と秀子との関係も分った、先生「けれど秀子は少しも心細い様子はなく、ナニ米国は日頃から私の好む国ですから云わば故郷へ行く様な心持ですなどと答え、又権田も爾でしょうとも、貴女の様に読み書きも音楽も、人並優れて能く出来る身なら何所へ行くとも故郷へ還ると同じ事ですなどと云いました、それより間もなく米国を指し私の許を立ち去りましたが、其の時の姿の美しさは私自身さえ我が手術の巧妙に驚く程でした、散髪頭で遣って来た美少年姿の輪田夏子とは縦《よ》し多少の似た所は有るとも全くの別人と見え、是ならば新しい生命を与えた者と云って少しも差し支えはないと思いました。
「斯う全く別人に生れ替りましたから最早再び法律に触れる事などは有るまいと思いましたのに矢張り犯罪者は天性罪を犯す事に其の性質が出来て居ると見え、又も法律に触れて再び私に其の顔を作り直して貰わねば成らぬ事に成ったのですか、何たる因果な女でしょう、併しナニ其の様な事を批評するは私の職業で有りません、私は唯貴方がたのお頼みに応じ再び新たに生命を賦《ふ》して遣る丈の事です、何時でも宜しいから当人を連れてお出で成さい」
先生の言葉は是だけで終ったが、余は何と返事して好いか分らぬ、此の時の余の気持は真に察して貰い度い、今まで女の手本とも人間の儀表《ぎひょう》とも崇め、此の女に見習って我が心を清くしようと、旦夕《あけくれ》拝む様にして居た其の女が人殺し、牢破りの怪物だとは、世に是ほどの意外な事が又と有ろうか、余は一生の燈明が忽ち消えて暗黒の中へ身を投じた様な思いがした。
今までは証拠に証拠を積み重ねるとも秀子に悪事が有るなどとは決して信ぜず、之が為には全世界と闘うも辞せぬ程に思ったが今は先に立って秀子を罵らねば成らぬ、責めねばならぬ、素性が分れば心の中も能く分った、其の様な悪女で有ればこそ様々に手を盡してついに余の叔父の養女と為ったのだ、其の目的は外でもない、叔父が検事の職分を以て輪田夏子の罪案に対し、死刑を主張した者だから、自分の罪は思わずに唯叔父を恨み、何うかして仇を復そうとて先ず叔父の懐の中へ這入ったのだ、時々密旨を帯びて居る様に云う其の密旨は叔父へ復讐するに在るのだ、夫だからこそ夏子の墓へ詣でるのだ、詣でて死刑の悔しさや怨めしさを毎朝自分の心へ呼び起し復讐の熱心の一刻も冷めぬ様にして居るのだ、思えば、思えば恐ろしい毒々しい根性も有れば有る者、爾して其の心で時々余を煽動《おだて》て、暗に自分の密旨を手伝うて呉れろと云う様に勧め、猶其の上に、或る時は他人の事の様に夏子の事を物語り、又或る時は叔父が何れほど彼の死刑を主張したかと聞き出そうと勉めるなど、思い当る節も多い、爾して今は、何うか斯うか其の目的を達し、到々叔父を毒害する迄に至ったのだ、夫を知らずに唯秀子を助け度い一心で奔走に奔走した余の愚かさも愛想が盡きる。何で今まで気が附かずに居たのだろう。
第八十四回 最後の一言
余は全く自分の愚かさと、秀子が素性の穢らわしさとに愛想を盡したと云え、深く心の底に根を卸した愛の情は仲々是しきの事で消えて了う者では無い、唯残念だ、唯情け無い、真に手の裡《うち》の珠をでもなくした様な気持がして、急に身の上が、淋しく心細く成って了った。アア彼の様な者を愛せねば宜ったのに、愛しさえせずば其の素性を聞き、驚きはしようとも斯う絶望はせぬ筈だのに。
残念、残念と幾度か呟いて、泣き出したい様な気になり、暫し何事も心に移らぬ様で有ったが、頓て先生の声に気が附いた、先生は余の肩を推し「モシ丸部さん、丸部さん、貴方は再び秀子嬢の顔を作り直して貰う為に来たではないのですか、その為でなくば何の為です、貴方の目的は何所に在ります」余は身を悶えて「エエ、其の様な目的ではないのです、貴方に逢えば秀子の素性の清浄潔白な事が分るかと思ってハイ其の清浄潔白を世に知らせる確かな証拠を得たいと思って」先生「オヤオヤ夫はお気の毒です、少しでも秀子の素性を潔白らしく認めたくば私の許へ足踏みをしては成らぬのです、茲は穢い素性ばかり集めてある畜蔵所の様な者ですから、手もなく貴方は反対の方角へ来たのです」余「ハイ是で自分の愚かさに愛想が盡きまして」先生「そう仰有られては私も、何とも早やお気の毒に堪えませんが、と云って先刻受け取った報酬をお返し申す訳には行きません、私は何所までもアノ報酬に対し自分の勤むべき丈勤める覚悟のみならず報酬を得た上で無くば打ち明けられぬ貴重な秘密を打ち明けて、云わば貴方に活殺《かっさつ》の灸所を握られたと一般ですから」
