られぬ場合だ。
ソロソロと探る手先に、塗れ附く様な気のするのは床の埃で、仰山に云えば五六分も積んで居ようか。此の様な所で、人にもせよ獣にもせよ、能く命が続いたものだ。燐燧の箱も或いは埃の中へ埋まったかも知れぬ、夫とも何処かへ飛び散ったのか、余の手の届く丈の場所には無い。斯して居る間にも何者かが暗の中から余の挙動を伺って居る者と見え、手に取る様に其の呼吸が聞えるのみならず、呼吸の風が温かに余の頬に触わるかとも疑われる。
余は漸くに燐燧の箱を探り当てたが、何うだろう中は全く飛び散って空になって居る、之には全く絶望した。箱さえも埋まるかと思う埃の中で、細い燐燧に何うして探り当てる事が出来よう。と云って探らずには居られぬから、今は自狂《やけ》の様で、前へ進み出で、右に左に探るうち今度は更に今の怪しい生物に探り当てた。何だか匍匐《よつんばい》に這って居る様子だが獣物でなく、人の様だ。寒いのか恐ろしいのかブルブルと震えて居る、今の時候では未だ震える程の寒さではないが、爾すれば全く余を恐れての事と見える。
斯う思うと余は聊か気丈夫に成った。先が余を恐れるならナニも余が先を恐れるには及ばぬ、寧ろ声を掛けて安心さして遣るが宜いと、低い声で「コレ何も己を恐れる事はない、お前の敵ではなく味方だよ、助けに来たのだよ」と云った、けれど少しも通ぜぬ様子だ、シテ見ると或いは人ではなく、矢張り獣物だか知らんと、又一応探り廻して見ると確かに被物《きもの》、而も襤褸《ぼろ》を着ては居るが背中に大きな堅い瘤の様な者がある。ハテな脊僂《せむし》ででも有ろうかと其の瘤を探り直すと、出し抜けに彼は余を跳ね返した。
余は不意の事に、思わず背後へ手を突いたが、有難い其の手の下に正に一本の燐燧がある。早速に之を取り上げ、自分の被物で擦って見ると、明かりと共に余の目に映ずるは双個の光る眼である。次には大きな口から白い歯を露出《むきだ》して光らせて居るのも見える、人間は人間だが、余ほど異様な人間である。エエ最う一本燐燧が有ればと思う折しも、背後の方に荒い足音が聞こえて誰かヅカヅカと這入って来た。見咎められて捕われては大変ゆえ余は直ぐに燃え残る燐燧を吹き消し、遽てて背後を向いて見たが、狭い彼の入口から手燭を持って、医学士と其の後に婆が続いて入り来るのであった。
第五十六回 兵法のいろは
医学士は早や狭い廊下を通り盡して此の室の入口に全身を現わした。其の腋の辺から彼の婆が首を出して窺いて居る、彼は左の手に燭を持ち右には抜身の光る長剣を提げて居る、余を殺す積りか知らん。
併し彼は、余の姿を見て驚いた様子だ、多分此の室に此の様な他人が居ようとは思わず、唯何だか物音のするを聞き、此の室の兼ねての住者が騒ぐ者とのみ思い、威かして取り鎮める積りで長剣を光らせて来たので有ろう。余は彼の驚き怪しむ顔色を見て確かに爾だと見て取った。
彼は暫く余の姿を眺めた末、厳重な余の身体に少し恐れを催したか、身を引いて狭い入口の道へ這入った。スハと云えば逃げ出す覚悟と思われる。成るほど思えば尤もではある。医学者などと云う者は縦しや如何ほど悪党でも、腕力で以て直接に人と格闘して取り挫ぐなど云う了簡はないもので、一身の危い様な場合には兎角に逡巡《しりごみ》する者だよ、殊に此の様な室へ余が独りで忍び込んで居る所を見ては、何の様な命知らずだろうと奥底を計り兼ね、余が彼を恐れるよりも彼一層余を恐れたと見える。
医学士の姿を見て此の室の住者は、全く畏縮して余の背後へ小さく隠れた。余は斯る間にも、医学士の持って居る手燭のお蔭で聊か看て取る事を得たが住者は全く人間で有る、獣物ではない、爾して鎖で繋がれて居た者と見え、一方に鎖が横たわって居る、併し其の鎖は切れて居る、是で先刻医学士が、最っと鎖を緊ねば可けぬなど云った意味も分る。
