ばれぬことはない、運ぼうとして俯向いて居ると、背後から出し抜けに余の頭をしたたか擲った者がある、振り向いて見ると今の婆で早や二度目を打ち下そうと彼の斧の柄を振り上げて居る、余は遽てて其の痩せた凋《しな》びた手を捕え鋭く叱り附ける調子で「何を成さる、私を敵とでも思ってですか」と云いつゝ篤と其の顔を見ると婆は柄にない子供の様な声で「オヤ甚蔵の敵ではないの」と問い返した、愈々以って狂人だ、余「敵ならば大怪我をした貴女の息子を何で故々馬車に乗せてここまで送って来ますものか」婆は驚き「エ甚蔵が怪我をした、アノ馬車に寝て居ますか」と云って捕えた手を振り離して下へ行った、狂人でも親子の情は別と見える、是で以て婆が甚蔵の母と云う事も分った、後には余が寝台を引きずり、斜めに階段の上をすべらせて下へ卸しつつも、潜戸の所を見ると早や戸を閉めて壁だか戸だか一寸と見分け難い程になって居る、狂人の用心深いも驚く可しだ、ナニ今に此の潜戸の中を検める時も来るだろうと呟き、其のまま下へ降りて廊下を其処此処と検めたが、漸く然る可き一室を見出して、甚蔵を寝かせる丈の用意を済ませた、茲には幸い余の嫌いな蜘蛛も居ぬ。爾して再び馬車の許へ行き、犬と婆とを押し退けて馬丁に手伝わせ、甚蔵の頭と足とを持って叮嚀に家の中へ運んだが、此の叮嚀には大いに婆と犬とに信用せられたと見え、双方とも有難相に尾を振って(イヤ婆は手を――振って)転々《ころころ》と随いて来る、頓て甚蔵を寝台に上せ、馬車には定めの上の賃銀を与え猶ペイトン市から至急に医者を寄越して呉れと言い附けて帰し、爾して余は婆や犬やに対するには却って権柄を示すが宜いと思い、殆ど主人風を吹かせて甚蔵の頭元《まくらもと》へ座を占めたが、甚蔵は家に帰り着いた安心の為好く眠り込んだ、婆は唯|茫乎《ぼんやり》して甚蔵の寝顔を見て居る、爾して犬は獰猛な質に似ず、余の膝へ頭を擦り附けて居る。
 婆は此の様を見て「アア貴方は甚蔵の敵でない、敵なら此の犬が斯うは狃染《なじ》みません」余は口軽く「ナニ甚蔵に敵などある者か」と云いて口占《くちうら》を引くに、婆「でも此の家へ来る者は皆敵だから誰も入れては可けぬと甚蔵が云いますもの、閉じ込んで置く者の外は誰も入れません」閉じ込んで置くとは何を指して云うのだろう、余は又軽く「閉じ込んで置くとは蜘蛛の事ですか」婆「ナニ此の上のですよ」と云って天井を見上げたが何の意味か益々分らぬ、婆は語を継いで「閉じ込むのは貴方の様に昼間は来ませんよ。夜半に蓋をした馬車で甚蔵か医学士かが連れて来るのです」医学士とは何の謂いにや、甚蔵自ら博士と称し、外に医学士と称する相棒でも有ると見える、余「連れて来られたのは男――女」婆「女はアノ美しい若いのが来た時から、一人も来ませんよ、本統に美しい顔で私は貴婦人だろうと思いました、けれど馬車から抱き降された時の顔は真青で、死骸かと思いましたよ」狂人の云う事ゆえ分らぬは当然だ。一々之に解釈を試むるは愚の至りの様では有るが、併し狂人とて全く根のない事は云うまい、若しや此の美しい女と云うは秀子の事ではあるまいか、秀子が何等かの事情の為に昔夜中に馬車に乗せられ此の家へ連れて来られた事でも有るのではなかろうか、其の事は何時頃であったのだろう、ズッと近くか若しや又、行方知れずに為ったお浦の事ではなかろうかなど、兎に角自分の知った事柄へ引き寄せて考えるのが人間の癖でも有ろうか、余は其の事の余程以前か将《は》た此の頃かを確かめ度いと思い「男は其の後も随分来ましたネ」婆「エエ男は最う去年も一昨年も今年も、馬車の音さえすれば必ず男の子供です」愈々幾年か昔の事に違いないが、併し総体の上から何の為に、夜半に馬車で人を連れて来るのか更に見当が附かぬ、子供と云い閉じ込めるなどと云った今の言葉に思い合わすと益々分らぬ。

第五十一回 天井の上の音

 気の違って居る婆の言葉を茲へ一々記すにも及ばぬが、其の中に、医学士と云う言葉が二三度あり、又夜半に甚蔵が庭の木の下へ穴を掘り何物をか埋めたと云う様な言葉もあった、何を埋めたのかと此の点は特に問い直したが、何だか人を殺して埋めたかの様にも思われる、而も其の事は一度ならず二度も三度も有ったらしい。
