外は森として何の聞こゆる響きもない、医学士はもう立ち去ったか知らん、兎に角も案内は既に知って居るから裏口へ廻り、中を窺くと先刻甚蔵を舁ぎ込んだ台所の戸が猶だ開いた儘で居る、実は初めて這入った時の様に窓から這入る積りであったが、窓には及ばぬ、直ちに忍びの靴を着けて其所から入ったが、目の届く限りには誰も居ぬけれど、彼の恐ろしい蜘蛛の室からは話し声も洩れ、爾して其の戸の鍵穴からは燈光も射して居る、耳を着けて聞いて見ると、医学士が猶だ居るのだ、怪我人の手当を終った後で、此の室へ来て婆と話をして居る者と見える「随分甚い怪我だよ、何所の奴だか知らぬが、直ぐに救って呉れんなら、今頃は庭の松の木の下へ例の穴でも掘って居る所だアハハハ」と打ち笑うは医学士の声だ。此の言葉で見ると庭の木の下へ穴を掘るのは余の想像した通り全く死骸を埋めるのだ、余も事に由ると埋められる者と成りは仕まいか、真逆。

第五十三回 忘れたよ

 話は聞こえるが勿論姿は見えぬ、医学士は婆と何の様な事をして居るだろう、烏酒《ういすきい》でも飲みながら話して居るのか、成ろう事ならソッと戸を開けて窺いて見たい、けれど窺いたら大変だ、アベコベに見附けられて、硝燈《らんぷ》でも持って出て来られたなら、余は何の様な目に逢うも知れぬ。
 医学士は猶言葉を継いで「大事な時に怪我をしたなあ、何でも甚蔵は美人に逢いに行って、其の帰りに汽車が転覆したのだ、美人の口から彼の秘密を聞き取ったか知らん、博士の腕前だからよもや聞き取らずに帰りは仕まいが、聞いたのなら己も早く聞かせて貰い度い、生憎|囈言《うわごと》の外に何にも云わず、問うたとて仕方がない、若しや婆さん、お前に何か云わなんだか、甚蔵がアノ美人の事に就いてさ」美人とは確かに秀子の事である、秀子の敵が此の様な所に居て様々の狂言を仕組んで居ようとは実に意外千万な訳だ。けれど余は此の意外の所へ、意外の事で来た為に、此の様な密事を知る事が出来るのだ、云わば鉱脈に掘り当てた様な者だから余は何処までも此の脈を手繰って、鉱のある丈は掘り盡さねば成らぬ。
 婆は例の間の抜けた声で「美人とは誰だネ、倅が情婦でも拵えたのかネ」と問うた、医学士は腹立しげに舌鼓して「エエお前もそう老耄《おいぼ》れては仕方がない、頭を打たぬ以前は娘より十倍も捷《かしこ》い女であったが今は何うだ、虎井夫人の十分の一の智慧もないワ」愈々虎井夫人も此の婆の娘で、甚蔵の姉か妹である事が分る、丁度似た年頃で何方が上だか分らぬが、虎井夫人の方が姉だろう、女は八十に成っても矢張り若く見られたがって、若作りをする者だから、男と同じ年頃に見えるなら必ず女の方が年上だ。婆は諄《くど》くも「でもお前さんは甚蔵は美人に逢いに行ったと云うたじゃないか。美人とは何所の美人だエ」医学士「本統に呆れて了うなア、何れ思い出させて遣ろう、昔大雨大風の晩に、此の家へ馬車が着いただろう」婆「ウム馬車か」医学士「中から先ず馭者が出てよ、毛皮の襟を外して顔を出すと唯の馭者ではなくてよ」婆「オオ、爾々、馭者ではなくてお前だった」医学士「ソレ覚えて居るではないか、己だって、此の事件の為には馭者までも勤めて骨を折って居るのだから、茲まで漕ぎ附けて旨く行かねば間職に合う者か、爾して其の馬車の中から続いて出たのは誰で有った」婆「分かったよ、分ったよ、美人だったよ、爾だ先刻も其の事を誰かに話したのに最う忘れて居た」医学士「エ、エ、彼の事を人に話した、此の様な大秘密を仕様がないなア、夫だからお前に留守はさせられぬと己が常に甚蔵に言い附けて置くのだ、何処へ行って誰に何の様な事を饒舌るかも知れぬ、此の耄碌婆め、お前は甚蔵の留守に外へでも出て行ったのか」婆「ナニ出ては行かぬ門の戸まで甚蔵が例の通り閉めて行ったから」医学士「それでは誰に話しただろう」婆「忘れたよ」医学士「忘れたよもない者だ、ハテな、真逆に甚蔵を乗せて来た馬車の馬丁にでもあるまいネ」婆「アそう、そう、思い出した、甚蔵を送って来た美しい若者に話したんだ」医学士「ア途中で己を呼び掛けたアノ男にか、ハテな、彼奴真逆に探偵では有るまい、通例の商人なら、少しぐらい聞いたとて唯聞き流す丈の事だが、爾して何かコレ婆さん、其の男は根掘り葉掘り色々の事を聞きはせなんだか」婆「忘れたよ」
 忘れたは余に取って幸いである。若し覚え居て有の儘を話したら、悪に鋭い此の医学士は決して余を尋常《ただ》の若者とは思いは仕まい。医学士「エエ、好いわ、誰の目にも狂人と分り過ぎるほど分って居るお前だもの、何を云ったって人が真逆に気に留めもせぬだろう」と自ら慰める様に云い、良《やや》あって「所で婆さん、初めの話に帰るのだが、其の美人は誰が抱いて出たえ、馬車の中から」
 是が秀子の過ぎし身の事かと思えば、余の身体は石の様になり、爾して此の後は何の様な事を聞くかと、動悸が胸を張り裂く様に打った。婆「誰だったか忘れたよ」医学士「虎井夫人で有ったじゃないか」婆「爾だ、爾だ、娘だった、オオ最う何も彼も思いだした、爾してお前が、第一に仮面を被せねば了けぬと云って」医学士「エエ、思い出す時には余計な事まで思い出す、其の様な事は忘れて居るが好い」婆「爾して私が、其の美人の左の手を見ると、ネエ医学士、其の時には私の智恵が一同から褒められたじゃないか、アノ左の手にさ、エ医学士、お前は忘れなさったか」扨は愈々秀子が身の秘密まで今此の悪人等の口より聞くかと、余は凝り固まって我れ知らず身動きしたが、自分では何の響をさせたとも知らぬけれど、中に居る例の犬が早くも聞き附けたと見え、異様に警報を伝える様に一声吠えた、医学士「オヤ此の犬が吠えるとは奇妙だぞ、婆さん、お前の耳には、何か聞こえたか」婆「イイエ」医学士「真逆に戸の外で誰も聞いて居る訳でもあるまいが」と云って早や立って来る様子である。

