かに養蟲園の事柄から巴里へ行って来た次第をまで述べ終り、「多分貴方が秀子を劫《おびや》かす為に顔形の複写を作らせただろうと鑑定しましたが、其の複写を何うしました」権田「お察しの通りに致しました、帰ると直ぐに秀子の許へ送りました」余「エ、既にですか」権田「ハイ既にです」余「爾して其の結果は何うなりましたか」権田「私の予期した通りになりました」
余は今以て秀子を気遣う心が失せぬ、畢竟其の心が失せねばこそ、此の通り権田の許へも立ち寄った訳では有るが、此の言葉を聞いては猶更気遣わしい心が増した、秀子が余の叔父に毒害を試みた事が何うも確からしいとは云えそれでも無暗《むやみ》に秀子を窘《いじ》めて懲らせようとは思わぬ、何うか穏便な取り計いで、余り窘めずに方を附けたい、余「権田さん、夫は甚いと云う者です、秀子は昨今身に余る程の心配を持って居ますのに夫を又劫かすなどとは余り察しのない仕方では有りませんか」権田「イヤそれもこれも総て貴方の所為です、貴方が秀子の心を奪うたから私は止むを得ず邪慳な挙動に出るのです」余「エ何と、私が秀子の心を奪うた」権田「勿論です、秀子は本来私の妻たる可き女です、最う貴方は秀子の素性を能く御存じゆえ、少しも隠さずに云いますが、牢から秀子を連れ出したも私の力、今の通り無事に此の世に居られる事にしたのも私の力です、私は権利として秀子を自分の妻、自分の物と言い張る事は出来ますけれど、唯私の恩を感ずるのみで、私を愛すると云う情の起らぬ者を妻とするも不本意ゆえ、其のうちには愛の心も出るだろうと気永く親切を盡して居るうち、貴方が横合いから出て秀子の心を奪ったのです、全体此の様な事と知れば秀子を貴方の叔父上の家へ入り込ませる所ではなかったのです、唯当人が是非ともと云うに任せ、真逆に貴方に奪われるだろうとは気も附かず其の望みを許したのが私の間違いでした」余は殆ど茲へ故々権田を尋ねて来た主意さえ忘れ「自分の間違いなら間違いで、断念《あきら》めるが好いでは有りませんか、猶も未練を残し、非常な手段を取って、劫かすなどとは何たる仕方《しうち》です」
権田「イヤ其の様なお説教は今更貴方から受けるには及びません、茲で差し当りの問題は秀子が貴方の物か将《は》た私の物かと云うを極めるに在るのでしょう」余「夫は爾ですが――」権田「爾ならば余計の問題は入りません。唯一言で決します、貴方は秀子の素性を知った上で、猶秀子を妻にする勇気が有りますか」余はグッと詰った。「サアそれは」権田「それはもこれはも入りません、貴方は明日にも叔父上の前へ出て秀子は全くの所、昔幽霊塔の持主お紺婆を殺した犯罪者として裁判所に引き出され、叔父上貴方が死刑を主張した輪田夏子ですが、私は家名よりも夏子を深く愛しますから、直ぐに彼の女と結婚しますと立派に言って、爾して立派に秀子を妻とする丈の勇気が有りますか」余は身を震わせて「妻とする事は最う断念せねば成りませんが、夫でも秀子を愛する事は誰にも劣りません、私は最う秀子の素性を知り、自分の理想が消えて了い、殆ど生きて居る甲斐もない程に思うのです、何うか此の後の秀子の身の落ち着きを安楽にして遣り度いと思い」
権田「イヤ妻にする事が出来ねば最う何にも仰有るな、秀子の身の上に口を出す権利はないのです、貴方に反して私は、明日にも秀子が承諾すれば、世間へ叫び立てて自分の妻にするのです、之が為に名誉を失おうと地位信用を落そうと其の様な事は構いません、秀子に対する私の愛は貴方の愛に百倍して居るのです」余は大声に「貴方の愛は野蛮人の愛と云う者です、名誉にも道理にも構わず、唯我意を達すれば好いと云う丈で、心ある女は決して其の様な愛を有難いとは思いません、何うして其の様な野蛮人に秀子を任せて置く事が出来ます者か」と云ううち次の室《ま》から何やら物音が聞こえたゆえ、驚いて振り向くと何時からか知らぬが、秀子が次の室と此の室との界《さかい》に立って、余と権田との争いの様を眺めて居る、余は今まで自分の熱心に心が暗み、少しも気が附かなんだけれど、先刻から茲に居たのに違いない。