勿論報酬を返して貰い度いなどとは思わぬ、唯何となく悔しくて殆ど身の置き所もない程故、余は何の当ても決心もなく、徒《いたずら》に室の中を駆け廻った、今思うと定めし気違いじみて居た事だろう。
頓て余は、再び卓子の前に立ち留り、愛らしい夏子の顔形と美しい秀子の顔形とを見較べた、是さえなくば此の様な辛い思いもせぬだろうにと、男にも有るまじき愚痴の念が湧いて来た、余「先生、先生、貴方が秀子と夏子と同人だという事を証拠立てる品物は、唯此の二個の顔形と、裏に書き附けてある貼紙とだけですか」先生は怪しむ様子で「ハイ勿論是だけです、是だけとはいう者の、之が幾十幾百の他の証拠より有力です」余は少しの間だけれど真に発狂して居たかも知れぬ、「是さえなければ秀子の素性を証明する事は六かしいのですネ」先生「爾ですとも是さえ無くば、少くとも秀子と夏子と同人だと云う事を証明するは、六かしいのみならず殆ど出来ぬ事でしょう」余は此の語を聞くよりも直ちに二個の顔形を手に取り上げ裏の貼紙を引き剥《めく》りて、爾して其の顔形を力に任せて床の上に叩き附けた。
先生はびっくりして、余の手を遮り「何をなさる、何を成さる」と叫んだけれど後の祭りだ、顔形は極|脆《もろ》い蝋の細工ゆえ、早や床の上で粉微塵に砕けて了った、余は猶も飽き足らず先生の手を振り払って顔形の屑《かけら》を粉々に踏み砕いた、先生は呆気に取られ、呆然と見て居たが、又忽ち余を捕え「貴方は余りな事を為さる。其の顔形をなくして置いて、爾して私を其の筋へでも訴える気で」余「イエ、爾では有りません、先刻の三千ポンドで此の秘密を買ったのですから、私の自由に秘密を消滅させて了うのです。此の顔形は私の買い受け品です」先生は余の顔と砕けた顔形、否寧ろ蝋の粉とを見較べた末、聊か安心する所が有った様子で、「イヤまさかに貴方が、私を其の筋へ訴えもなさるまい、顔形を砕かれたのは残念ですが、成るほど三千ポンドの代りと思えば致し方が有りません、断念《あきら》めましょう、貴方も最う長居する用事は有りますまい、サア御勝手にお帰り成さい」云いつつ此の室の鉄の戸を開き余に指し示した。余「勿論長居する事は有りません、帰ります」後をも見ずに立ち去ろうとすると先生は最後の一言を吐いた。「念の為申して置きます、若し是で最う秀子の素性を証明する物がないなどと安心して私をイヤ私の職業を其の筋へ訴えなど成さると間違いますよ、此の顔形は此の頃権田時介氏の注文に由り、別に一組同じ物を作りましたから」
第八十五回 帽子を眉深に
権田時介に頼まれて同じ顔形を作ったと云う先生の最後の一語は、嘘か実か、或いは余をおびやかして其の筋へ訴えるのを妨げん計略の様にもあれど、又思えば権田が先に小腋に挾んで去った品が、如何にも此の顔形の箱と同じ物の様にも見えた。
併し余は深く考える心はない、唯「其の様な事は何うでも宜しい」と言い捨てて此の家を立ち出でた、余ほど時間の経った者と見え、早や夜|深《ふ》けて、町の往来も絶えて居る。
夜中は何うする事も出来ぬ故、宿を尋ねて一夜を明かし、翌日直ぐに英国へ帰って来たが倫敦へ着いたのは、夜の九時頃である、途々の船の中、汽車の中、唯心を動かすは松谷秀子の事ばかりで全体此の後を何う処分して好い事か更に取り留めた思案は出ぬ、秀子が人殺しと脱獄の罪を犯した恐ろしい女で有る事も確かで、復讐の為幽霊塔へ入り込んで既に余の叔父を毒害せんと試みた事も確かである、是だけの所から云えば探偵森主水に次第を告げ秀子を捕縛させる一方である、併し又他の方面から考えれば秀子と余との間は夫婦約束の成り立って居る事も事実、秀子が愈々捕縛せらるれば余と叔父との丸部一家に拭う可からざる不名誉を来たすのも事実である。
