外はない、余を閉じ籠めた悪医学士の目的は分って居る、余に此の家の秘密を探られ自分等の罪悪を察せられたと思うから、唯余を此の世になき者とする一方だ、徒らに余を窃《いじ》めたり威したりする訳ではなく真に余の一命を取る積りで掛って居るのだ、何も爾としか思われぬ。
誰か余を助けて呉れる者は有るまいか。イヤ有る筈がない。余が此の家に居る事は誰も知らぬ。真の夜中に、誰一人知らぬ間に我が家を脱出し、尤も途中でローストンの停車場から秀子に宛て電報を出したけれど用事の為|倫敦《ろんどん》へ行く様に書いて置いた。余が数日帰らねば必ず倫敦を探すに違いないが、倫敦に居ぬとなれば其の上の探し様はない。
此の家の奴等は人を殺すのを商売の様にして居るのだから、余一人を殺すのを爾まで臆劫にも思うまい。庭の樹の下へ穴を掘ると婆の喋ったので分って居る、今まで幾人も此の室で殺して屋敷うちへ埋めたに違いない、余が此の通りの目に遭ったとて、誰がそうと知る事が出来よう。単に倫敦から行衛知れずに成った者と見做されて了うのだ。
実に辛い、残念だ、自分の死ぬるを厭わぬとしても、後で秀子が何の様な目に遭うだろうか。余の外に保護者とてはなく、叔父は有ってもなきが如しだ、少しも真逆の時の役には立たぬ。事に寄ると今既に秀子は肝腎の時に余が不在と為ったのを心細く思って居るかも知れぬ。
お浦が紛失して未だ幾日も経たぬのに、又も余が消滅したのならば、世間の人が幽霊塔を何の様に言うだろう。叔父も住み兼ねて他へ引き移るかも知れぬ。
併し空しく考えたとて詮ない訳だ、何とかして逃げ出さねば成らぬ。命の残って居る限りは逃げ出す道も求めねば成らぬ、併し此の暗やみで室の中の様子さえ分らぬでは道を求める由もないのだ。何時まで暗い訳ではなく、五六時間も経てば自ら夜は明ける、とは云え昼間では益々逃げ出すに都合が悪い。扨は明日の晩まで此の室に居ねば成らぬのか知らん。
如何にも癪に障る訳だ、夜の明けるまで寝るとしても埃の一寸も溜って居る室の中に身を横たえる訳に行かず、室の何所かに寝台でも有れば好いのに、爾だ、手探りに探って見よう、探って少しでも能く室の様子を知り、縦し身を横たえる所はないにしても少しでも早く逃げ出る道を得ねばならぬ、斯う思って余は探り探り元の室へ来、中の住者にも構わず、只管四方の壁を探ったが、一方には昔火を焚いたと思われる燈炉《すとうぶ》の様な所も有る、窓も有る、窓には大きな鉄の棒を竪に幾本もはめて有る、昔は多分立派な居室ででも有っただろうが今は全く牢屋も同様だ。窓の鉄の棒などの頑丈なことは、宛で熊でも縋り相だ。
又一方の壁には入口と違って通常の戸の締った出口の様な所が有る。アア此の室は一室ではなく、幾室か続いて一組の座敷を為して居るのであろう。次の室、居室、寝室と元は立派に備わって居たのかも知れぬと、更に其の戸を開けて見ると錠も卸りて居ぬ、全く次の室らしい、之へ歩み入って又探ると、茲は前の室と違い、様々の造作がある、押入、戸棚、化粧台の様な物も手に触わる、爾して片方には、オヤオヤ寝台がある、最一つ次の室が有ろうかと探って見ると、成るほど一つの戸口は有るけれど、此は固く締って居る、此の上に探ったとて同じ事よ、先ず寝台の有るのを幸いに、矢張り夜の明けるまで寝るより外は仕方がない。
寝台は爾ほど汚れても居ぬ様に思われる、埃の臭気は鼻に慣れて別に感じぬが、其の外に何だか鼻なれぬ香いがある、扨は女が此の間に居て今に化粧品でも残って居るのか知らん、余り心持の悪くない香いだ、臭気ではなく寧ろ香気だ、爾だ爾だ化粧台の有ったのを見ても女の住んだ事は分る、斯う思うと幾分か心の中も寛《ゆるや》かになり其のまま寝台へ上ったが、香気は極微弱では有るけれど余の神経へ最と妙なる影響を及ぼした。確かに此の香いは秀子が常に愛して居る香料と同じ者だ、秀子の室へ這入る度に余が精神の爽かになるのを覚えるのは確かにこれだ、扨は此の室が即ち秀子の居た室か知らん、秀子が此の家に居た事は様々の事柄で察せられるのみならず、宵の程幾度か婆の口から美人と云ったのも秀子の様だ、シテ見ると此の寝台が秀子の寝た跡かも知れぬ。