第八十七回 三日月形
秀子が茲に来て居ようとはホンに思いも寄らなんだ、而も一々余の言葉を聞いて居たとは実に気の毒な次第である。
アア分った、余が此の室の入口へ来た時に、中で何だか話して居る様な声がしたのは秀子であった、外から叩く戸の音に、余が来たとは知らぬから時介が遽てて次の室へ隠したのだ、爾して次の室で聞いて居ると余だと分った故、室の境まで出て来たが、其の身に関する大変な談話だから、出もならず去りもならず、立ちすくんで聞いて居たのだ。
爾と知ったら余は最っと物柔かに云う所であった、最早妻にする事は出来ぬの、牢を出た身であるのと気色に障る様な言葉は吐かぬ所であった、斯様な言葉をのみ聞いて何れほどか辛く感じたであろう、定めし居|耐《たた》まらぬ想いをしたに違いない、いま物音をさせたのも余りの事に聞きかねて気絶しかけ、身の中心を失って蹌踉《よろめ》いた為ではあるまいか、何うも其の様な音であった。
斯う思って見ると、秀子は全く身を支えかね、今や仆《たお》れんとする様である、其の顔色の青い事其の態度の力なげに見ゆる事は本統に痛々しい、仆れもせずに立って居られるが不思議である。
秀子の眼は余の顔に注いで居るか権田時介の顔に注いで居るか、寧ろ二人の間の空間を見詰めて爾して目ばたきもせずに居る、アア早や半ば気絶して居るのだ、気が遠くなって、感じが身体から離れ掛けて居るのだ。
余が斯う見て取ると同時に其の身体は横の方へ傾いて、宛も立木の倒れる様に、床の上へ※[#「※」は「てへん+堂」、156−上9]《どう》と仆れた、余は驚いて馳せ寄ったが、余よりも権田の方が早く、手を拡げて余を遮り「可けません、可けません、貴方は今自分の口で明らかに秀子を捨てて了いました、秀子の身体に手を触れる権利はないのです、介抱は私が仕ますから、退いてお出でなさい」嫉妬の所為だか将た発狂したのか権田は全く夢中の有様で、秀子を抱き起して一方の長椅子の上へ靠《もた》れさせた。
見れば秀子は左の前額《ひたい》に少しばかり怪我をして血が浸《にじ》んで居る、仆れる拍子に何所かで打ったのであろう、余は手巾を取り出し、其の血を拭いて遣ろうとするに、之をも権田が引っ奪《たく》って自分で拭いて遣った、全く此の男の恋は野蛮人の恋であると、余は此の様に思いながら熟々と秀子の顔を見たが、真に断腸の想いとは此の事であろう、其の美しい事は今更云う迄もないが、美しさの外に、汚れに染まぬ清い高貴な所が有る、世に美人は幾等も有ろうが斯くまで清浄に見ゆる高貴な相は又と有るまい、顔を何の様に美しくするとも将た醜くするとも、此の何とのう高貴に感ぜられる所だけは取り除ける事も出来ず、附け添える事も出来ぬ、本統に心の底の清い泉から自然に湧いて溢れ出る無形の真清水とも云う可きである。
或る人の説に相《そう》は心から出る者で、艱難が積れば自ら艱難の相が現れ悪事が心に満つれば、顔の醜美に拘わらず自ら悪相と為り、又善事にのみ心を委ね、一切の私慾を離れて唯良心の満足をのみ求めて居る人は、自ずから顔に高貴の相が出来、俳優《やくしゃ》も真似する事が出来ず画工も彫刻師も写す事の出来ぬ宏壮な優妙な所の備わって来ると云ってある、此の秀子の事が正しく其の宏壮な優妙な所の備わった者ではあるまいか、人を殺し牢を破る様な女が、私慾を離れて良心の満足を求めるなどとは余り不似合に思われもするけれど、何う見ても宏壮で爾して優妙である、悪心などは一点も現れて居ぬ。