 若し此の辺の秘密が一つでも、充分に分ったならば、彼の運命を余の手の中に握ったも同様ゆえ、此の後決して彼に頭を擡げさせぬのに、能く分らぬは惜しい者だ、此の上は唯先刻の潜戸を開き其の中を検める外は有るまい、アノ中には、秘密其の者か将《は》た秘密を明らかにする証拠物とか参考品とか云う様な物が有るに違いない、何かして中へ入って見たい。
 此の様に思って猶も婆の話を引き出す様に仕向けて見たが、此の婆全くの狂気ではない。狂と不狂との間に在るので、時々は常の人と余り変らぬほど心の爽かな場合もある、後で聞いた所に由ると数年前に二階から落ちて頭を打ち、一時は全くの狂人と為って了ったが、此の頃は幾分か軽くなり、偶に精神の爽やかな時が来ると云う事だ、併し此の様な事は何うでも好い、唯甚蔵の咽喉を握る様な秘密をさえ手に入るれば。
 斯くて暫く話の途切れた頃、頭の上の方で、何だか緩《にぶ》い足音とも云う様な響きが聞こえた、或いは天井の上を、ソッと何者かが歩いたのでは有るまいか、若し爾すれば、益々彼の潜戸の中へ這入る必要が出て来る、彼の中へ入れば自然此の室の上などへも来る事が出来ようも知れぬ。
 余は殆ど思案の暇もなしに、仰いで天井を眺め「オヤ今の音は何だろう」と問うたが、此の一言は忽ち婆の暗い脳髄を明るくする力があったと見え、婆は急に容《かたち》を更め「貴方はアノ音を知りませんか、夫では矢張り甚蔵の敵だ、敵だ、此の家の事を何にも知らぬのだ、知らずに聞いて居なさるのだ、ハイ此の家の内事を知らぬ者は皆敵だから決して内へ入れては了けぬと甚蔵が言いました、先ア敵の癖に、優しい言葉で油断をさせて」と恨めしげに言い募ろうとするから、余「ナニ悪事をせぬ人に、何で敵がある者か」婆「イイエ、貴方は甚蔵が何か悪事でもするかと思い、様々に問うて居るのですよ、甚蔵は悪事は致しません、世間の人と同じ様に正直に稼いで正直に暮して居るのです、商売は蜘蛛を育てるのです、蜘蛛を育てて何にするか、ハイ買う人に売るのです、同業の少い商売だから悪事はせずとも充分に立って行きます」
 早口に弁ずる様は通常の人でもないが今までの狂人とも思われぬ、併し蜘蛛を育てるが何の様な商業に成るだろう、是も後で分ったが、酒造家などが、自分の貯えてある酒の瓶へ、時代の附いて居る様に見せる為様々の蜘蛛を其の貯蔵室へ入れる相だ、スルと蜘蛛が何の瓶へも、何の瓶へも絲を附け、一年も経ると百年も経た瓶の様に見えるので、買人《かいて》が直ぐに幾十年の古酒だとか幾百年続いて居る貯蔵室だとか云う様に信ずると云う事だ、其のほか物を貯蔵する穴倉へ蜘蛛を欲しがる商売は随分あり、夫に又此の節は蜘蛛の糸を紡績する方法が発明せられ、其の試験や実行に用うる人も多いので此の虫の買人《かいて》が仏国や米国などに現われた、幾等も輸出もする事になり、随分蜘蛛を養って、商売にはなるのだとさ、けれど甚蔵が養うのはそれのみの目的ではない、人が厭がる虫を飼って我家へ他人の来ぬ様にしたいと云うのが主になって居る。
 夫は扨置き婆は暫く弁解の様に、又余を攻撃する様に、述べ立てて居るうち、其の弱い脳髄は早や疲れたと見え、徐々と言葉の筋道が立たなくなり、最後に「オヤ、私は何を云って居たか知らん」と云い少し考え込んだまま元の狂人に復って了った、此の様を見ると多少は気の毒にもなる。
 婆に再び問い試みたとて此の上好結果を得る見込みはない、余は無言と為って甚蔵の枕許に控えて居たが、彼は傷から熱を発しでもしたか、目は醒したけれど囈言《うわごと》の様な事を云って居る、もはや先刻馬車の馬丁に頼んで遣ったペイトン市の医者が来そうな者だのに未だ来ない。其のうちに日も暮れた、腹も幾分か空いて来た、何とか思案をせねば可けぬ、併し思案とて外にない。余自らペイトン市へ、行って来る一方だ。医者とても馬丁に頼んだ丈ゆえ果して通じて居るか否か覚束ない、ナニ余の足でなら一走りだ、行って来ようと決心し、分る人に云う様に婆に甚蔵の介抱に就いての注意を与え、爾して外へ出て見たが、秋の天気は変り易く、雨もボツボツ降り、風も出て居る。
