。巴里のラセニール街二十九番に住んで居るポール・レペル先生です」扨は日影色の着物から出た彼の医学士の名刺に、御身を助けるは広い世界に此の人の外にないと書いて有った其の人だ、事の符号して居る所を見ると満更嘘らしくもない。縦しや嘘にしても、多少は此の人が秀子の身の秘密に関係して居る丈は、確からしいから兎に角逢っては置く可きだと、余が心に思案する間に、甚蔵は全く残念に堪えぬ様子で「エ、此の人が再び秀子を保護し、新たな生命を与えたなら、最う秀子をユスる事も何うする事も出来ぬ、大事の金の蔓に離れる様な者だけれど、背に腹は替えれぬから仕方がない」と呟いた。余「では成る可く早く其の人の所へ行く事に仕よう」と口にも云い心にも思いて、甚蔵に分れを告げ、直ぐに此の室の窓を開いて其所から出て、爾して窓の外から先程の短銃をば「サア確かに返しますよ」と云って内へ投げ込み、ヤッと此の厭な養蟲園を立ち出でた。
第六十五回 今は又――今は又
養蟲園を出て、余は直ぐにも巴里へ行き度い程に思ったが、併し先ず秀子の顔を見たい。既に二日も秀子に逢わぬから、何だか他の世界へでも入った様な気がする、平たく云えば秀子の顔が恋しいのだ。
此の時は既に夜明けで、夫から歩んで停車場へ着いたのが丁度一番汽車の出る時であった。直ぐに乗って午後の二時頃に幽霊塔へ帰り着いた、玄関へ歩み入ると番人が異様な顔して「秀子様も旦那様も貴方の行く先の分らぬのを大層御心配でした」と云う。其の言葉には語句の外に尋常《ただ》ならぬ所が見える、若しや余の留守に何か又忌わしい事件でも起こったのかと余は毎《いつ》になく胸騒ぎを覚え、唯「爾か」と答え捨てゝ後は聞かずに秀子の室へ馳せて入った。
何事にも用心の行き届く日頃に似ず、室の戸も開け放して有る、中に入れば隅の方の傾斜椅子に、秀子は身を仰向けて倚り掛り、天井を眺めて、散し髪を椅子から背後へ垂らし、そうして両手を頭の上へ載せて組んで居る。実に絶望とも何ともいい様の無い有様である。殆んど余の来た事さえ気が附かぬ程に見えるから、余「秀子さん何う成さった」秀子は驚いた様に飛び起きて「オオ好う早く帰って下さった」と云い其のまま余の胸へ縋り附いた。不断は仲々此の様な事をせず、恐れでも悲しみでも又は嬉しさでも総て自分の胸へ畳み、最と静かに、何気なく構えて居る質だのに、今に限り斯うまでするは能く能くの事に違いない。「どうしました、先ア静かに話して下さい」と背を撫でて傷わるに、秀子「最うとても助かりません天運です、広い世界に、何で私だけ此の様な目にのみ逢うのでしょう。前には浦子さんを殺したなどという疑いを受け、今は又――今は又」と云い掛け、後の言葉は泣き声と成って了った。余「今は又何うしました、エ秀子さん又何かに疑いでも掛りましたか」秀子「掛りましたとも、ハイ私が父上を毒害したなどと云いまして」父を毒害とは何の事ぞ。余は「エ、エ」と叫んで我れ知らず秀子を推し退け「叔父の身に何か事変が有りましたか」
秀子「ハイ、私の注いで上げた葡萄酒に毒が有ったとの事で、一昨日から御病気です」余「エ、一昨日から、爾して今は」秀子「今は何の様な御病体だか、下女などの話に少しお宜しい様には聞きますけれど――私が直々に介抱して上げたいと思っても、私を其の室へ入れては又も毒薬でも用いる様に疑い、近づけてさえ呉れません、此のまま父上が若しもお亡くなりなされば、秀子の毒害の為だと云い、又お直り遊ばせば秀子を遠ざけて、毒害を続けさせなんだ為だと云います、何方《どっち》にしても私は――」余「ですが、誰が貴女を父上の室へ入れません」秀子「附いて居る看病人です、多分は警察から探偵をば看病人の様に姿を変えさせて寄越したのだろうと私は初めから疑って居りますが」余「夫にしても余り乱暴な疑いでは有りませんか、何も父上を殺すべき謂われがないのに」秀子「イイエ其の謂われが有るのだから、運の盡と申すのです。何から何まで私が父上を殺さねばならぬ様に総て仕組が行き届いて居ます。誰か私を憎む者が――イヤ真逆に其の様な人が有ろうとは思われませんけれど、有るとでも思わねば合点が行きませんもの」