若し、一点だも此の顔に悪意悪心の認む可き所が有ったら、余は何れほど安心したかも知れぬが、唯一点も其の様の所のない為に全身を切り刻まれる様な想いがした、何うして此の女を思い切ることが出来よう、此の女の外には世に「清い」と云う可き者はない、罪あっても罪に染《そ》む顔でない、汚れても汚れはせぬ、之に悪人悪女の様に思うては罰が当るとは、殆ど空|畏《おそろ》しい程に思い、腹の底から「オオ秀子さん許して下さい、私は今と云う今、自分の不実、自分の愚かさを思い知りました」と我知らず打ち叫んで、再び権田を跳ね退けて、秀子の身に縋り附こうとすると、権田は猶も強情に遮って「丸部さん、今更何と後悔しても及びません、其の証拠には、コレ之を御覧なさい」と云いつつ、秀子の左手を取って、其の長い手袋を脱《はず》し爾して手首の所を露出《むきだし》にして余に示した、示されて余は見ぬ訳に行かぬ、見たも見たも歴々《ありあり》と見たのだが、是こそは秀子が生涯の秘密として今まで堅く人に隠して居た旧悪の証跡である、お浦が秘密を見届けたと叫んだも之であろう、高輪田長三が曾て夏子の墓の辺で秀子の手を取り争うて居たのも此の証跡を見ん為で有っただろう、証跡とは他ではない、お紺婆が臨終の苦痛に噛み附いたと云う歯の痕である、肉は死骸の口に残り、生涯不治の痕を遺したと幾度か人の話に聞いて居る、見れば全く骨までも達した者で、三日月形に肉が滅して最とも異様に癒え上って居る、余は二目と見る勇気がない、権田時介は余の顰《しか》む顔を見て「ソレネ、是が貴方と秀子とを離隔する遮欄《しゃらん》です、それに反して私は、之がなくば秀子を我が物とする事が出来なんだかと思い之を月下氷人とも崇め做すのです」と云いつつ其の手を取り上げて熱心に其の傷の所に接吻した、余はゾッと身の震うを制し得ぬ。
第八十八回 逃れる工夫を
三日月形の創の痕を甞め廻して、権田は聊か心が沈着《おちつ》いたのか、余り気狂いじみた様子も見えなくなった、静かに秀子の其の創の手を弄ぶ様にして居る、爾して彼は説き明かす口調で「丸部さん、私がアノ顔形の復写を何うしたとお思いです、直ぐに私は無名で以て秀子に送り届けました、定めし秀子は驚いたでしょうが、驚かせるのが私の目的です、驚かせて遣らねば秀子は私の許へ来ませんもの」是だけ云って余の顔を見、余が聞き入って居るを見届けて「イヤ全くですよ、秀子は近来、貴方にさえ保護されれば此の世に少しも恐い者はないと思ったか、私へ対しての振舞いが甚く冷淡に成りました。用事の有る時は相談も仕ますけれど、不断は殆ど捨てて顧みぬ有様です、併し私はそう冷淡に取り扱わる可き筈で無い、秀子の為に命の親とも云うべき者です、夫だから何うか此の家へ呼び寄せて悠《ゆっく》り諭し度いと思い、色々考えて見ましたが、夫には顔形を以て威かすに限る、無名で以てアノ顔形を送りさえすれば、秀子は自分の身の弱点を思い出し、此の秘密が消えぬ以上は何うしても権田時介の保護を離れる訳に行かぬと思い、且は顔形の送り主が何者であるか之に対して何の様な処分をすれば宜いか此の辺の相談に必ず私の許へ馳け付けて来よう、来れば何の様な話でも出来ると私は斯う思いました、斯う思って此の通りに仕た所、果して秀子は私の所へ遣って来て纔《わず》かに話を始めた所へ又貴方が来たのです、貴方の為に肝腎の話を妨げられたは遺憾でしたが、イヤナニ今思えば結句幸いになりましたよ、貴方の口から秀子を妻にする事は出来ぬとの一言を私が聞いたのみならず確かに秀子も聞きました、御存じの通り秀子は仲々気位の高い女ですから、アノ一言を聞いた以上は決して貴方の妻には成りません、此の後貴方が何の様に詫びたとて無益な事です」
余は殆ど死刑の宣告を聞く様な気持がした。余の一言を秀子が此の様に怒るだろうか、怒って何の様な詫びにも心が解けぬ事になるだろうか、斯う思うと実に心細い、今現に目の前に秀子の美しい顔と、其の気絶した傷々しい様とを見て、此の女から生涯疎まれる事に成るかと思うと殆ど一世界を失う様な心地がする、エエ残念、残念と思うに連れ、秀子の犯した罪さえも、何だか左程咎めるに足らぬ様な気がして、腹の中で其の軽重を計って見ると、決して悪意でお紺婆を殺した訳では有るまい、善悪の区別も未だ充分には呑み込めぬ我儘盛りの年頃で、甚く心の動く事が有って我知らず殺すに至ったとすれば随分其の罪を赦しても宜い
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