ません、縦しや此の後で貴方の親兄弟が来て、貴方が私へ何を頼んだかと聞いても私は其の様な事は知らぬと答える許りです」余は聊か赤面して直ちに自分の問い過ぎを謝した。けれど先生に対する信用はやや深くなり、是ならば成るほど秀子を助ける事が出来ようかと又思い直した。
余「では先生、貴方にお頼み申せば、何の様な事件でも助けて下されましょうか」先生は猶も厳かに「無論です、けれど私は依頼者から充分事情を聞き取った上で無ければ承諾せぬのです、少しでも私へ隠し立てをすればそれでお分れですが」余「勿論一切の事情を打ち明けます」先生「詰まり助ける人と助けられる人とは一身同体とも云う可き者で、全く利害を共にする故、双方の間に充分信じ合う所が無くては成りません、所が私は未だ貴方の姓名をさえ知らぬのです」余「ハイ、私は丸部道九郎と云う者です」
先生「様子を見た所では多分英国の貴族でしょうが、私は平生貴族名鑑などを読みませんから、丸部という姓へ何れほどの尊敬を加えて好いか少しも見当が附きません」余「イヤ別に尊敬せられたくは有りませんが」
先生「爾でしょう、爾でしょう、尊敬を得るよりも救いを得るのがお望みでしょう、分りました、シテ見ると貴方は決闘でもして法律に触れたのですか、或いは人を殺したのですか、私に救いを求める所を見れば、今にも逮捕される恐れが有るに違い有りませんが」余「爾です、法律上逃れるに逃れられぬ場合ですから」先生「夫なら実に私の所へ来たのが貴方の幸いです、私の外に決して救い得る者は有りません」
実に奇妙な言葉では有る。法律に攻《せめ》られて居る者を何の様にして救うだろう。余「ですが先生確かに救われましょうか」先生「夫は最う一点の曇りも残らぬ様に、左様さ、いわば罪も何も無い清浄無垢の世界へ生まれ替った様にして上げます、全く新たな命を与えるのですから」新たな生命とは甚蔵が云った言葉にも符合して居る。秀子に新たな生命を与え全く生まれ替った様に救うはポール先生の外にないと、彼は確かに余に告げたのだ。
余「併し先生、救って戴くのは私自身ではないのです」先生「エエ、貴方自身でない、では誰をです」余「今申した松谷秀子をです」先生は驚いた様子で「エ、秀子を最一度、ハテな今まで同じ人を二度救うた事は有りませんが、と云うのは一度救えば夫で生涯を救うのですから再び私へ救いを求める必要のない事に成る筈」余「では二度救う事は出来ぬと仰有りますか」先生「イヤ爾ではない、二度が三度でも救う事は出来ますが」余「では最う一度秀子を救うて戴きましょう、秀子は目下一方ならぬ困難な位置に落ち、殆ど救い様のない程の有様に立ち到って居るのですから」先生は嘆息して「アア夫は可哀想です、先ア彼の様な異様な身の上は又と此の世に有るまいと思いましたが、夫が再び困難に落ちるとは何たる不幸な女でしょう。けれどナニ助からぬ事は有りませんよ」余「何うすれば助かりましょう、何うかその方法を聞かせて下さい」
先生は又聊か改まりて「何うすれば、サア其所が私の職業ですから、先ず報酬の相談を極めた上でなければ此の上は一言も申す事が出来ません」余「報酬は幾等でも厭いませんが、真に貴方の力で、相違なく助かりましょうか」先生「諄《くど》くお問い成さるに及びません、私の力ならば助けるぐらいは愚かな事、何の様にでも貴方の望む通りに救って上げます、が其の代り驚くほど報酬が高いのです」余「高いとて幾万|磅《ぽんど》を要するのですか」先生は打ち笑い「イヤ爾までは要しませんが三千ポンド戴きます」
第七十三回 背後は暗室
此の場に臨んで報酬の高いのに驚かぬ。真に秀子が助かるなら、財産は愚かな事、命までも捧げても厭わぬが余の決心だ。
余は少しも躊躇せずに承諾した。とは云え三千ポンドは決して安い金ではない、医師の報酬や弁護士の手数料などに較ぶれば、殆ど比較にならぬほどの多額だ。余は承諾しながらも心の底に此の様な想いがする、先生は見て取ったか「全く高い報酬でしょう、ナニ実際の費用と云えば、幾等も受け取らずに出来ますけれど、人を法律の外へ救い出すのは随分危険な事柄で、動《やや》ともすれば私自身が其の筋の探偵から睨まれます、探偵が依頼者の真似をして私を陥れるなどいう事は随分有る例です。夫で私は到底探偵風情の払い得ぬ程に報酬を高くして有るのです、幾等探偵が熱心でも千と名の附く金は払い得ません、今までも報酬で幾人の探偵を追っ払ったかも知れませんが、貴方は真逆《まさか》に探偵ではあるまいけれど報酬の受け渡しが終らねば、此の上一歩も話を進める事が出来ません」
報酬の受け渡しと云って、勿論余は其の様な大金を持っては居ぬ。けれど融通の附かぬ事はない、余は僅かながら親譲りの財産が有る、其の財産は父の遺命で悉く金に替え、倫敦の銀行へ托し、利殖させて有る、其の額が今は一万ポンドの上になり、余に使われるのを待って居るのだ、今こそは使って遣る可き時である、幸に此の巴里にも叔父の懇意な取引銀行が有って其の頭取は曾て英国へ来て叔父に招かれ余と同席したのみならず、余も叔父と共に其の後巴里へ来て其の頭取に饗応せられた事もある、此の人に話せば大金とはいえナニ三千や五千、一時の融通は附けてくれる。
その旨を先生に話すと先生も兼ねて其の銀行頭取を知って居るとの事だ、併し其の金を我に払うとの旨は決して頭取へも何人へも話す可からずと口留めをせられた。素より誰にも話すべき事でない、それではと愈々茲を立とうとすると先生は自分の馬車を貸して呉れた。馬車には先刻見た取り次の老人が御者役を勤めて居る、察する所此の老人は先生の真の腹心だ、先生は猶幾分か余を疑い若しや探偵ではないかと思う為、実は此の様な事をして腹心の者に余の挙動を見届けさせる積りらしい。
頓て銀行へ行った、余は来たり。余は観、余は勝てりという該撤《しいざあ》の有様で、万事旨く行って少しの間に金も手に入った。勿論利子を附けて返す筈である。夫も一週間を過ぎぬと云う約束だから余り余の信用を誇るには足らぬ、爾して先生の許へ帰って行くと、先生は暫く次の間へ退いたが、御者から余の挙動を聞き取る為であったと見える、其の結果に満足したか十分間も経たぬうちに又余の前へ来た。今度は前よりも打ち解けた様に、顔の締りも幾分か弛んで居る。「サア直ぐに事務に取り掛りましょう。此方へ」との案内が先生の最初の言葉であった。之に応じて先生の後へ随き、更に奥まりたる一室へ通ったが茲にも種々の鏡を備えてある、先生は誇り顔に笑みて「茲は、私の書斎です、茲に居れば来訪する客の姿が悉く分ります」といい、更に「貴方の様子もお目に掛る前、此の鏡に写し一応検めましたが、逢っても危険のない人だと見て取りました。権田時介の姿を見て、急いで外へ出た時の様子などが、何うも素人らしくて探偵などとは違って居ました」
今は斯くあろうと思って居た故、別に驚きもせぬが、此の室で何をするのか更に合点が行かぬ故「先生、茲で報酬を差し上げましょうか」先生「イヤ報酬は無難な所へ行って戴きます、此の室へは下僕でも誰でも這入って来ますから」云いつつ先生は一方の棚から二個の手燭を取って火を点した。猶だ昼だのに手燭を何にするのだろう、頓て「サア是を持って私と一緒に来るのですよ」と教え、書棚の中から厚い本を二冊ほど抜き出した。爾して其の本の抜けた後の空所へ手を差し入れたが、秘密の鈕《ぼたん》でも推したのか忽ち本箱が扉の様に両方へ開いた。其の背後は暗室になって居る、成るほど秘密の仕事をする人の用心は又格別だと、余が感心する間に先生は暗室へ入って余を呼んだ、余も続いて其の中へ這入った、スルト先生は又も何所かの鈕を推したらしいが、扉の書棚は元の通り閉じて了った。秀子を救うのと此の暗室と何の関係が有るだろう。余と先生と、暗室の中に全くの差し向いである。
第七十四回 前身と後身
余を此の暗室へ連れ込んで何をするのか、余は少しも合点が行かぬ。
