又一方から見れば秀子の仕業でないと云う事を指して居る事情も沢山有りましょう」森「平たく云えば反対の証拠が沢山あると云うのですね」余「そうです。縦しや反対の証拠と云うには足らずとも、反対の事情と云うには足るのです」森「何れ、何の様な反対の事情です、沢山の中の一二を挙げて御覧なさい」
サテ斯う云われては、之が反対の事情だと指して示す程の事柄は一つもない。余はドギマギと考えつつ「え譬えばさ」森「ハイ譬えば」余「お浦の紛失に就いても秀子が疑われたでは有りませんか、シテ見れば誰か秀子に犯罪の疑いを掛け度いと企んで居る人が有るかも知れません」森「有るかも知れずないかも知れず、其の様な事は数えるに足りません。夫から」余「夫から、左様さ此の家には素性履歴の分らぬ人間も随分あります。夫等の人間が何かの目的を以て秀子に疑いの掛かるように仕組まぬとは云えますまい」森「其の人間は誰ですか、先ず多勢ある者と見做して其の中のたった一人で宜いから名指して御覧なさい」余「譬えば高輪田長三の如き」
余は言い来《きた》って、余りに自分の大胆なるに呆れ、言葉を止めて森探偵の顔を見た。探偵も亦余の顔を見た。けれど彼は別に呆れる様子もなく、余が思ったより寧ろ深く余の言葉に動かされた様子で、是から暫しが間、無言で何事をか考えたが頓て「成るほど根西夫妻が鳥巣庵《とりのすあん》を引き払って以来、高輪田氏が此の家の客と為って逗留して居るのは何う云う心か私にも聊か合点の行かぬ所は有ります。けれど彼が此の件に関係して居ようとは思われません」余は此の言葉に聊か力を得て「関係して居ぬとは云えますまい、第一彼が叔父へ密書を送ったと仰有ったではありませんか、夫が此の事件の初《はじま》りでしょう」森「所が其の密書は秀子を憎む為ではなく、全く秀子の為を思って親切から仕た事だとは貴方の叔父上が能く認めて居るのです」余「エ、秀子へ親切の為に秀子のことを悪様に叔父へ密告したのですか」森「イヤ悪様にと云うと違います。尤も私自ら其の密書を見た訳ではなく、唯叔父上の話に由ると、単に事実を書いたので、秀子の口から叔父上へ云わねば成らぬ事柄だのに秀子自ら云い得ぬ為、見るに見兼ねて云って遣ったのだと云う事です。全く秀子の身の為になり相です」
其の様な密告がある筈が無いと思うけれど、実際何事の密告で有ったか余も森も知らぬから言い争うわけにも行かぬ。森は猶言葉を継いで「夫に高輪田氏は一昨日此の家の二階から落ち、私が扶け起して遣りましたが、殆ど身動きも出来ぬ程と為り、一室に寝て居ます。医者の言葉に由ると外に心臓の持病もあり、夫が大分に亢じて居る様子で此の様な事に関係する力も無いのです」余の言い立つる所より森のいう所が何うも力が強そうだ、余「縦しや高輪田が関係せぬにしても、秀子の仕業と云う証拠にはなりません」森「所が秀子は叔父上の室へ出入りを止められて居るにも拘わらず、昨朝も病気見舞に托して叔父上の傍に行き今度は盃へ水を注いで呑ませましたが、其の水にも又毒が有ったと見え叔父上は前と同様に身体が麻痺しました」
余は唯驚くばかりだ。何と弁解する事も出来ぬ、泣き度い様な声を発して、全くの必死と為って「だって森さん、人を疑うには其の人の日頃をお考えなさい、日頃秀子が、人を毒殺する様な女ですか、又高輪田長三の日頃をもお考えなさい」森「サア日頃を考えるから猶更秀子に疑いが落ちるのです」余「エエ、秀子に日頃何の様な欠点が有ると仰有る」森は直接には之に答えず「高輪田氏の日頃は一の紳士として少しも疑う所はなく、此の幽霊塔の前の持主で、お紺婆に育てられて、尤も一時は大分放蕩をした様ですが夫も若気のいたずらで随分有り勝ちの事、其の頃から今までも一通りの取り調べは附いて居ますが、別に紳士の身分に恥ずべき振舞いとてはありません、之に反して秀子の身は」余「エ、秀子の身が何故『之に反して』です」森「貴方には云わぬ積りでしたが、イヤ貴方はお知りなさるまいが、秀子は前科者ですぜ」余「エエ、前科者とは何の事です」森「イヤ、既決囚として監獄の中で苦役した事のある女ですぜ」此の恐ろしい言葉には、余一言も発する能わず。