第五十四回 人だか獣物だか

 余は実に失敗《しくじ》ったと思った。医学士が立って来れば余は暗がりへ隠れる一方だが、それも硝燈を持って来らるればそれ迄だ。折角茲まで漕ぎ附けたのに肝腎の時と為って見現わされるのかと、本統に遺憾骨髄に徹したけれど仕方がない。所が中で婆の声が聞こえた。「ナニ誰が居る者かよ、甚蔵が傍に居ないと此の犬は時々アノ様な声を出すのだよ、上の室でアレの動く音でも聞こえたのだろう」アレとは何であろうと余は此の際疾《きわど》い場合にも怪しむのを耐え得ぬ、医学士「ウム例のか、動きなど仕やがって、仕ようがないなア、最っと鉄鎖を緊《きつ》くして置くが宜い」斯う言って、出て来るのを止めた様子だ、有難い、有難い、余は真に助かった、再び此の様な事のない中に早く目的の潜戸の中へ潜り込まねば。
 斯う思ううちにも「例のか」と言い「鉄鎖を緊く」など云った医学士の言葉が耳に残って居る。何だか薄気味の悪い言葉だ、併し此の意味も其のうちには分るだろうと、跼《ぬ》き足して此所を立ち去り、見て置いた階段の方へ行ったが、四辺は全くの闇である。別に躓く物も有るまいとは思うけれど手探りに進む外はない、昼間は明るかった所為か斯う広いとは思わなんだが、探って行くと階段まで仲々遠いけれど、何うか斯うか無事に着いた。
 又手探りと跼き足で階段を上って行き、茲辺だと思う所で壁を探った。潜戸は有るには有るが堅く締って居て、動かざること巌の如しだ。最早|燐燧《まっち》を擦って検める外はない、茲で燐燧を擦るとは随分危険な事で、若しや犬でも婆でも医学士でも廊下へ出て来たらお仕まいだ。余は胸がドキドキする、是を思うと余は迚も盗坊などに成れる性質でない、最愛《いとお》しの秀子が為なればこそ斯様な事もするが金銭の慾などの為なら、寧ろ餓え死ぬ方が幾等気楽かも知れぬ。
 恐々ながら燐燧を擦った、爾して潜戸を見ると鍵穴は有るけれど鍵は填めてない、真逆の時には錠前を捻じ開ける積りで、様々の道具の附いた小刀は買って来たけれど、何うしても此の危険な所で此の戸を捻じ開けて見ようと云う度胸は出ぬ。兎も角も先ず廊下へ誰が出たとて容易には見附からぬ無難な所へ身を隠して篤と考えて見ねばならぬ、夫には二階へ上り、甚蔵の元の寝間に入るが第一だ。
 思い定めて二階へ登り甚蔵の寝間の空いて居るのへ這入り、真っ暗の中で先ず胸を撫でて気を鎮めた、爾して色々と思い廻すにアノ潜戸を開ける事は到底出来ぬ。何でも彼は内から錠を卸して有る者に違いない、愈々内からとすれば、外の方面に最う一つ出這入りの戸がなくては成らぬ、宜し宜し、表口は捨てて置いて其の裏口を探して遣ろう。
 是から二階の廊下へ出て、相変らず手探りと跼き足とで、奥へ奥へと進んで見た、所々では燐燧を擦ったが、実に奇妙な構造だよ、普通の感覚から遠く離れた昔の貴族か何かが建った家でなければ此の様な不思議なのはない、廊下を界《さかい》として一つ屋根の下が二階と三階とに建て分けて有るのだ、廊下を奥へ突き当たって左へ曲った所に余り高くない階《はしご》が有って三階へ登る様に成って居る。之へ上れば丁度潜戸の方へ向って行く様に思う、事に依ると秘密の在る所の最う一階上へ出るかも知れぬ、何でも試さぬ事は分らぬと余は三階へ上った。茲にも廊下の左右に戸を閉じた室が幾個もある、戸の引き手を旋して見ると敦れも錠が卸りて居るが、中に唯一つ爾でないのが有るから、戸を開いて首を入れて見ると蜘蛛の巣がゾロリと顔に掛った。
 エエ茲も厭な蜘蛛室であると見える、余は遽てて戸を締め、更に廊下をズッと奥へ行くと行き止りに戸が閉って幸に鍵穴に鍵が填って居る。之を取って戸を開けば、下へ降りる様に成って居る、降りれば果して中二階らしい、何う考えても茲が彼の潜戸の中に当たる。
 占めた、占めた、最う秘密は手近で有ろうと又も燐燧を擦って見ると只の広い板の間で少し先の方に室らしい処が見え、入口の戸が新しく目立って居る、是だなと其の前へ立ち、暫く戸に耳を当てて居たが、其のうちに微かながらも異様な声が内から聞こえた。人だか獣だか夫までは分らぬけれど、長く引く呻吟《うめき》の声だ、其の物凄い事は何とも云えぬ。唯ゾッとする許りである。

第五十五回 暗《やみ》の中の一物

 余が何よりの失念は蝋燭を買い調えて来なんだ一事で有る。此の様な時に燐燧の明かりほど便りない者は無い、少しの間、少しの場所を照すけれど、直ぐに燃えて了って其の後は一層暗くなる様な感じがする。若し衣嚢の中に忍び蝋燭が一挺あったら、何れほどか助かるだろうに、殊に心細い事は、生憎余が持って居る燐燧が残り少なく成って居る、数えて見ると僅かに十二本しか無いのだ、十二本の燐燧で暗い暗い此の蜘蛛屋の大秘密を見究める事が出来ようか。
 けれど唯一つ幸いなは戸の鍵穴に鍵が填った儘である、猶予すれば益々恐ろしく成って気が怯む許りだから余り何事も考えずに、目を瞑って猛進するが宜かろうと、余は直ぐに其の戸を明けて中へ這入った。仲々重い戸である、牢獄の戸かとも思われる戸の中が、暫しの間矢張り廊下になって居る様子だが、狭い事は非常である、決して二人並んで通る事は出来ぬ。余は此の狭い所をば、挾まれる様になって三間ほども歩んでヤッと広い所へ出た。茲が即ち室に違い無い。獣類だか人だか分らぬ声を発したも此の室の中に住んで居る何かの業であろう。
 多分此の室は今、医学士の婆と話して居る頭の上に当たるらしい。「アレが動くのだ」と云った物音も此の室だろう。アレの本体も此の室で分るだろう。余は狭い所から身体を半分出して様子を伺ったが、室の中には不潔極まる臭気が満ちて居るけれど、何の物音もせぬ。茲こそはと、燐燧を擦《こ》すると、未だ其の火が燃えも揚らぬ中に、忽ち右手の暗から黒い一物が飛び出し、余の前を掠めて左の暗へ跳ねて這入った。余の燐燧は消されて了った。のみならず其の物が強く余の手に触れた為、余は肝腎の燐燧の入物を何所へか叩き落された。
 暗がりでは命にも譬う可き燐燧を、箱ぐるみ叩き落されては、何うする事も出来ぬ。余は真に途方に暮れ、唯身を蹐めて床の上を探る許りだ、何でも燐燧の箱を探し出さぬ事には一寸の身動きもせ
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