身体の神髄から、ゾッと寒気を催して、身震いを制し得ぬ、先生も何だか神経の穏かならぬ様な声で「茲に秀子の前身と後身が有るのです」と云い、今度は自分で彼の仏壇の様な戸を開き掛けた、余は物に臆した事のない男だけれど、自分で合点の行かぬほど気が怯《ひるん》だ、何でも今が、恐ろしい秘密の露《あらわ》れ来る間際に違いない、人生に於ける暗と明との界であろう、先生の此の次の言葉が恐ろしい、恐ろしいけれど又待ち遠い、胸の底から全身が固くなって殆ど息を継ぐ事も出来ぬ。
第七十五回 死人の顔形
仏壇の様な戸の中も、略ぼ左の棚と同じ工合で、白木の箱が二個乗って居る。
何の箱であるか更に合点が行かぬ、けれど唯気味が悪い、先生は暫く双方の棚を見比べて居たが頓て決定した様子で「矢張り前身を先にお見せ申しましょう、爾すれば私の手腕が分り、成るほど新しい生命を与える人だと合点が行きます」
斯う云って左の棚から其の箱を取り卸した。「サア此の箱を開けて御覧なさい」余は開ける丈の勇気が出ぬ、「ハイ」と云ったまま躊躇して居ると先生はじれった相に「では私が開けて上げましょう」とて余の手に在る鍵の束から一個の鍵を選り出し「ソレ此の鍵の札と此の箱の記号とが同じことでしょう、貴方には是が分りませんか」と叱りつつ箱を開いた、兎に角之ほど用心に用心して納《しま》って居る箱だから中には一方ならぬ秘密を隠して有るに違いない、鬼が出るか蛇が出るか余は恐々に其の中を窺いて見た。
第一に目に留まるは白い布だ、白い布で中の品物を包んで有るのだ、先生は箱の中に手を入れて其の布を取り除き、布の下の品物を引き起した、何でも箱の中に柱が有って、蓋する時には其の柱を寝かせ、蓋を取れば引き起す事の出来る様に成って居るのだ。
引き起された其の品は何であろう、女の顔である、余は一時、生首だろうかと怪しんだが生首では無い、蝋細工の仮面である、死んだ人の顔を仮面に写して保存して置く事は昔から世に在る習いで其の仮面を「死人の顔形」と称する由であるが、此の蝋細工は即ちそれである、誰の顔形だか兎に角も顔形である、余は一目見て確かに見覚えの有る顔と思ったが、見直すとそうでない、円く頬なども豊かで先ず可なりの美人では有るが、病後とでも云う様で気の引き立たぬ所が有る、寧ろ窶《やつ》れたとも云う可きである。
先生は更に箱の中から、少し許りの髪の毛を取り出した、死人の遺身《かたみ》かと思われる、其の色は緑がかって聊か黒味を帯びて居る、随分世に類の多い髪の毛だ、先生「此の仮面と此の髪の毛を見て何と思います」余「別に何とも思いませんが」先生は聊か気の落ちた様子で「ハテナ」と小首を傾け更に「仮面の裏を能く御覧なさい」とて仮面を柱から外して、余に渡した。余は其の言葉通り仮面の裏を見たが貼り紙が有って何事をか認めて有る、其の文字を読むと驚くべしだ。「輪田|阿夏《おなつ》」とあって、更に「殺人罪を以て裁判に附せられ有罪の宣告を経て終身の刑に処せらる」とあり、次の項に「千八百九十六年七月二十五日大場連斎氏の紹介、権田時介氏連れ来る。同年同月十一日に故あって獄を出たる者なりと云う」との文字がある。
輪田お夏とは幽霊塔の前の持主お紺婆を殺した養女である、千八百九十六年に牢の中で病死し其の死骸は幽霊塔の庭の片隅に葬られ、石の墓と為って残って居る、秀子が屡々其の墓へ詣で居たのみならず、同じお紺婆の養子高輪田長三も其の墓の辺に徘徊して居た事は余が既に話した所である、墓の表面には確か七月十一日死すとの日附が有った、茲には其のお夏が同じ日に出獄した様に記し、其の月の二十五日に権田時介が茲へ連れて来た様に記して有るのは何の間違いであろう。
余は叫んだ。「先生、先生、貴方は欺かれたのです、殺人女輪田お夏が茲へ連れられて来るなどとは実際に有り得ぬ事です、死骸と為って地の下へ埋って今は其の上へ石碑まで立って居ますが」先生は少しも怪しむ様子がない。
「勿論石碑も立って居ましょうか、併し夫は事柄の表面さ、アノ墓をあばいて御覧なさい、空の棺が埋って居る許りです」余「エ、何と仰有る」先生「イヤ此のお夏は一旦死んで、爾して私の与えた新しい生命で蘇生《よみがえ》ったのです、死んだお夏は此の顔形で分って居ますが更に、其の蘇生った時の顔をお目に掛けましょう」云うより早く先生は仏壇の様な中から又彼の白木の箱を取り卸し、前と同じ事をして同じ顔形を引き起した。「サア是を見れば、云わずとも事の次第が分りましょう、エ丸部さん合点が行きましたか」余は更に其の顔形を見たが、此の方は松谷秀子である、秀子の顔を、ソックリ其の儘蝋の仮面に写したのである。
第七十六回 真の素性
勿論、愛らしい活々した秀子の美しさが蝋細工の顔形へ悉く写し取らるる筈はない、此の顔形を真の秀子に比ぶれば、確かに玉と石ほどの相違はある、けれど秀子の顔を写した者には違いない、人間業で秀子の顔を、他の品物へ写すとすれば是より上に似せる事は到底出来ぬ。
けれど、何が為に秀子の顔形が人殺しの牢死人輪田夏子の顔形と共に、此の先生に保存せられ、余の眼前へ持ち出されたであろう、夏子を秀子の前身だといい、秀子を夏子の後身だというのだろうか、其の様な意味にも聞こえたけれど余りの事で合点する事が出来ぬ、牢の中で死んだ夏子と、余の未来の妻として活きて居る秀子と、何うして同じである、養母を殺すほどの邪慳な夏子と一点も女の道に欠けた所のない完全な秀子と何うして同じ人間である、余は遽しく先生に問うた。
「秀子の顔形と夏子の顔形との間に何の関係があるというのです」
先生は少しも騒がぬ、少しも驚かぬ、寧ろひとしお落ち着いて、誇る様な顔附きで「是で私の手腕が分ったでしょう、斯様な事に掛けては、此のポール・レペルは今日の学者が未だ究め得ぬ所をまで究めて居ります、電気、化学、医療手術等の作用で一人の顔が、斯うも変化する事は、殆ど何人も信じません、政府と雖も信じません、信ぜねばこそ今までポール・レペルの職業が大した妨げを受けずに来たのです」余「では秀子と夏子と同じ女だと仰有るか」先生「勿論一人です、秀子が即ち夏子です。夏子が牢を出て、其のままの顔では世に出る道もない為に私へ頼み、今の秀子の姿にして貰ったのです、名を替えた通りに姿をまで変えたので」
余は只恐ろしさに襲われて、訳もなく二足三足背後の方へ蹌踉《しりぞ》いた、けれど又思えば余り忘誕《ぼうたん》な話である、頓て恐ろしさは腹立たしさとなり「エエ人を欺すにも程があります、秀子と夏子と同人だなどと誰が其の様な事を信じますものか」と叫んだ、殆どポール・レペルを攫み殺さん程の見幕で又前へ進み出た。「悪党、悪党」と罵る声は思わず余の口から洩れた、先生は怪しむ様な顔で余の顔を見「オヤ、オヤ、貴方は今まで、秀子の真の素性をさえ知らなんだのですか、秀子と夏子と同人だという事を、エ、それさえ知らずに夏子をイヤ秀子を助けたいと思い、私の許へ来たのですか。其の様な事ならば私は迂闊に此の秘密を知らせるのではなかったのです、秀子に聞き合わせた上にするのでした」余「嘘です、嘘です、夏子が牢の中で死んだ事には一点の疑いもないのです」
云い切っても先生の顔には、少しも嘘を云って居る様な色は見えぬ、何所迄も事実を守って居る人の様に、其の心底に最も強い所が見える。
頓て先生は思い定めた調子で「イヤ是まで口外した以上は、最早秘密が破れた者です、詳しく説き明かして、秀子夏子の同一人という次第を、貴方へ能く呑み込せる外はないのです、先ず今通って来た金庫室までお帰りなさい、話は彼処で致しましょう」と云って二個の顔形を箱のまま重ねて持ち、余には振り向きもせずに、サッサと元来た方へ遣って行く、余は随いて行かぬ訳には行かぬ、足も地に附かぬ様で、フラフラと随いて行くと、先生は愈々金庫室へ入り、電燈を再び点《とも》して「先ず此の明るい所で熟く二個の顔形をお見較べなさい、爾すれば、私の説明が幾分か分りましょう」と云って、隅の方から卓子を持ち出して来た、其の上へ顔形と顔形とを静かに置いた、是から詳しく説き明かす積りと見える。
第七十七回 同中の異
卓子の上に置いた二個の顔形を、余は電気の光に依りつくづくと見較べた、夏子の顔と秀子の顔、何《いず》れを優る美しさと云って善かろう、夏子は秀子より肥って居る、丸形である、秀子は楕円である、丸形の方には顎に笑靨《えくぼ》がある、顎の笑靨は頬の笑靨より尚《とうと》いと或る詩人が云ってあるけれど、秀子の頬の笑靨は決して夏子の顎の笑靨に見劣りはせぬ、夏子は若く水々して愛らしく、秀子は洗って研ぎ出した様に垢|脱《ぬ》けがして美しい、生際は夏子の方が優って居るが口許は確かに秀子に及ばぬ、勿論両人全く別人の人である、けれど能く見て居れば似寄った所が有る、初見には全くの別人で見るに従い似寄った所が多くなり或いは姉妹でも有ろうかと思われる程にも見える。
先生は秀子の顔形の箱から又髪の毛を取り出して卓子の上に並べ「御覧なさい。双方の髪の毛が此の通り違って居ます、夏子のは緑が勝って色が重く、秀子のは黄が勝って色が軽いけれど、其の艶は一つです、毛筋の大小も優《しなや》かさも、少しも異った所はなく、若し目を閉じて撫でて見れば誰でも同じ髪毛としか思いません」
と云いつつ自ら目を閉じて双方の髪毛を撫で較べて居る、余は胸に何とも譬え様のない感が迫って来て殆ど涙の出る様な気持になった。「けれど先生」とて争い掛けたけれど後の言葉は咽喉より出ぬ。
先生は静かに腰を卸し「詳しく言いますから先ずお聞き成さい、全体私は脳の働きが推理的に発達して居ると見え、許多《あまた》の事柄の中で似寄った点を見出し、此の事は彼の事の結果だとか、これはかれの変態だとか云う事を見破るのが極めて早いのです、夫ですから自然犯罪の記事などを読み自分一身の見解を作るが好きで、今まで余り外れた事がないのです、此の夏子の老婆殺し事件なども初めから英国の新聞紙で読み自分一個の考えを定め、絶えず後の成行如何と気に掛けて居ましたが、其のうちに夏子牢死の報が伝わり又間もなく、私の許へその夏子が救いを求めに来る事になりました」
是まで云いて思想の順序を附けるためか、又目を閉じて暫く考え「先刻も申しました通り、私の仕事は全く依頼者と利害を一にする様な性質で、私は依頼者から何も彼も打ち明けて貰った上でなければ仕事を始めませぬゆえ、此の件に就いて当人と、当人を連れて来た弁護士権田時介氏に充分今までの成り来たりを聞きました、両人ともには多少隠す所が有りましたけれど、大抵の事は既に私が見貫いて居て、急所急所を質問するのですから、果ては洩れなく話しました、其の話や其の後私の仕た事を陳《の》べれば、幾等貴方が疑い深くとも疑う事は出来ません、成るほど夏子と秀子とは同人だと信じます」
此の様に順序を立てて言い来たられては、或いは信ぜぬ訳に行かぬ事となるかも知れぬ、と余も此の様に思い始めた、先生は余が心の斯く聊か動かんとするを見て取った様子で「先ず私の仕事から話しましょう、私は篤《とく》と夏子の顔を見ましたが、如何にも美人で、作り直す事が勿体ない、見る影もない醜婦にする事は容易ですが、それでは造化の美術を傷つける様な者で天に対して恐れが多い、何うか天然の美術を傷つけぬ様に、爾して全く別人と見える様に生れ替らせ度いと色々苦心を仕ましたが此の苦心の為に却って私の手際が不断ほど現われなんだのです、通例の顔ならば誰が何う見ても同一人とは見えぬ様に生れ替わらせる事が出来ますけれど、何しろ美しい者を美しい儘で変形させようというのですから、手際を現わす範囲が至って狭い、異中に異を求めるのでなく、同中に異を求めるのですから、全体云えば無理な話ですけれど、私は仕遂げました、とは云え何うも二人の顔に似寄った所が大変に残って居ます、既に鼻などは少しも変る事が出来ん。変れば必ず見劣りがするのです、歯並びなども其の通りで、真に天然の完全に達して居る者をば、其の完全を傷つけずに並べ変え
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