀子の清浄な
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