る者はない。先ア好かった拙者は最う、貴殿が彼奴に絞め殺されては居ぬかと気遣ったが」穴川「ナニ身体は利かずとも短銃を持って居るからそう易々絞め殺される様な事はない、安心したまえ」医学士「でも茲を開けて呉れと云って貴殿が起きて来て開ける事は出来ず、全体此の戸は何うして錠を卸したのだ」云いつつ、頻りに戸の引き手を廻して居る。穴川「ナニ短銃で差図して彼奴に鎖《とざ》させたのだよ」医学士「では再び短銃で差図して開かさして貰おう」穴川「イヤ少し拙者と彼の間に話があるのだ、それの済むまで、例の室に控えて居て貰いたい」医学士「仕様がないなあ」と呟きつつ往生する様子であるが、今度は婆の声で「甚蔵や、甚蔵や、今度は大層旨く穴が掘れたよ。段々慣れて来る者だから次第に医学士の手際が好く成ってサ」穴川「エエ、其の様な余計な事を云うに及ばぬ」
叱り附ける声で、婆も黙って了った。余も此の時、器だけを残して丁度食事を終ったが、是等の有様に依り熟々感じた。成るほど秀子が、毒蜘蛛が網を張って居て、人を捕えて逃がさぬ様に話したのは茲の事だ、毒蜘蛛と云ったのは全く言葉の上の比喩《たとえ》で有ったけれど、学士と云い博士と云い、爾して博士の母までも全くの毒蜘蛛だ。秀子も一度は此の網に掛ったに違いない、イヤ今以て未だ其の網から脱け得ては居ないのだ、それを脱け得させて遣るのが余が目的だ。余とても同じ網に掛ったけれど、幸い何うやら斯うやら脱けて出られ相に成った。今まで脱け得ずして毒蜘蛛の餌食と為って果てた者は幾人であろう。死骸を埋める穴を掘るのに慣れて、医学士の手際が上ったなどとは、唯短い言葉だけれど、能く思えば実に千万無量の恐ろしさが籠って居る、其の代り余が脱け出たなら此の毒蜘蛛の巣窟に大掃除を施さずには置かぬ、これから愈々其の談判に取り掛かるのだ。
第六十三回 応か否か
余は穴川に大談判をせねば成らぬが、兎に角彼の手に在る短銃が気に掛かる。折さえ有れば奪い取り度い、アレを取って了いさえせば、彼は骨も筋もない海月《くらげ》同様の者になるのだ。
余は故と短銃に少しも頓着せぬ様な風を見せて、愈々言葉を発した。「扨穴川さん、私が貴方と汽車に同乗して貴方を助け、爾して此の家へ来る様に成ったのは偶然の様で、偶然でない、実は貴方と談判を開く積りで幽霊塔から尾けて来たのだよ」と云って先ず余の名刺を出して渡した。彼は幽霊塔と云う言葉に既に驚いた様子であったが、余の名刺を見て益々驚き「エ、エ、貴方が丸部道九郎さんですか」と呆れた様な顔をした。是が彼の運の盡きで有った、呆れる拍子に少しの隙が有ったから、余は直ぐに彼の手から短銃を※[#「※」は「てへん+劣」、読みは「も」、120−上5]ぎ取った、真に咄嗟の間で、彼に少しも抵抗の猶予を与えなんだのは我ながら手際で有った。
彼が立腹の一語をも発し得ぬ間に、余「此の様な物が有っては話の邪魔に成って仕方がない。話の済むまで私が預って置きましょう」彼「夫は非道い、出し抜けに奪い取るとは紳士に有るまじき――」余「イヤ紳士の談話には短銃の囃《はやし》など用いません」彼「でも夫がなくては私は怪我人で身体も利かず」余「イヤ身体は利かずとも口さえ利けば沢山です」彼「宛で貴方の手の裏に入った様な者で、貴方の強迫なさる儘に」余「イヤ私は短銃を以て人を強迫するのは嫌いです、其の証拠には此の通り短銃を衣嚢の中へ収います」と云いつつ早や腰の辺にあるピストルをポケットへ入れて了った。