頓て医学士は顔に怪しみの色を浮かべたままで婆に振り向き「オヤオヤ婆さん茲に此の様な紳士がいるぜ」と云った。紳士とは痛み入る叮嚀なお言葉だが、商売柄だけ誰を見ても紳士と云うのが口癖に成って居ると見える、婆は医学士の背後から「イエイエ、お待ちなさいよ、グリムを呼んで来て噛み殺させるから」と云い早や立ち去ろうとする様子だ。グリムとは例の犬の名と察せられる、男たる物が犬を相手に、而も彼の猛き中の最も猛きボルドー種の犬を相手に、命の取り遣りをせねば成らぬかと思えば余り好い気持でない、医学士は之を留めて「イヤ婆さん、お前は此の紳士を知って居るのか」
婆「アア先っき伜を馬車に乗せて連れて来た人だよ」医学士「爾かい。では先刻途中で私を医学士とお呼び掛け成すったは貴方ですか」と是だけは余に向って云った。余は勿論叮嚀に、且つ厳かに、「ハイ私です」
医学士「ハハハハ停車場《すていしょん》へ、預けてある荷物を受け取らねば成らぬと仰有ったが茲は停車場では有りませんよ、貴方の商用とは大変な商用ですネエ」嘲けるよりも寧ろ打ち解けて笑談《じょうだん》を云う様な口調で云うた。是も彼が日頃の職業柄で慣れて居る口調であろう。余「ハイ有体に申せば、此の家へ忍び込む為に貴方を欺いたのです」
彼は急に真面目になり「成るほど私に油断をさせたのですネ、夫は兵法の「いろは」ですが、併し何で此の家へ忍び入り度いと思ったのです、貴方は探偵ですか」余「イイエ」医学士「成るほど探偵ではない、物の言い振りで分って居るが、矢張り唯の紳士ですな、唯の紳士が何の為に他人の家へ、物取りですか」余「先ア其の様な事とお思いなさい。兎も角私は忍び込んで既に多少見届ける所が有りましたから目的の一部は達しました。之で此の室の住者と共に茲を立ち去りますから、サア其所を退いてお通しなさい」
余は全く此の住者を連れて立ち去る積りである、此の住者が、何者か又何の為に茲に居るか、少しも考えは附かぬけれど、鎖まで附けて繋いである所を見れば、当人の意に背いて引き留めてある事は確かだから此の者を連れて去るのは此の者を救うのも同様だ。医学士は考えつつ「イヤ勿論貴方の立ち去るのを吾々が邪魔する権利は有りませんから勝手にお立ち去りなされですが、併し私は此の家の主人ではなく、只主人と懇意な間柄と云う許りで、御存知の通り主人は大怪我の為前後も知らず寝て居ますから、後で正気に返った時、若し私に向い、何故に他人の家へ忍び入る紳士を其のまま帰したかと問わるれば私は一応の返事もせねば成りません。其の時何と返事を致しましょう、是だけは貴方から伺って置かねば成りません」余「其の時は――左様サ、私が一枚の名刺を残して置きますから私の許へ親しく聞きに来いと言って下されば宜しいのです」医学士「では茲へ此の手燭を置きますから、余り時間の経たぬ中にお立ち去りを願います。お名札は下で戴きましょう、其の節猶一言申し度い事も有りますから」
斯う云って狭い出口を悠々と去って了った。婆は気を揉んで「お前、アノ様な者を何故立ち去らせる。お前は好かろうが、後で私が甚蔵から何の様な目に遭うかも知れぬ」と頻りに苦情を云う声も聞こえた。けれど何の甲斐もなく医学士に連れ出されて了った。
とさ、斯う思って居る中に早や外から入口の戸を犇々《ひしひし》と締める音が聞こえる、サア大変だ。余は医学士に一ぱい陥《は》められた。
第五十七回 後は真の暗闇
戸を閉じる音を聞きて余はハット驚いた、若しや医学士に一ぱい陥められたのではなかろうか、斯う思って狭い廊下を、戸口の所へ馳せ附けたが、残念、残念、事既に遅しである。外から既に戸に閂木を差し了った後である。
今思うと余は実に愚かであった、医学士が意外に弱い音を吐いて、少しも余の立ち去るのを妨げぬ様に云った時、余は彼の心に一物ある可きを看て取らねば成らぬ処であった。真逆に少しも疑わなんだ訳でもないが、斯様な巧みとまでは気附かなんだ、殊に手燭を置いて行かれた嬉しさに、此の燈光で室の中を見ようと思い、イヤ見ようと思うほどの暇もなく、只浮っかり見廻して居る間に、早くも斯様な目に逢ったのだ。
戸の外には未だ医学士と婆とが居るらしいから、余は戸を叩いて「モシモシ何で此の戸をお締めなさる」と叫んだ。医学士は鍵穴の辺へ口を接近させた様子で「イヤ貴方は其の室の中の住者を大層お可愛がり成さる様子だから当分同居させて上げようと思いまして」と無体極まる言葉を吐いて呵《から》々と打ち笑った、余は怒髪冠を衝くと云う程の鋭い声で「実に貴方がたは失敬です、人を一室へ閉じ込むなどと」医学士「左様、夜中に他人の家へ忍び込むのと大体似寄った仕打ちでしょう、私の方ばかりが失礼でも有りませんよ」余「余り卑怯です。私の所業に咎む可き所が有れば公公然とお咎め成さい。逃げも隠れもする男では有りません、裁判所の召喚にでも、決闘の挑発書にでも、ハイ何にでも応じます」医学士「爾でしょうよ、決闘などは仲々お強そうだ、今では迚も私は叶いませんから最う四五日も経てばお相手致しますよ。先ア其の室に四五日居て御覧なさい、幾等貴方が強くとも飢えと云う奴には勝てませんよ、好い加減に身体が弱って、決闘するなどの心がなくなりますから、ハイ其の節緩くり御意見を伺いに参りましょう」
此の様な横着な、狡猾な、爾して癪に障る仕打ちが又と有ろうか、余を飢えさせて弱らせて其の上で相手にする積りで居やあがる、余「では四五日も私を此の室へ閉じ籠めて置くと云うのですか」医学士「ハイ抵抗力のなくなるまでお宿を致す外は有りません」余「実は貴方がたのする事は人間に有るまじき所業です、何等の卑劣、何等の卑怯です、私の立ち去るのを少しも邪魔せぬなどと云い欺いて油断させて置いて、出し抜けに私を此の室へ閉じ込むなどと」医学士「ハイ夫が貴方に教わった兵法のいろはですよ。確か停車場へ荷物を取りに行くとか云って私に油断させ、爾して此の家へ忍び込んだは貴方でしたねえ、唯貴方の名刺を頂かなんだは残念ですが、夫を戴いたりする間に気が附かれては成らぬと、何れほどか私の心が迫《せ》かれたでしょう。ナニ名刺は今戴かずとも貴方が抵抗力のなくなった頃、衣嚢を探れば分ります。何しろ貴方のお得意の此の兵法のいろはと云うは、用いて見ると仲々功能が有りますねエ」余は悔しさに地団太を踏んだ。余「エエ、其の様な無礼な言葉は聞きたく有りません、口数に及ばず一言でお返辞なさい。此の戸を開けますか開けませんか」医学士「ハイ一言で申します、開けません」とせんの語音に非常の力を込めて云う憎さ、余「開けねば内から叩き破ります」医学士「何うかそう願います」余は我が身が微塵と成っても宜いと、全身の力を込めて戸に突き当ったが宛で石の壁に突き当てたる様な者だ、音はするけれどビクともせぬ、外からは医学士が「オオ中々力がお強い、今に戸が破れますから精出してお突き当り成さい」
無益とは知っても斯う冷かされては其の儘止む訳に行かぬ、最一度突き当たって驚かせて遣ろうと、身構えをして居ると、忽ち室の中が暗くなって来た。余は此の時までも気附かずに居たが、医学士の置いて行った手燭の短い蝋燭が段々に燃え下り、到頭燃え盡きて了ったのだ。エエ残念な事をしたと、是も今更後悔の念に堪えぬけれど仕方がない、医学士は鍵穴から此の様を窺いて知ったと見え「サア婆さん最う行こうよ、己はな、油断させる為に手燭を室の中へ置いて来たから、夫が気に成り何でも蝋燭の盡きるまで調弄《からこ》うて居るが得策だと思ったが最う調弄うて居る必要もなくなった」と云い捨てて全く立ち去る様子である。彼何所迄悪智恵の行き届く悪人だろう。到底余の如きの手に終える奴ではない、余は只管に呆れつつも「お待ちなさい、お待ちなさい」と呼び立てた。けれど彼は耳にも掛けずに去って了った。後は深山の様に静かで、爾して真の暗闇である。
第五十八回 絵姿の眼
余は実に痛い目に遭った、真暗な一室へ閉じ籠められ、今は如何ともする事が出来ぬ。
何うすれば好いだろうと様々に考えても何の思案も浮んで来ぬ。此のまま茲に飢死にせねば成らぬだろうか。そうだ何うも飢え死ぬるまで此の室の囚人となって居る
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