余は恐ろしい夢を見て居る様な気持だ。「イエ秀子さん、誰が何と仕ようとも又運が何の様に悪かろうとも、最う私が居るなら、大丈夫です、決して貴女へ其の様な疑いを掛からせて置きは仕ません。既にお浦の事件でも貴女にアレ程重く疑いの掛かって居たのを私の言葉で粉微塵にしたでは有りませんか。少しも心配なさらずに全く私へ任せてお置きなさい」
秀子「其の様に行けば、何ほどか嬉しかろうと思いますけれど、今度の事ばかりは、何方の力にも合いません」
云う中にも余を便りにして幾分かは落ち着く様子が見える。余は何にしても叔父の容体が気に掛かるから、幾度も秀子に向い「全く安心してお出でなさい」と念を推した上、更に叔父の病室へ遣って行った。
余が戸口まで行くと恰も中から看護人の服を着けた男が出て来た。看護に疲れて交代する所らしい、余は此の人の顔に確かに見覚えがある、けれど其の誰と云う事は今は云うまい、先ず急《せわ》しく其の男を引き留めて「イヤ一寸伺いますが、今此の病室へ入って好いでしょうか」看護人「可けません、ヤットお眠りに成った所ですから」余「では目の覚めた頃にしましょうか。併し今貴方に少し伺い度い事が有ります」看護人は怪しげに余の顔を見たけれど「貴方は誰方です」余「ハイ病人の甥丸部道九郎です」看護人「では何なりとお返事致しましょう」余は此の者を連れて、密話に最も都合の好い一室に入り、先ず一椅子を指して「サア立って居ては話も出来ません、之へお掛けなさい、エ、森主水《もりもんど》さん」と名を指した。
第六十六回 何を証拠
姿は異って居るけれど確かに此の看護人は先にお浦の事件にも関係した探偵森主水である。余は彼の目の底に一種の慧敏《けいびん》な光が有るので看て取った。
彼は名を指されて痛く驚いたが強いて空とぼけもせぬ。忽ち笑って「イヤ姿を変えるのは私の不得手では有りますが、けれど素人に見現わされたは二十年来初めてです。貴方の眼力には驚きました」と褒める様に云い、直ぐに調子を変えて「所で私へのお話とは何事です」と軽く問うた。
余は何事も腹蔵なく打ち明け呉れと頼んで置いて、爾して何故に秀子へ恐ろしい嫌疑が掛かったかと詳しく聞いたが、成るほど仔細を聞けば尤もな所も有る。
彼の言葉に依ると余が彼の穴川甚蔵を追跡して此の家を去った日の未だ暮れぬうち、余の叔父は兼ねて言って居た通り法律家を呼んで遺言書を作り、余と秀子とを丸部家の相続人に定め、余には未だ言い渡さぬけれど秀子には直ぐに其の場で全文を読み聞かせたと云う事だ。スルト翌日の朝になり、彼の高輪田長三が叔父の手へ何事か細々と認めた手紙の様な者を渡した。其の中には何でも秀子の身の素性や秘密などを書いて有った相で、叔父は非常に驚いて、直ぐに秀子を呼び附け、其の方は此の様な事の覚えが有るかと問い詰めた。秀子は暫くの間、唯当惑の様を示すばかりで何と返事もし得なかったが、頓て深く決心した様子で有体に白状した。
サア其の決心と云うのが、探偵の鑑定に由ると叔父を殺すと云う決心らしい。茲では白状して叔父に安心させ油断させて置いて、後で窃かに毒殺すれば好いと斯う大根《おおね》を括ったのだ。叔父は真逆秀子に此の様な事は有るまいと思ったのが、意外に事実で有ったので、余りの事に気色を損じ、秀子を退けて一室へ閉じ籠った儘と為った。
其の有様を察すると、前日の遺言状の旨を後悔し、迚も秀子を相続人にする事は出来ぬから、何とか定め直さねば成らぬと独り思案をして居たのかも知れぬ。随分其の様に言えたので、秀子は多分、其の遺言状を書き直さぬうちに叔父を殺さねば其の身が大身代の相続権を失うが上に、又此の家から放逐せられ、身の置き所もない事になると思っただろう、数時間の後再び叔父の室へ行き、二言三言機嫌を取った末、余り叔父の血色が悪いからとて、葡萄酒でもお上り成さいと勧め、棚の硝盃《こっぷ》を自分で取って自分で酒を注ぎ爾して自分の手で叔父に与えた、叔父は受け取って呑むと其のまま身体が痺れた。
幸い叔父は皆まで呑まずに気が附いたから其の時は唯身体の痺れたくらいで済んだ、爾して直ぐに此の酒には毒があると云い、呑み掛けた硝盃と酒の瓶とへ両手を掛け人を呼んで封をさせて了った、夫だけがやっとの事で其の中に痺れが総身へ廻り、後は何事も為し得ぬ容体と為った。
けれども是も少しの間であった。医者の手当の好かった為か、宛も酒の酔の醒める様に数時間の後は醒めて了ったが、叔父は少しも之を秀子の仕業とは思わず、猶も秀子に介抱などさせて居たが、唯叔父を診察した医者が容易ならぬ事に思い、其の帰り道に偶然警察署長に逢ったを幸い、兎に角も内々で注意して呉れと頼んだ相だ。丁度其の署長が警察署へ帰った時に、此の森探偵が来合わせて居て其の話を聞き、既にお浦の紛失の事件も自分が調べ掛けて其のままに成って居るし、何しろ幽霊塔には合点の行かぬ事が多いから暫く此の事件を自分へ任せて呉れと云い、漸く其の承諾を得て此の土地の探偵一名を手下とし、看護人の様で、右の医者から此の家へ住み込ませて貰ったと云う事である。
爾して第一に彼の呑み掛けの盃《こっぷ》と酒の瓶とを分析させた所、瓶の酒には異状がないが盃に在る呑み残りの分には毒が混って居ると分った。シテ見れば酒を注ぐ時にソッと毒薬を盃へ入れた者としか鑑定は出来ぬ。殊に其の毒が不思議にも此の国にはない印度の植物でグラニルと云う草の液であると分った。
余は是まで聞き「グラニル」とは曩《さき》に余が刺された時、其の刃に塗って有った毒薬である事を思い出し、其の旨を森に告げると森は点頭いて「其処ですて、何しろ此の様な珍しい毒薬に、少しの間に二度も而も同じ家で出会わすとは余り不思議ですから充分手下に調べさせましたが、其の出所が分りました。此の村の盡処《はずれ》に千艸屋《ちぐさや》と云って草花を作って居る家の有るのは御存じでしょう」成る程余は知って居る、曾て其の家の小僧が偽電報の件を余に知らせて来て十ポンドの褒美を得て去った事まで此の話の初めの方へ書き込んで置いた積りだ。余「ハイ知って居ます」森「其の家の主人はお皺婆と云い、昔印度に居た事も有り、今でも印度の草を作って居ます、其の中にグラニルも有るのです」余「ソレがどうしました」森「ソレから此の家に居る人でアノ家へ折々行く人が有ります」余「それは誰です」森「秀子さんの附添虎井夫人です」余「夫人は病気ですが」森「イエ病気は既に大方直りました。昨日も此の夫人がアノ家へ行ったのです」余「何の為に」森「アノ婆が狐猿の飼方や其の病気の時の手当て方をも心得て居るとの事で、毎も表面はそれを問いに行くのです」余「グラニルを買いに行くのではないでしょう」森「ハイそれは買おうにも売りませんから盗む外はないのです」余「では婦人が其の草を盗んで来て」森「イイエ、真逆に自分で盗みも仕ますまいが、アノ夫人はアノ家の小僧に窃かに小使銭を与えて居ます」余「爾としても叔父を毒害したのが秀子だと云う証拠には成りますまい」森「勿論之は証拠ではないのです。唯グラニルの出所をお話し申したのです」余「では何を証拠に秀子を疑いますか」森「生憎其のグラニルの液を入れた小さい瓶が、秀子さんの室から出たのです」
第六十七回 前科者
毒薬の瓶が秀子の室に隠して有ったとは実に意外な事柄である、流石の余も弁解する事は出来ぬ。
併し余は必死となり「けれど森さん、世に疑獄と云い探偵の過ちと云う事は随分有る例です。是こそは動かぬ証拠と裁判官まで認めた証拠が豈《あに》図らんや全くの間違いで有ったなどと云う話は、聞いた事がお有りでしょう」森「左様です、其の様な事柄は貴方より私が能く知って居ます」余「夫だのに貴方は唯毒薬の瓶一個で、既に秀子を疑いますか」森「唯瓶一つではなく、今まで申す通り様々の事情が総て秀子を指して居るのです」余「様々の事情とて、
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