先生はそれと見て説明した。「私が何の様にして松谷秀子嬢を救うか貴方には少しも分りますまい、此の暗室の中で其の手段だけを見せて上げるのです、見せて上げれば此の前に私が何の様にして嬢を救ったか、救われる前の嬢の有様は何うで有ったか、ポール・レペルの手際が何れほどで有るか総て分ります」
斯う聞いては早く其の手段を見せて貰い度い。取り分けて此の先生に救われる前の秀子の有様などは最も知り度い、扨は此の暗室の中で詳しく秀子の素性成長などが分るのかと早や胸が躍って来た。
先生「茲は猶だ入口です。サア、ズッと深くお進み成さい」言葉に応じ手燭を振り照らして見ると、成る程茲は穴倉の入口と見える、少しむこうの方に、下へ降りる石段が有る、気味は悪いが余は先に立って之を降った、降り盡すと鉄の戸が有って、固く人を遮って居る。先生は戸に不似合なほど小さい鍵を取り出して此の戸を開いた。中は十畳敷ほどの空な室になって居る、此の室へ這入ると先生は又も戸を閉じ「茲が私の秘密事務を取る室です、茲までは私の外に誰も来ません、金庫も此の室へ備えて有ります」と、茲で報酬を差し出せと云わぬ許りの口調なれば、余は彼の三千ポンドを出して渡した。
不思議にも此の室には電燈が備えて有る、先生は電燈の鈕を推して忽ち室を昼の様にした。余は手燭を消そうとしたが、先生は遽てて「イヤ未だ消しては可けません、茲より奥には電燈がないのですから」余「猶だ此の奥が有るのですか」先生「無論です」とて先生の指さす方を見ると成るほど一方の壁に第二の鉄の扉が有る、斯うまで奥深く出来て居るとは実に用心堅固の至りだ、其のうちに先生は報酬の金を数え盡し隅の方の金庫へ納め、もっと嬉し相に頬笑みて「イヤ三千ポンドは大金です、実は私も取る年齢ゆえ、最早隠退したいと思い、数年来、金子を溜めて居りますが今の三千ポンドで丁度、兼ねての予算額に達したのです、今まで随分人を救い、危険な想いをしましたから此の一回が救い納めです、再び貴方が来《いら》しってもポール・レペルは多分此の家に住んで居ないでしょう、田舎へ地所を買い、楽隠居として浮世の波風を知らずに暮らすは何ほどか気安い事でしょう」
述懐し了って、再び第二の鉄扉を開き余と共に又中へ降り入ったが、茲は余程地の下深くへ入って居ると見え、空気も何となく湿やかで余り好い心地はせぬ、墓の底へでも這入ったなら或いは此の様な気持で有ろうか、兎に角も人間の地獄である、此の様な所に秀子の秘密が籠って居るのかとおもえば、早く取り出だして日の光に当てて遣り度い。
気の所為か手燭の光まで、威勢がなく、四辺の様が充分には見て取られぬ、けれど何だか廊下の様に成って居て、左右にズラリと戸棚がつらなり、其の戸に一々貼紙をして何事をか書き附けてあるが、文字は総て暗号らしい、余には何の意味だか分らぬ。頓て先生は、壁の一方に懸けてある鍵の束を取り卸し、其の中から真鍮製の最も頑丈なのを余に渡し「サア此の鍵の札と、戸棚の貼紙とを見較べてお捜し成さい、そうして記号の合った戸棚を開けば宜いのです」余は全く夢を見る様な心地だ、訳も知らずに只其の差図に従い一々左右の戸棚の戸を検めた末、ヤッと記号の合った戸を見い出した。先生「サア其の鍵で其の戸をお開き成さい」
此の戸の中に何が入って居る、之を開いて何の様な事になる、若し洞看《みぬ》く事が出来たなら、縦し又燃える火に我が手を差し入れる事はするとも、此の鍵穴へ錠を突き入れる事はせぬ所で有っただろう、けれど悲しい哉、爾まで見抜く眼力はない、只何となく悪い気持がするけれど、躊躇しても詮ない事と、差し図の儘に鍵を入れ、此の戸を開いた、中は幅も深さも二間ほど有って左の壁には棚が有り右の壁には棚が有り右の壁には又小さい戸棚が有る、云わば仏壇の様な作り方だ、爾して左の棚には白木で作った三個の箱が有る、方一尺ほどで扁《ひら》たく出来て、先ず硯箱の聊か大きい様なものだ、先刻権田時介が小脇に挾んで去った品も或いは此の類の箱ではなかったか知らん。
只是だけの事で、何の驚く可き所もないけれど余は
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