縦し不名誉にもせよ罪人を保護する訳には行かぬ、まして叔父の命を狙い、恐ろしい毒草を隠して居る罪人を、若し保護するに於いては全く人間の道を逆行する者である、と斯う迄は幾度も思い定めるけれど余の心中には猶一点の未練が有る、自分で掻き消すにも掻き消されぬ、勿論斯う成った以上は秀子を余が妻にする訳には行かぬ、けれど何だか可哀相でも有る、茲の思案が決せぬ間は家に帰って叔父に逢う訳にも行かぬ、秀子に逢う訳には猶更行かぬ、余は倫敦へ着いた者の其の後は何うして宜いか暫しがほど躊躇したが、漸くに思い定めたのは、兎に角に権田時介に逢って見ようとの一念である。
彼|抑《そもそ》も何が為に余に先んじてポール・レペル先生を尋ねたか、果たして顔形を得る為とすれば何が為に其の顔形を要し、何が為に其の復写を作らせたのであるか、或いは彼、秀子を余に取られた悔しさに、其の顔形を以て秀子をおびやかす積りかも知れぬ、爾だ、何うせ爾とより外は思われぬ、若し其の様な心とすれば、彼と余との間に於いて秀子の問題を決着させねば成らぬ、孰れにしても逢って話せば分る事だ。
愈々権田時介の住居の前に着いたのは夜の十時頃である、雨も蕭々《しょぼしょぼ》と降って居て、町の様も静かであるのに、唯不思議なは、何者だか権田が家の入口に立ち、探偵又は盗賊《どろぼう》など総て忍びの職業をする者が用うる様な忍び提灯を高く差し附け門札の文字を読んで居る、爾して余の近づく足音に、其の者は直ちに提灯を消し、コソコソと暗《やみ》の中へ隠れて了った、何者であるか更に想像は附かぬけれど確かに帽子を眉《ま》深に冠り、目には大きな目鏡を掛けて居た様に思われる、通例の人ではなく、他人に認められるを厭う人だと云う事は是だけで分って居る。
併し余は自分の身に疚《やま》しい所がないから、敢えて恐れぬ、深く詮索の必要が有ろうとも思わぬ、縦しや有った所で実に詮索する便りもないのだ、其のまま余は中に入り権田の室の戸を叩くと、中には何だか話し声が聞こえて居たが、戸の音に連れ、其の声は忽ち止まり、遽しく物など片付ける様な音が聞こえた、余の察する所では密話の相手を次の間か何所かへ退かせたのだ。
爾して置いて中から戸を開いたのは権田自身である、戸の間から差す燈の光に見れば、彼は肝腎の話を妨げられて忌々《いまいま》しと云う風で顔に一方ならぬ不機嫌の色を浮べて居る、殆ど眉の間に八の字の皺を寄せて居ると云っても好い、彼は余の顔を見て「オヤ丸部さんですか」と云ったが「サアお這入りなさい」とは言わぬ、寧ろ「お帰りなさい」と云い度げに構えて居る、余も爾《さ》る者だ、「御覧の通りです、他の人では有りません」と答えて無躾に戸に手を掛け引き開けて、殆ど権田を拒退《おしの》ける様にして室の中に入り、「先《ま》あ掛けさせて呉れ給え」と有り合わす椅子の上に腰を卸した。
第八十六回 差し当りの問題
無理に室の中へ入って、無理に腰を卸した余の無遠慮な振舞いに権田時介は少し立腹の様子で目に角立てて余の顔を見詰めたけれど頓て思い直したと見え「アア何うせ貴方とは充分に話をせねば成りません、寧《いっ》そ今茲で云う丈の事を云い、聞く丈の事を聞くとしましょう」とて、始めて座に就いた。
余は先ず来意を述べ「今夜来たのは松谷秀子の身に就いて篤と御相談の為ですが、第一に伺い度いは、貴方の両三日来の振舞いです、貴方は巴里のレペル先生の許から顔形を持って来た相ですが其の顔形を何うしました」
随分短兵急の言葉ではあるが、権田は物に動ぜぬ日頃の持ち前に似ず、殆ど椅子から飛び離れんとする迄に驚いて「エ、巴里のレペル先生とな、何うして其の様な事を御存知です」余は言葉短
前へ
次へ
全54ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
黒岩 涙香 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング