や》かした事は余が確かに聞いた所だ、其の時秀子は余の許へ来てさえも手巾《はんけち》を以て巧みに左の手を隠して居た、左の手に恐ろしい証拠の傷が有るにあらずば、何が為に斯くまでも左の手を隠すだろう、是だけで余が唯一点の望みも何うやら消えて了う様だ。
高輪田長三が初めて来た時に、虎井夫人が非常に恐れの色を現わし、遽てて秀子を逃がした事も有る、是も輪田夏子と云う本性を長三に見現されるかも知れぬと気遣うた為では有るまいか、秀子が屡々夏子の墓へ参詣するも、夏子の死んだ事を何所までも誠しやかに思わせる為では有るまいか、或いは又何か心に思う所が有って、我と自ら我が墓に誓うのでは有るまいか、長三が此のたび余の叔父に手紙を遣り、秀子の素性をあばき立て叔父が痛く驚いたと云う、秀子が争い得ずして白状したと云うも、実は輪田夏子だと云う素性の事では有るまいか、是等は唯推量に止まるとするも外に余が直々《じきじき》に見た事柄も多少は有る。
松谷秀子が幽霊塔の時計の巻き方をまで知って居たのは何の為だ、輪田夏子ならば充分知って居る筈では有るが、夏子でなくば知って居るいわれがない、其のほか塔の秘密に属する事を誰よりも多く知って居るなどは幼い時から塔の持主お紺婆に養女として育てられた輪田夏子に悉く当てはまる、更に近頃に至っては養蟲園の一室に秀子の着物と、監獄で着る女の着物と一所に在ったなども一方ならぬ参考である、秀子が其の実夏子だとすれば少しも怪しむ可き点はない、夏子であればこそ屡々穴川甚蔵に強請《ゆす》られもするのだ、甚蔵の姉(だか妹だか)に当る虎井夫人を憎みながらも猶自分の傍より追い退ける事が出来ぬのだ。
唯穴川甚蔵が余を此の先生の許へ差し向けた一条だけが聊か合点の行かぬ様にも思われるが、イヤ是とても能く考えれば分って居る、甚蔵は甚く余に劫《おびや》かされ、最早逃れる路は唯余に秀子の素性を知らせ、愛想を盡かさせるに限ると見て取り、止むを得ず、余を茲へ寄越したのだ、まさかに殺人女と知った上で、余が猶も秀子を愛し、秀子の為に人を劫かし、又は法律の力を借りなどする事は有るまいと見て取ったのだ、秀子が若し夏子でなければ、成るほど甚蔵は余に巴里へ行けなど呉々《くれぐれ》も云う筈はない。
斯様に思い廻して見ると、今まで秀子を輪田夏子だと気の附かなんだが鈍《おぞ》ましい、秀子が夏子だと云う事は殆ど到る処に現われて居る、余は恋と云う妄念に目が眩み、是ほど明白な事実を見る事が出来なんだであろうか、余りの事に余は絶望とも何とも形容の出来ぬ恨みが胸に満ち、我が身を掻きむしりたい思いがする、ポール・レペル先生が何事をか頻りに説明して居る様であるけれど少しも耳に入らずして全く聞き損じて了った。
第八十一回 古新聞
余は全く先生の言葉を聞き損じたから、尚一度繰り返して呉れと請うた、何でも先生は第一号の顔形が全く輪田夏子だと云う事を充分に説明したらしい。
先生は返事もせずに室の隅に行き、古新聞の様なものを持ち出して来て無言のまま余の前に差し附けた、余も無言の儘で之を見たが、案の如く数年前の倫敦の新聞紙で、輪田夏子が裁判に附せられた時の記事が有る、記事の中に肖像が有って「老婆殺し輪田夏子」の最新の写真と書き入れて有る、能く見ると其の顔は殆ど幼な顔とも云う可きほど若いけれど第一号の顔形と同人と云う事は争われぬ。
余は殆どグーの音も出ぬ、只呆れて、我知らず椅子を離れて立ち上った、最早少しの疑いを挾む所はない、秀子は全く夏子の化けた者である、心の底には猶承知し兼ねる所が有る様な気もするけれど、是だけの証拠が有っては到底承知せぬ訳に行かぬ、承知の仕にくいのは余の愚痴、余の未練と云う者だ、エエ男たる者が斯うも未練では仕方がない、と余は奮然として云い直し「己れ人殺しの悪女め、能くも淑女に化け替って今まで余と叔父とを誑《たぶら》かした、是からは其の手は食わぬぞ」と口の内で罵った。
先生は嘲笑う様な調子で「何うです、最う迷いが醒めましたか」余「ハイ全く醒めました、少しの疑いも存《のこ》りません」先生「では秀子のイヤ夏子が此の家へ来てから、秀子と云う新しい生命を得て立ち去った迄の次第を一通り聞かせて上げますから、先ず落ち着いてお聞きなさい」とて再び余を、取り鎮める様にして椅子に凭《よ》らせ扨明細に説き出した。
「余計な事は省きまして千八百九十六年の七月の初めでした、医師大場連斎の手紙を持って英国の弁護士権田時介が私の許へ参りました、私は兼ねて権田氏の名だけは新聞の上で知り、且殺人女輪田夏子を熱心に弁護した人だと云う事も覚えて居ました。来訪の用事は、或る美人の顔を作り直して貰い度いが、全く同人と見えぬ様に作り直す事が出来るか、其の価は幾等であるか爾して其の秘密は何時までも無難に保たれるかと云う問合せの為でした。
「勿論総ての点を私は満足に答え、今まで私の手を経た人は再び見破られた例《ためし》がないと云いました。イイエ是は決して手前味噌では有りません、私が此の手術を発明して以来、牢を脱けたり、法律を逃れたりした人達が、私から新たな生命を受けたのは殆ど数え切れぬほどで其の顔形は既に今見た穴倉の両側の押入れに満ちて居る程ですが、中には英人も仏人も露人米人、濠洲人に至るまで殆ど全世界の人が有ります、けれど孰れも今は全くの別人と為り済まして無事に世を送って居ます、甚しいのは死刑の宣告を受け、上告中に脱獄して、爾して私の救いを受け、一年と経ぬうちに、然る可き履歴書を作って、直ぐに其の同じ牢屋の監獄医に採用せられた人も有るのです」
是、暗に大場連斎を指す者に違いない、扨は彼も一たび死刑の宣告まで受けた身の上であるのか、是で見ると此のポール・レペル先生自身も自分に新生命を与えた一人かも知れぬ、此の様な発明は最初に人の身体へ試験する事は出来ず必ず自分の身に実験して、爾して此の通り法律の網を潜る事が出来るぞと罪人社会へ手本を示した者であろう、斯う思うと先生の称号を加えるが何となく忌わしい心地もする。
先生「是程手広く人を救うて能くも此の職業の秘密が世間へ洩れずに居る事を怪しむでしょうが、夫は最う充分に大事を取って有るのです。私が先ず腹蔵なく依頼者の秘密を聞いた上でなければ需《もとめ》に応ぜぬは是が為です、依頼者は既に私は自分の悪事を聞き取られた上に前身の顔形と後身の顔形とを取られて居ますゆえ、全で私に咽喉首を握られて居る様な者で決して私の事を口外し得ないのです、口外すれば自分の生命がないのです、夫だから私の職業の秘密は其の人の生命と同じほど大切に守られて来たのです、イヤ是は話が横道へ反《そ》れました、是から権田時介の来て後の次第を申しましょう」
第八十二回 美少年
先生の言葉は次の如く引き続いた、「扨私が何の様にでも女の顔を作り直して遣ると答えた者ですから、権田時介は大いに喜び、それでは近々連れて来るから宜しく頼むとて立ち去りました、是より二週間も経て後ですが、英国の新聞に、殺人女輪田夏子が牢死したという事が出ました、私は之を見て、自然に権田時介の事を思い出し、様々に考えて様々の想像を附けましたが、それから二週間ほどすると、権田時介が一人の少年を連れて参りました。
「初めは美人と云う話で有ったのに、美少年であるのかと私は聊か怪しみましたが、能く見ると、顔の美しさ丈でも明白です、男に化けた女です、牢の中に居た為に頭の毛を短く刈られ、あんまり見っともない者だから、男にしたのかと私は斯う思いましたが、実はそれより猶深い理由が有ったのです、其の時権田は私へ向い、「是なる少年が、兼ねてお願い申して置いた松谷秀子嬢です」といいました。私は何気無く聞き取りましたが愈々手術に取り掛かる約定を極める時と為って権田に向い、「腹蔵なく依頼者の身の上を聞いた上でなくては」と主張し「第一権田さん、依頼者の松谷秀子という姓名では了ません。輪田夏子と云う本名でなくては」と皮肉に急所を突いて遣りました、是には権田も驚きましたよ。
「到底私を欺く事は出来ぬと見て権田は打ち明けました、実は輪田夏子では有るけれど何うか此の秘密を守って呉れといいますから、勿論だと答え、夫から権田は立ち去って夏子だけが私の許へ残りました、其の後で夏子から詳しく事情を聞きましたが、兼ねて夏子は脱獄の考えが有って、権田時介に其の旨を打ち明け、時介から充分其の目的の達する様にして遣るとの約束を得て居ましたけれど好機会を得ぬ為に遷延《せんえん》して居たのです、所が監獄の医を勤めて居る彼の大場連斎が権田の意に加担し、好い工夫が有ると云い兼ねて自分の手下とする一人の老看護婦を連れて来ました、爾して謀事《はかりごと》の委細を夏子に伝えた者ですから、夏子は其の差し図に従い病気を言い立て診察願いを出しました、診察は即ち大場連斎がするのですから、成るほど是は容易ならぬ病症《びょうき》で、外面には爾までにも見えぬけれど心臓に余ほどの危険な所があるなどといい、一も二もなく監獄の病院へ入れました。
「つまり夏子を死人にして監獄病院から担ぎ出すという計略で、夏子へ極めて危険な薬剤を与えました、其の薬剤には印度に産するグラニルという草から製した麻薬ですが極めて人身へ異様な影響を及ぼすのです、或る分量を服すれば即死しますが、又分量を変ずれば死人同様の姿と為り、脈も呼吸も停《とま》って了い、爾して四十時間乃至五十時間の後に、酒の酔いの醒める様に蘇生します、蘇生すると蘇生せぬとの分量の差という者は極めて僅かの者で、若し之を服用する人の身体に、医師の知らぬ弱い所でも有ったなら、蘇生の分量でも蘇生せずに本統の死人と成るのです、此の薬は私が連斎に教えたのですが、彼は其ののち幾度も実用して分量の加減などは私よりも上手に成ったと見えますよ。
「夏子は中々勇気の有る女と見え、その危険な薬を、怯《ひる》みもせずに呑んだ相ですが、無論死人同様の有様に成ったと云います、折から七月の炎天の際故、一時も早く葬らねば死骸が腐敗すると云う口実を以て、権田時介が外面から運動し、少なからぬ賄賂《わいろ》を使い、其の力で到頭病院から死骸を引き取り、外の所へ葬ると云う許可を得たのです、爾して死骸を連れ出して、直ちに幽霊塔の庭へ葬った様に見せ掛けたが、実は薬の分量が宜しきを得た者か、予想の通りに蘇生して私の許へ来る事になったのです。
「サア斯様な訳ですから、夏子其のままの姿では一歩も外へ出る訳に行かず、尤も病院を出た時には髪の毛などもかなりに長く延びて居た相ですけれど、私の許へ連れて来るのに何うしても男姿として人目を眩《くら》ます外はないとて頭髪を短く刈ったのだと云いました、私の許に居る中に髪の毛は長く延び、其の第一号の顔型の箱へ、剪《き》って入れて有る通りに成りました」
第八十三回 一生の燈明
先生は猶語り続けた。「延びた髪の毛も前に申した通り、薬の力で色が変わり、其のうちに顔の総体も私の手術で全く別人の様になりました。尤も其の間に権田時介は二度ほど秀子の許を尋ねて来ました、毎も私が立ち会った上で面会させました、権田の用事は一つは私の手術を進むを見届けるのと秀子の其の後の身の振り方を相談するとに在ったのです。
「勿論私の手術には彼一方ならず驚き、秀子の顔を見て全く見違える様に成ったと云いました、それから相談の結果で、秀子は兎に角も米国へ行き、同国で多少の地位とか履歴とかを作った上で此の国へ帰ると云う手筈に定まりました、夫から権田は其の次に来た時に、米国の弁護士や政治家などに宛てて幾通の紹介状を作って秀子に渡し、恐らく今まで渡米した英国の婦人で斯くまで充分の紹介状を持って行った者は有るまいと云い、猶秀子に向って全くの一人旅とは違い、事に慣れた伽《とぎ》が一人附いて行くから心細い事はないなどと励ます様に云いました、其の伽とは監獄の病院で大場連斎の手下に成って秀子の脱獄を助けた老看護婦で、本名は知りませんが虎井夫人と偽名する様な打ち合わせでした」
扨は彼の虎井夫人は其の時から秀子の附添いと為ったのか、是で夫人
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