余は唯是だけの事に大いに心を打ち寛《くつろ》ぎ、何時の間にか眠って了った、僅かに二三十分も眠ったかと思う心持だのに、目が覚めて見れば早や、古い窓の戸の透《すき》から朗かな旭日の影が射して居る、余に取っては蘇生の想いだ、気も軽く寝台より下り、室中を見廻したが、室に在る多少の小道具などを見ると茲に秀子の身の秘密が幾等か残って居る様に思われた。併し此等よりも猶余の心を惹く一物は寝台の枕の方に当たる壁に、大きく貼り附けてある異様な絵姿である、イヤ其の絵姿の眼である。
第五十九回 次の間の住者
絵姿は余り古くもなく勿論見事でもない。多分は名もない絵工が内職に描いたのであろう。併し大きさは絵絹が勿体ないほど大きい、姿は女の立った所である、何も別に取り所とてはないが、唯其の眼が、真成に生きた様な光を発し、余を瞰《み》下して居る様に見える、顔にも容《かたち》にも生気はないが眼だけには実に異様な不似合な生気が有る、画の眼とは思われぬ。
余が今の境遇は、知りもせぬ女の画姿などに気を留めて居るべきでない、夫だのに何となく其の眼だけが気に掛かる、扨は余が未だ寝呆けて居るのか知らんと自分ながら怪しんで自分の目を擦って見た。爾して再び頭を上げて見直したが、是は何うだ、画姿の眼の生気は全く失せて居る、何の意味も何の光もなく、矢張り画相応に無趣味無筆力の眼である、余は何うしても合点が行かぬ、或いは寝呆けて見誤ったのかも知れぬが、併し此の画像の眼に何等かの曰くがあるに違いない、決して自分の見損いとのみは思えぬ。
けれど其の詮索は、今は仕て居られぬ、第一に見たいのは昨夜の、次の室の住者である、彼は何者か何の様な姿形か、斯う思って次の室へ行って見たが、室の向うの片隅に小さくなって背屈《しゃが》んで居る、夜前思うた通り脊僂《せむし》の男、イヤ未だ男とも云い難い十五六の子供であるが、其の穢く汚れて居る事は譬うるに物もない、髪の毛は何時剃刀を入れたとも知れず、蓬々と延びて塵に塗り、猩《しょう》々の毛の様に顔に被さり、皮膚の色は殆ど煤がかった鼠色である。斯うも不衛生な有様で能く先ア活きて居られることだ。余は色々と声を掛けたが、全くの白痴と見えて一言の返事もせぬ、唯異国から連れて来た動物が檻の中から珍し相に人間の顔を眺めるのと略ぼ同じ面持を示して居る。何故に此の様な者を匿まって置くであろう、分った多分は可なり財産の有る家に生まれたので、其の親が世間体の為に此の様な子を家に置く訳にも行かず、と云って慈善院などへ入れるのも世間へ知れる恐れがあるので、金を附けて此の家へ預けたのでも有ろう。爾だ、此の家は総て人の秘密を食物にして居るので、此の様な者を預り、親から金をユスリ取る事の出来る間は活かして置き、金が出ぬ様になれば殺してひそかに庭の木の下へ穴を掘って埋めるのだ。世間に満ざら類のない商売でもない、物の本では折々読んだ事もある。
先ア何しろ此の態では可哀相だ、救い出して人間並みの待遇を受ける事に仕て遣り度い。縦しや秘密の場所へ隠すにしても、是では遙かに犬猫に劣る仕向だから、若し余が茲を脱け出る事が出来れば必ず此の者を連れて出よう、夫が出来ずば此の者と共に留まり自分の手で傷わって遣ろうと、余は今までに覚えぬほど惻隠の心を起した。
切《せめ》ては此の室の中で窓の隙から日の光の差す辺へでも坐らせて置き度いと思い、手を取って引くと、オヤ其の手に麺麭《ぱん》の屑《かけら》を持って居る。扨は今朝既に食物の差し入れが有ったと見える、斯う思うと誠に賤しい話では有るが余には未だ差し入れがない、時計を見れば、早朝かと思ったのに既に九時を過ぎて居る。余は俄かに空腹を感じたが、何でも余は医学士の言葉の通り断食の儘で、身体の弱り果てるまで置かれる事と見える、今からひもじいなど思う様では仕方がないと、忽ち思い直して再び彼の手を引き立てると、彼の足には鎖が附いて重さが七八貫も有ろうかと思われる鉛の錘《おもり》へ、極短く結び附けられて居るのだ。
夜前は飛んだり跳ねたりして居たのに、アア爾だ今朝食物の差し入れの時、更に繋ぎ直されたのだ、誰が此の様な事をするか、是も医学士だ、シテ見ると医学士が今朝茲へ這入って来たのだ。実に大胆不敵な奴、余が此の室に居るのも構わず、イヤ夫とも余の眠って居たのを知って居たか知らん、爾だ知って居た、知って居た、爾なくば到底も這入って来はせぬ、併し待てよ余の眠ったを知って居たとすれば、何処かからひそかに余の挙動を窺いて居ると見える、ハテ其の様な窺く所があるか知らん。オオ、分ったぞ、分ったぞ、アノ絵姿の眼がそれだ、目の所が抉抜《くりぬ》いて有って、丁度外から其の目へ目を当てて中を窺くのだ、余り面白くもない工風を仕た者だ、宜し、斯うと分れば余にも亦余だけの工風がある。
余は胸の中に工風をたたみ、先ず此の住者の足の鎖を解いて遣ろうと、衣嚢から例の小刀を取り出して、其の中の錐や旋抜きなどを、鎖に附けて有る錠前に当て、智恵の限りを盡して見たが凡そ三十分の余に及んで到頭錠前を外して了った。
白痴ながら住者は甚《ひど》く喜んで室の一方の隅へ行き、何か拾って握って来て、お礼と云う見得で余に差し出した。其の手を開かして見ると、有難い、昨夜余が翻《こぼ》した燐燧を拾い集めた者で其の数が七本ある。余は涙の出るほど有難い、早速受け取って、一本の葉巻|莨《たばこ》を燻らせたが、是でも蘇生の想いがある、ナニ空腹も大した苦痛ではない。
余は何か返礼をと思い、次の室へ行った、化粧台の中にある小箱や抽斗の戸などを外して来て夫等を砕いて煖炉に火を焚いて遣った。ナニ此の室の造作は悉く薪にしても惜しくはない、手当り次第に持って来て投げ込むと中々大きな火が燃え出したが、秋とは云えど朝などは早や肌寒を覚える頃だから、彼白痴の喜ぶ事、手を拍って煖炉の前で雀躍《こおどり》して居る、是が多分は余が生まれて以来第一等の功徳であろう。
第六十回 後に三本
煖炉の燃えて居る間に余は次の室に行き戸棚の中を検査したが、殆ど無一物の有様では有るけれど棚の隅に二三の薬壜が埃に埋まった儘である。若し余の想像の通り秀子が此の室に入った事が有るとすれば或いは是等の薬を呑んだかも知れぬと、取り出して埃を吹き払い、其の貼紙を見ると、一個は「阿片|丁幾《ちんき》(毒薬)」と記して有る、一個は「発病の際|頓服《とんぷく》す可し」とあり、残る一個は単に「興奮薬」とのみ記して有る。医学の心得のある人なら是だけで何等かの想像も附くだろうが、余には別に手掛りと云う程の手掛りにもならぬ、次に押入を開いて見たが、下の隅に着物を丸めて突込んだと云う様な一塊がある。取り出すと非常に黴臭いが、確かに女の着物で、是も二三種は有る様だ。先ず別々に取り分けたが、其の内の一枚は秀子のに相違ない、秀子が何時も着て居る日影色の無地である、今一枚は少し短くて幅が広いかと思われる、之は仕立の粗末な所が何うも出来合いの安物を買ったのらしい。或いは虎井夫人が着たのでは有るまいか、此の着物と一緒に成って、白布の上っ張がある、之は看護婦などの着けるのだ、扨は秀子が此の室で病気をして看護婦でも呼んだのであろうか、夫とも秀子か虎井夫人かが之を着けたのであろう、執れとも判り兼ねる。
今一枚、妙な浅黄色のが有るから最後にそれを検めると、余は実に気分が悪くなった。何うだろう、其の服は英国の監獄署で女の囚人が着ける仕着せである。真逆に秀子が此の様な物を被た筈はない。虎井夫人であろう、爾だ虎井夫人だ、虎井夫人だ、念の為衣嚢を引っ繰返して見れば、或いは中から誰のだか分る様な品物が出るかも知れぬ、ドレ引っ繰返そうかと余は手を出したけれど容易にそれほどの勇気が出ぬ、万に一つも秀子のと云う証拠でも出たなら取り返しが附かぬ、イヤ其の様な筈はない、何で秀子が囚人の服などを着
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