ける者かと、又思い直して終に其の中を取り調べたが有難い事には中に何にもない。矢張り誰のとも分らぬのだ、エエ余計な心配をしたと、つまらぬ事を安心して是から残らずの着物の衣嚢を検めたが、唯一つ秀子のと思われる日影色の着物から一枚の名刺が出た、唯夫だけの事だ。
 名刺の活字は鉛筆で甚く消して有る。けれど熟く視れば読める、「医学士大場連斎」とある、これが彼の医学士であろうか、更に名刺の裏を見ると、同じ鉛筆の文字で細かく「今の境遇にて真に御身を助け得る人は仏国巴里ラセニイル街二十九番館ポール・レペル氏の外には決して之なく候、既に同氏へ御身の事を通信致し置き候間、直々に行きて御申込成さる可く候」とある。何の事だか分らぬけれどこれこそは大切の手掛りとも云う可きだ。余が此の室を逃げ出し得ずして死んで了えばそれ迄だが、若し死骸と為らずして此の室を出る事が出来たなら必ず此のポール・レペルと云う巴里人をも尋ねて見よう。秀子を助け得るは此の人の外に無いと云う意味だから、秀子が何の様な境遇で何の様に助けられたのか夫とも茲に「御身」とあるは、秀子ではないのか、其の辺の事を突き留めずには居られぬ。
 其のうちに早や午後と為り日暮と為った。余は空腹が益々空腹と為る許りだ。此の上に取り調べる所もないから、もう逃げ出す道を求める一方だが、さて何うしたら逃げ出されよう、少しも見込みが附かぬ。
 考えながら次の室へ行って見ると、彼の白痴は煖炉の前に仆れ、眠ったかと思えば可哀相にサ、余が眠らぬ為此の者にまで食物の差し入れがないと見え弱り果てて、物欲し相にサ、余の顔を眺める許りだ。余は傷《いた》わって「今に私が此の室から連れ出して上げるから、ヨ、辛くても少しの間、辛抱して居るのだよ」と言い聞かせた。彼は聞き分けたと見え、重そうに起き上った、爾して自分の足と繋がれて居た鎖とを、暫しの間見較べて、頓て余の今まで居た次の間の方へ行った。
 見れば既に煖炉の火も消えて居る。猶焚く物は有るのだから、再び火を起すのは容易だが、何しろ燐燧が乏しいから夜に入って寒くなるまで此のままに置くが好かろう。
 夜に入らぬうち逃げ道を探すのが肝腎だと、余は又立って室中の窓を悉く検めたが、孰れも真の牢屋の様に、鉄の棒を入れてある棒の中に、若しや上下の弛んで居るのはなかろうかと、一本々々を揺さぶって見るけれど孰れも堅固だ。幾等余の力を加えたとて其の甲斐はない。最早落胆せざらんと欲するも得ずだ。其のうちに愈々夜に入った、万感|交々《こもごも》胸に迫るとは此の様な場合を云うだろうか。勿論腹は益々空く一方だが、寒さも追々に強く感ずる、何しろ腹に応えがなくては寒さを凌ぐ力もないと見える。最う煖炉を焚かずには居られぬ、丈夫な余さえも此の通りだから彼の白痴は猶更耐え難いだろうと思い、再び煖炉を焚き附けて次の室へ行き、残り少ない燐燧を奢って見廻すと白痴は居ぬ、扨は何所か出て行く所があるだろうかと二本目の燐燧を擦った。心細い事には最う後に三本しか残って居ぬ。

第六十一回 余の身代り

 何処に出口が有って彼の白痴は居なく成ったか。二度目の燐燧《まっち》で照らし見ると、居なくなったのではなく、余の寝た寝台の上に寝て居るのだ、此の様な境遇を爾まで辛くも思わぬ、其の眠りの安々と心地好げに見ゆることは、ホンに羨ましいと云っても宜い。余は寧っそ白痴に生まれたなら、苦痛を苦痛とも感ぜぬだけ却って仕合せで有ったかも知れぬが、今更それ愚痴に過ぎない。
 斯う旨々と眠て居る者を、起すのも罪だから其のまま余は煖炉の前にかえり燃える火を眺めて居たが、余ほど身体が疲れたと見え、椅子に凭《よ》ったまま居眠った。幾時の後にか目が覚めて見ると煖炉が全く消えて、室の中は昨夜の様な暗闇と為り、寒さは宛かも背中から水を浴びせられる様だ。暁方まで何うして凌ごうかと思って居るうち、何所からか此の暗闇の室へ散らりと燈光が射した。熟く見ると、庭に向った方の窓の戸の隙から洩れて来るのだ、最う何時か知らぬけれど此の夜更に誰が何の為に庭へ出て居るだろうと窓の所へ行き、鉄の棒に顔を当て戸の隙の最も大きい所から窺いて見るとズッと向うの樹の下に燈りを持って居るのは婆で、其の燈光をたよりに彼の医学士が鍬を以って大きな穴を掘って居る。
 是だ、是だ、穴を掘って死骸を埋めるとは、此の事だ、ハテな今夜は誰を埋めるのだろう、考える迄もない。余を埋める積りなのだ。医学士の言葉では余が空腹の為疲れるのを待ち、爾して取って押えると云う事で有ったから四五日は間があるかと思ったが、何かそう長く待たれぬ事情でも出来たのか、夫とも余が既に疲れて了ったと見込んだのか、ナアニ、未だ中々彼等の手に取り拉れる男ではない。来るならば来て見るが好いと、腹立たしさと共に俄かに勇気が出、身を引き緊めて瞰て居ると、穴は最う余ほど前から掘って居た者と見え、早や掘り上げて、医学士は身を延ばして見直した上、婆と共に家の方へ帰って来た。
 サア、愈々余を殺しに来るのだと、余は彼の小刀を手に持って、入口の戸の所へ行き立って居ると忽ち次の室に当たり、非常な物音が聞こえた。何の物音とも判断は附かぬが、何しろ尋常ではないと思い、徐々次の室に行き、三本残る燐燧のうち一本を擦って見たが、余は余りの事に「アッ」と叫んだ。何うだろう、彼の白痴が寝て居た寝台がなくなって床へ夫だけの穴が開いて居る、全く、彼の寝台が陥穽で、床が外れて、寝て居る人ぐるみ下へ落っこちる様になって居るのだ。
 此の様な惨酷な仕組みが有ろうとは思わなんだが、何でも昔此の家へ住んだ貴族か何かが敵を殺す為に此の様な秘密の仕掛を作って置いたのだ、夫を医学士が利用して、今まで幾人の命を奪ったであろう、実に残忍極まる奴等だ、夫にしても何が為にアノ白痴を此の仕掛けで殺しただろう。殆ど鶏を割くに牛の刀を以ってする様な者だと、余は少し怪しんだが、アア分った、彼等は此の寝台に白痴が寝て居ようとは思わず、全く余が寝て居ると思ったのだ。
 余は其の穴へ近づいて下を瞰いたが、真っ暗で何れほど深いか更に分らぬ。仕方なく手に有る燃え残りの燐燧を其のまま落して見ると、凡そ二丈ばかりの深さはあるかと思われる。燐燧は光を放ちつつ落ちて妙な音がして消えて了った。是で見ると下は水だ、何でも古井戸の様な者で、白痴は余の身代りと為り其の中へ入って水死したのだ。
 実に可哀相な事をした、と云って此のまま居れば遠からず人違いと云う事が分り、彼の医学士が驚いて何の様な事をするかも知れぬ、成るにもせよ成らぬにもせよ、何とか此の室を出る工風をせねば成らぬ、彼が充分に用意して、余を殺し直しに来るのを便々と待って居て耐《たま》る者かと、余は全く死物狂いになった。勿論何所から逃げると云う見込みはないが、聊か便りとするは寝台の枕許に当る絵姿である、寝台は先刻煖炉を焚いた室の方へ足を向ける方向に据って居たから絵姿の背後は廊下に違いない。爾して絵姿の眼から内を窺く眼が、丁度絵姿の目の様に見えた所から察すると、之を貼り附けて有るのは壁ではなく、板であろう、板ならば叩き破られぬ事はないと、先ず試みに叩いて見た。思ったよりも薄い様な音だ、余の力ならば一破りだ。
 余は先ず小刀を以って抉って見たが、大して骨も折れずに其の刃が突串《つきとお》った。板の厚さは僅かに四分位である、是ならばと所々に穴を開け、頓て全身に力を籠めて、推しつ叩きつした。初めてから三十分と経ぬうちに其の板を推し破った。此の様な事なら、早く気が附けば好かったのに、併し夫は今思うても帰らぬ事、兎に角室を脱け出すは勝利の第一歩だから、何の様な所かと又も燐燧の二本のうち一本を擦って見ると思った通り廊下であるが、此の廊下はダラダラと雪崩の様に向うの方へ傾いて居る。偖《さて》は穴倉へでも通じて居るのかそれとも下の室へ出られるのかと、下へ下へと降りて行くと突き当たる所に又戸がある。アア是で分った、絵姿の所の板が薄かったのも、全くはアノ板を破ったとて茲に此の様な戸が有って到底外へ出られぬ様に成って居る為である。アノ板戸はホンの身を隠して中を瞰《のぞ》く便利の為仕切りだけに設けたのだ。
 爾すればアノ戸を破ったのも実際何の役にも立たぬかと、聊か残念におもい、先ず四辺《あたり》の様子を考えるに、此の戸の前へは横手からも廊下が来て居て、茲で「丁」の字形になって居るらしい。横手へ行ったとて矢張り、突き当りに戸が有るのに極って居るから、先ず此の戸から試そうと、厚い薄いを叩き試みるに、戸の先に人の声がする。「ナニ医学士、其の様に甚く叩かずとも其の戸は先ほど婆さんが瞰きに行ったとき開けた儘で、錠は卸りて居ないのだよ」此の声は確かに穴川甚蔵である。錠が卸りて居ないとは何たる仕合せだろう。余は蘇生の心地をして「医学士ではなく私ですよ」と云いつつ其の戸を開いて内へ這入った、果して甚蔵の寝て居る室である。

第六十二回 毒蜘蛛

 今考えて見ると彼の絵姿を貼ってあった所は元の戸口で有ったけれど、其の戸がなくなったので板を填めそうして壁の色の違うのを隠す為に詰まらぬ絵を貼り、旁々外から内の様子を窺く便利に供して置いたのだ。つまり彼の室の内で一番破り易い所であった。余が彼処へ目を附けたのは幸いで有った。其の上に丁度甚蔵の寝室の戸の開いて居る時に出て来たのは殆ど天の助けとも云う可きだ。
 余が甚蔵の室へ這入ると、彼は寝て居ながら直ちに短銃《ぴすとる》を取って余を狙い「身動きをすると命がないぞ」と威かした。余は落ち着いた調子で「穴川さん、貴方は馬車で此の家へ帰り着くまで、有難いの、命の親だと私を拝まぬ許りで有ったのに、短銃を以てその謝意を表するのですか」穴川は余の顔を打ちながめて、「エ、エ、貴方ですか、大場医学士が貴方だとは云わぬ者だから」と言訳の様に云いつつも猶短銃を下げようとはせぬ。余は此の忙しい間にも大場と云う名を耳に留め、偖《さて》は秀子の服と思われる彼の日影色の被物から出た名刺に大場連斎とあったのが全く此の悪医者だなと、心の底にうなずいて「ハイ汽車の中から此の家まで貴方を介抱して来た当人です、ナニ未だ逃げもせず、貴方を害しもせぬから暫く其の短銃をお下げなさい」穴川「イヤ此の身体では此の外に頼りとする者も有りませんから下げません。けれどナニ貴方が正直にさえ仕て居れば、必ず射殺すと云う訳でもないから」余「では有体に云いますが、貴方に少し話が有るから、外の人に妨げられぬ様に此の室の戸を閉じなさい」余「鍵は何所にありますか」穴川「鍵は其の戸に附いた儘で有る筈です」成るほど錠前の穴へ填った儘である。余は全く此の家を立ち去る前に厳しく穴川に談判して置かねば成らぬと思う為、医学士の這入り得ぬ様、中から確かに錠を卸した。爾して室の中を見廻すと、穴川の枕許に、小卓の上へ、食物を盛った皿や飲物などが出て居る。多分は医学士が仕事を了った上で夜食する積りであろう。けれど遠慮する場合で無い。「穴川さん今日一日|食干《ひぼし》に遭った為、空腹で言葉の順序さえ間違い相です。先ず御馳走に與かりますよ、話は腹の出来た上に致しますから」と云い、卓子に就いて遠慮無く喫《た》べ始めた。勿論粗末な品では有るが、此の様な旨い思いは、覚えてから仕た事がない。甚蔵は感心した様子で「アア好い度胸だ、立派な悪党に成れる」と独語《ひとりごと》の様に云うて居る。余「ナニ悪党などに成り度くは有りませんが、腹の空いた時に喫いたいのは度胸の有無に係わりませんのさ」
 余が喫べて居る間に室の外では頻りに足音がする。何でも医学士と婆とだろう。音の様子では余の閉じ籠められて居た室を検めに行ったらしい。今に驚いて降りて来るだろうと思う間もなく、果たしてドサクサと降りて来て室の外から「博士、博士、大変だよ、彼奴巧みに様子を察し、身代りを立てて置いて逃げて了った」確かに医学士の声だ。穴川「ナニ逃げはせぬ、今此の室で、貴殿の用意して置いた、夜食を喫べて居るのよ」医学士「エエ彼奴がか、余っぽど腹が空いたと見える、拙者の今までの経験では空腹ほど人を意気地なくす
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