唯是だけで、早や主客処を異にした有様と為った。彼は猶グズグズ云うを「お黙り成さい、男らしくもない」と一言に叱り鎮めて置いて「実は私は茲で貴方に射殺されて了い度いのだ。勿論生きては還らぬ積りで、夫々後の用意をして貴方を尾けて来たのですから」甚蔵は独語の如くに「アア夫だから秀子が意地が強かったのだ、何の様な目に逢っても面会はせぬから勝手にするが好いなどと、失敬な返事を言伝にして」余「或いはそうかも知れません、兎に角私は叔父朝夫に相談して、此の身が若し三日目までに帰らなんだら、殺された者だから直ぐに其の筋へ訴えて捕吏を此の養蟲園へ差し向けて呉れと云うて有ります。夫だから何うしても明日中に帰らねば好くないのです、今夜此の通りアノ室を脱け出したのは私よりも寧ろ貴方の為と云う者です」穴川「だって短銃を取られた上は、貴方を殺す訳にも行かず、捕吏が来たとて私を捕える廉《かど》は――」余「有るかないか捕吏の方で判断するから茲で争うには及びません。先ず私の話からお聞きなさい」穴川「ハイ其の様に云わずとも聞くより外に仕方のない場合です」余「では云いますが、貴方は今から三十日以内に、此の土地を去り、外国へ移住なさい、再び此の国へ足踏みせぬと云う約束の上で、旅費は私が二百|磅《ぽんど》出しますから」穴川「夫は何う云う訳で」余「何う云う訳とて、貴方が此の国に居ては秀子の幸福に邪魔に成ります」彼は何等かの決心を呼び起そうとする様に暫く無言で考えたが、頓て「左様さ邪魔にもなり助けにもなり、夫は私の心一つです、けれど否と云えば何うします」余「厭と云えば捕吏を差し向ける許りの事です。私が此の室へ忍び込んだのも、捕吏《ほり》を差し向ける丈の罪跡を得たいばかりの一念です。今は充分の罪跡《ざいせき》を見届けたから、貴方の否応は大して私に利害はなく、応と云えば無事に外国へ逃がして上げるし、否と云えば死刑と云う法律の手を仮りて人間の外へ、ハイ此の世の外へ引越して戴く許りです。サア何方を択《えら》びますか、敢て私から何方にせよと勧める訳ではない、唯貴方の随意の一言を聞けば好いのです、応ですか、否ですか」
彼の顔附きは見るも憐れな有様である。立腹と当惑と、決心と恐れとが戦って居る、頓て彼は弁解する様な口調で「罪跡とて私に何の罪跡が有るのです、正直に蜘蛛を養って一家を立てて居る殖産家ですが、エ、二階に白痴を留め置いたのが罪跡ですか。彼は私の知った事ではなく、唯大場医学士、イヤ医学士ではないけれど仮に医学士と云いますが、監獄医大場連斎の頼みに応じ二階の空間を貸した迄で、貸した室へ大場が何を入れて置くか私の知った事では有りません」偖は彼の医学士は監獄の医者を勤めて居た者と見える、余「勿論大場の罪と云う事は逃れますまいが――」穴川「イイエ大場とても爾ほどの罪ではないのです、世間の医者が誰もする一通りの事をして居るのです」余「エ、世間一通りの事」穴川「ハイ夫は最う素人が聞けば驚きましょうが、医者と云う他人の家へ立ち入る商売から云えば当り前です。孰れの家にも随分家名に障る様な家族は有る者で、公の養育院や瘋癲院《ふうてんいん》などへは入れ兼ねる場合に医者に頼むのです。医者は頼まれて真逆に人一人を殺して了う訳にも行かず、仕方なく尤も秘密の場所を求めて隠し飼殺しにするのです。だから繁昌する医者は、大抵此のような秘密の場所を特約して有るのです」余「アノ贋医学士は其の様な繁昌する医者ですか」穴川「イヤ繁昌は何うだか知りませんが、彼は昔監獄医を勤めた丈に、人の家の秘密を他の医師よりは余計に知って居て、自然に秘密事件を頼まれることも多いのです。今居る白痴なども其の一です、成るほど白痴に対して多少は不行届きも有り、手当の悪いと云う非難は免れぬかも知れませぬけれど、それを罪跡などとは」余「成るほど私の思い違いかも知れません、併し罪跡か否やの鑑定は貴方と私と素人同志で茲で争ったとて果てしがないから先刻も云う通り其の筋の判断に任せましょう、寝台が陥穽に成って居て、眠って居る者を出し抜けに古井戸へ落し込んだり、或いは当主の母が燈火を持って、庭へ穴を掘り、爾して公の手続きも経ずに埋めた死骸が数の知れぬ程あるなどは、其の筋で医者の普通と認めるか、縦し又普通と認めた所で、家の当主には何の構いもない者か、其の辺の所は直ぐに分りますから、其の方が早道です。ドレ穴川さん誠に長座を致しました」と故と謝する様に云い、余は胸の中に充分の勝利を畳んで、座を立ちかけた。
第六十四回 新たな生命
余が愈々立ち去ろうとするを見て、穴川はあわてて熱心に引き留めた。「お待ち成さい、お待ち成さい丸部さん、少し云う事が有りますから」
偖は彼全く閉口したと見える、余は言葉短かに「何ですか」穴川「貴方は未だ秀子の身の上を知らぬのです、私を追い払えば秀子が助かると思うから間違いです。秀子の身の幸福にする事の出来るは広い世界に唯一人しかないのです、其の人は私では有りません」実に異様な言い分で、余は合点し兼ねるけれど、何だか口調が嘘らしくも見えぬから「エ、何ですと」穴川「其の人の許へ行って頼みさえすれば、イヤ其の人が諾《うん》と承諾しさえすれば、誰が何と云ったとて秀子をどうする事も出来ません。私が此の国に居ようが居まいが少しも関係はないのです。又其の人の承諾を得ぬ限りは貴方が何の様に骨折ったとて少しも秀子の身を幸いにする事は出来ません、云わば秀子が神の使いの様な者で神の意一つで幸福にも不幸福にも成るのです。其の神へ願わずに他人が小刀細工を施したとて何うなりますものか」是だけ云いて余が猶充分に信ぜぬ様を見、「丸部さん、貴方は秀子が密旨を帯びて居ると云うのを聞いた事は有りませんか。それを聞いた事がなくば私の話は分りませんが、若しも聞いた事が有るなら必ずお分りになりますよ」益々奇妙な事を云うが、併し秀子の密旨などを持ち出す所を見れば聞き捨てる訳にも行かぬ。余「ハイ聞きました」穴川「命に代えても行い度いと云う程の密旨ですから一通りの事では有りません。其の密旨を誰が秀子に授けました。私の今云うた神様です、サア其の神様は秀子に命をも捧げさせようと云うのですから一通りや二通り秀子の身の運命を握って居るのではなく、全く秀子を、自分の思う儘にする事が出来るのです。秀子を助けると助けぬとは、其の人に縋るか其の人を度外に置くかの区別です、嘘と思って其の人にあって御覧なさい、縦しや秀子が死んだとても其の人なら新しい命を与えて秀子を生き返らせる事が出来ると云っても好い程です」
余は問い返さぬ訳に行かぬ。
「其の人は誰ですか」穴川「サア其処が私の秘密ですよ、只は聞かせる事が出来ません、貴方から堅い約束を得た上でなくては」余「何の様な約束です」穴川「私を其の筋へ訴えたり、又は外国へまで遣ったりする前に、屹度其の人の所へ行くという約束です」余「其の様な約束が何になります」穴川「私に取っては重大な事柄です」余「何んで」穴川「貴方が其の人の所へ行って頼みさえすれば成るほど是では穴川を窘《いじめ》るにも訴えるにも及ばぬと云う合点が行って、私の有無を構わぬ事に成りますから」余「若し其の人の所へ行って、貴方の言葉が嘘だと分ったなら」穴川「其の時には私を訴えようと、何うなさろうと御随意です、勿論此の通りの身体ですから貴方が其の人の所へ行って来る間に逃げ隠れをする訳にも行かず、帰って来て捕えようと裁判所へ引き出そうと、ハイ何の様な目にも遭わす事が出来るのです」
成るほど夫もそうである、其の人に逢って見て、若し余が穴川に欺されたと分れば其の上で散々に穴川に仇を復す事が出来る。欺される気で、其の人に逢って見るも一策だ。余「では其の人の住所姓名を聞かせて下さい」穴川「佶《きっ》と其の人の所へ行くと約束しますか」余「します」穴川「行くなどといって、行かずに其のまま私を訴えたりすればそれこそ秀子は助かりませんよ。秀子は其の人から新しい命を貰わねば助かり様のない身体です。今までも既に一度新しい命を貰って、其の恩返しに、密旨の為に働いて居るのだから今度も矢張り新しい命を貰い、爾して幸福の中へ更に生まれ返った様に成らねば無益です」
余り異様な言葉だから、多分は余を馬鹿にする積りだろうと幾度か思い直したけれど、実地に試さねば分らぬ事、エエ欺されて見ようと思い「必ず其の人の許へ行く事を約束しますから住所姓名を聞かせて下さい、サア誰ですか」穴川は此の際になり、嘘か誠か、惜し相に少し躊躇し「仕方がない、私の身には大変な損害ですけれど云いましょう
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