第六十八回 而も脱獄
前科者、此の美しい、虫も殺さぬ様な秀子が、懲役から出て来た身だなどと誰が其の様な事を信ずる者か。
とは云え、信ぜぬ訳にも行かぬ。余は養蟲園の一室で、秀子が着たと思われる日影色の着物と一緒に、牢屋で着る女囚の服の有るのを見た。其の時は或いは虎井夫人でも着たのかと思ったが、アレが秀子ので有ったのか、全く秀子が懲役に行って居たのか。
懲役に行ったとて牢屋の着物を外まで被て出る者はない、牢屋の着物は監獄のお仕着せだ、縦しや着て居たいと思ったとてそうは行かぬ、之を着て出るのは牢破りの逃走者ばかりだ、若しアノ服を秀子の着たものとすれば秀子は牢破りの罪人か知らん、アノ服を着けたまま監獄から忍び出て来たのか知らん、思えば思うほど恐ろしい。
待てよ秀子の着物の中には医学士と自称する大場連斎の名札が有った。連斎は一頃監獄医を勤めたと穴川が云って居た。此の辺の事柄を集めて見ると一概に森主水の言葉を斥ける訳に行かぬ。秀子は前科者で無いとは限らぬ、而も脱獄の秘密まで有るが為で、夫に今までも甚蔵等にユスられる境涯を脱し得ぬので有ろうか。
余は腹の中は煮え返るほど様々に考えた末、森に向い「では是から何うなさるのです」と問うた。森「する事は極って居ます、繩掛けて引立てる迄の事です」余「だって秀子が前科者で有る無しは今の所単に貴方の推量では有りませんか、推量の為に人を拘引するなどは」余「イヤ前科者で有る無しは別問題です、縦しや前科者と極った所が既に服する丈の刑を服して来たのならかれこれ私が問う訳はなく、其の点は唯心得までに調べさせて有る丈です。其の点の如何に拘わらず、既に貴方の叔父御に毒害を試みたという明白な罪跡が分りますから、此の儘に捨て置く事は出来ません」余「何時拘引するのです」森「是から私が詳細の報告書を作って倫敦へ送り其の筋から逮捕状を得ねばならぬのですから、多分は明後日になりましょう。是は職務上の秘密ですけれど真逆《まさか》に貴方が秀子に知らせて逃亡させる様な事は有るまいと信ずるからお打ち明け申すのです。其の間に若し秀子が逃亡すれば貴方が幇助した者と認めますよ」
余「私は飽くまで其の嫌疑の無根な事を信じますもの、何で逃亡を勧めますものか、又秀子とても其の身の潔白さえ恃《たの》んで居ますもの。何で逃亡など仕ますものか」と余は立派に言い切ったけれど実は心細い。どうかして逃亡させる工風はあるまいかと思いたくはないけれど独りそう思われる。
けれど若し逃亡せねばならぬ様な身上の女なら勿論愛想の盡きた話で、逃亡させる必要もなく寧ろ余から繩を掛けて出さねばならぬが、秀子に限って其の様な事は決してない、どうしても余の力で其の潔白を証明して遣らねばならぬ、何うすれば其の証明が出来るだろう、余が唯一つの頼みとするは甚蔵から聞いた彼の巴里のポール・レペル先生だ。兎に角も此の人に相談する外はない。若し此の人が深く秀子の日頃を知り、決して前科者でなく、決して毒薬など用うる女でないといえば此の土地へ伴うて来て証言させる。此の人と秀子との関係は分らぬけれど、秀子に新しい命を与えるとまで云われる人だから、此所で其の新しい命を与え、死中に活を得て秀子の危急を救うて貰わねばならぬ。
余は堅く決心して、森に向い、何うか秀子の拘引を今より三日猶予して呉れと請い、其の間には必ず反対の証拠を示しますと断言した。森「イヤ今から三日ならば大方私の思う通りですから、別に貴方の請いに応じて猶予して上げるという程でもありません。反対の証拠が(若しあるなら)充分にお集めなさい、併し三日より上の猶予は決してありませんよ」余「宜しい」森「何うして貴方から決して秀子に逃亡させぬという事を誓って貰わねばなりません」余「誓います、決して逃亡はさせません」先ず相談一決した様な者だ。巴里へ行って何の様な事になるかは知れぬけれど外に何の工風もないから、余は早速巴里を指し出発する事とした。
第六十九回 悪魔の世界
心矢竹《こころやたけ》に逸《はや》るとは此の時の余の思いであろう。一刻も早く巴里へ行きレペル先生とやらに逢って、一刻も早く秀子を救う手段を得たいとはいえ、真逆《まさか》に死に掛って居るという我が叔父の顔をも見ずに出発するわけにも行かぬ。叔父の目の覚めるまでは何うしても待って居ねばならぬ。
待つ間を、秀子の室に行ったが、探偵の云った事を其の儘秀子の耳に入れる訳には行かぬ。御身は果たして前科者なるやと、茲で問えば分る事では有るが、余の口が腐っても其の様な事は能う問わぬ。前科者でないに極って居るのに何も気まずく問うに及ばぬ、又茲で逃亡を勧めるのも最と易い、けれど是も必要のない事だ、潔白と極って居る者に、逃亡など勧める馬鹿が有る者か、其の潔白の証拠を集めるのが此の巴里行の余の目的ではないか。
余は唯秀子に向い、何も彼も余が引き受けたから少しも心配するに及ばぬ、親船に乗った気で居るが好いとの旨を、繰返し繰返して云い聞かせた、秀子は誰一人同情を寄せて呉れる者のない今の境涯に、此の言葉を聞き深く余の親切に感ずる様子では有るが、併し親船に乗った気には成れぬと見える、兎角に心配の様子が消えぬ。
其のうちに叔父が目を覚ましたと、女中の者が知らせて来た。余は秀子に向い、止むを得ず巴里へ行くけれど一夜泊で帰ると云い猶留守中に何事もない様に充分計って置いたからと、保証する様な言葉を残し、直ちに叔父の寝室をさして行ったが、廊下で又も森主水に逢った。彼は用ありげに余を引き留め「丸部さん、先刻秀子を引き立てるには猶だ三日の猶予が有る様に申しましたが事に由るとそれ丈の猶予がないこととなるかも知れません」余「エ、事に由ると、貴方はあれほど堅く約束して今更事に由るとなどは何の口で仰有るか」森「イヤ一つ言い忘れた事が有ります。若しも叔父上は明日にも病死なされば、既に毒害という事が其の筋の耳に入って居ますから、必ず検屍が居るのです、検屍の結果として直ちに其の場から秀子が引き立てられる様な場合となれば私の力で、如何ともする事が出来ませんから是だけ断って置くのです」成るほど其の様な場合には森の力には合うまいけれど、此の言葉は実に余の胸へ剣を刺した様な者だ。
叔父の身は果たして三日の間も持ち兼ねる様な容体であろうか。若し爾ならば見捨てて旅立する訳には行かぬ。秀子を救い度い余の盡力も全く時機を失するのだ、実に残念に堪えぬけれど仕方がないと、余は甚く落胆したままで叔父の病室へ入った。叔父は目を覚まして居る。「オオ、道九郎か、今女中に呼びに遣ったが」余「ハイ叔父さん、御気分は何うですか」叔父「一眠りした為か大層宜く成った。此の向きなら四五日も経てば平生に復るだろう」成るほど大分宜さ相だ。真逆に探偵の云った様な三日や四日の中に検屍が有り相には思われぬ。余は聊か力を得て「若し叔父さんの御用がなくば、私は止むを得ぬ用事の為大急ぎで巴里へ行って来たいと思いますが」叔父は目を張り開いて余の顔を見「又旅行か」と殆ど嘆息の様に云うは余ほど余の不在を心細く思うと見える。余「ハイ行き度くは有りませんが止むを得ぬ用事です」叔父「其の方が居なくては定めし秀子は困るだろう」秀子の事を斯うまでに云うは、猶だ秀子を見限っても居ぬと見える、余は其の心中を確かめる様に「ハイ何だか秀子が様々の疑いを受けて居る様に聞きますが」叔父「ナニ秀子は己に毒などを侑《すす》める者か、外の事は兎も角も、其の様な事をする女ではない」叔父が疑って居ぬのは何よりの強みで有る。併し「外の事は兎も角も」の一句で見れば、外に何か秀子の身に疑う所が有って、今まで程に信任しては居ぬらしい、何うか余は秀子の為に警察の疑いを解くのみならず、叔父の信任をも回復する様にして遣りたい。
叔父は熟々《つくづく》と何事にか感じた様な語調で「併し秀子も可哀想な身の上だ。若し己れ
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