 暗さも暗いけれど、迷うほどの込み入った路ではない、只管《ひたすら》に急いで凡そ一里ほども行くと林から続いて小高い丘がある、来る時に馬車で越した所だから勿論丘と名を附け兼ねるほどの小さい丘ではあるが、余が此方から登る途端に、向うから来て丁度其の一番高い所へ来掛けた人があり、下の方から透して見ると、何だか鞄の様な物を提げて居るらしい。其の風附《ふうつき》が何うしても医者である、医者でなくては夜に入って此の辺へ来る筈がない、余は咄嗟の間に一種の考えが浮んだから、間近くなるを待って此方から声を掛け「其所へ来るのは医学士では有りませんか」と云った。婆の云うた医学士と此の医者と或いは同人では有るまいかと試して見るのだ、彼は声に応じ「オヽ私を呼ぶのは何方です」と問い返した。

第五十二回 木の下へ穴

 此奴が穴川甚蔵と云う立派な博士の相棒の其の医学士とすれば、余は後々の為に此奴の素性や挙動までも一応は探って置き度く思うから、今は此奴に成る可く油断をさせて置かねばならぬ。
 咄嗟の間に此の様に思案を定め、余は口から出任せの名を名乗り、実は偶然穴川と同車して彼の怪我を救い、其の家まで送り届け、医者を迎えに遣ったけれど、其の来ようが余り遅い故、何時までも待つ訳に行かず、自分で医者の家へ立ち寄った上、其のまま立ち去る積りであるとの旨を答えた、彼は聞き終って「でも私を医学士と呼び掛けたは何う云う訳です」と問い返した。ヘンお出でだな、此奴が世間一般に医学士として知られて居る男なら、誰に医学士と呼び掛けられても自ら怪しみは仕まいけれど、医学士と云うは唯穴川などから呼ばれる一種の綽名か符牒の様な者なので、呼び掛けられて自分で少し後暗く思うのだ、余は是も言葉巧みに「イヤ彼の家に変な婆さんが居て、最う医学士が来そうな者だなと云って居ましたゆえ、夫で私は医学士ですかとお尋ね申したのです」彼は合点し「爾でしたか。私は唯知らぬ人から医学士と呼び掛けられ、別に自分の肩へ医学士と云う建札をして居る訳でもないのに、何うして分ったかと怪しみましたが、併し貴方は私と共に彼の家へ引き返しますか」余「ハイ引き返さねば済みませんが、実は取り忙いだ用事を控えて居ますので、成ろう事なら、此のまま立ち去り度いと思います、素人の私が怪我人の枕許に居たとて貴方のお手伝いも出来ませず」と非常に当惑の体を粧うて云うた。彼は少し考え「貴方は別に荷物などを彼の家へ残しては有りませんか」勿論荷物とては初めから一点も持って居らぬけれど「イヤ荷物は悉く停車場へ預けて有ります、其の中には日を経ると傷む者も有りますので猶更グズグズは仕て居られません」彼「御尤も、夫では宜しい怪我人は私が引き受けました」と一通りの挨拶を言って其のまま医学士は進んで行った。
 余は直ぐに彼の後を見え隠れに尾けて帰ろうかと思ったが、外に多少の用意もあるから爾はせずに真直ぐにペイトン市へ行き第一には食事を済ませ、第二には人の家へ忍び込むとき足音のせぬ様に、漉毛《すきげ》で作った靴を買い、第三には若しもの用意に色々な道具の附いた小刀を一挺買い求めた。事に寄ると余は随分盗賊にも探偵にも成れる男かも知れぬと、此の様に思って独り可笑く感じたが、併し無駄事を考えて居る場合でないから直ぐ様元の養蟲園へ引っ返した、第一に目指す所は無論彼の潜戸の中に在るのだ。
 再び養蟲園へ着いたは夜の十二時頃で有った。若し彼の潜戸の中が何れほど恐ろしい所かと云う事を前以て知って居たなら余は斯う引き返す勇気は出なんだかも知れぬ、茲が世に云う盲蛇だ、知らぬほど強い者はない、愈々帰り着いて様子を見ると、宵に少しばかり降った雨も歇《や》んで風の音の
前へ 次へ
全54ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
黒岩 涙香 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング