、爾するには一日や二日掛かるかも知れぬ。家では定めし叔父も秀子も気遣って、余の紛失を前のお浦の紛失と同様に思い做して居ようも知れぬと、先ず電信を認めて叔父に宛て、急用の為倫敦へ行くが用の済み次第に帰るから心配するなと書いて発し、爾して穴川を連れてローストン駅まで上等の汽車に乗った。
穴川は辛《やっ》と言葉を発する有様で、苦痛の中から余に向い時々「有難い」と云う言葉を洩した。余は「艱難には相見互いだ」と答え、口を利くと宜くないから成る可く無言で居ろと親切げに制止した。彼も口を利かぬ方が自分の勝手だと見え、其のうちに全くの無言となり、目をも閉じて了った。余は看護人の如く其の頭の辺に控え、彼の様子を見て、猶様々に思い廻すに、彼此の頃は好い悪事のないのに窮して居るかと、衣服其の他の上に何となく「財政困難」と言う意味が浮んで居る。余の察する通り仏蘭西の人とすれば煙草なども上等を呑む可きに、甚い安煙草で間に合わせて居るなどが何よりの証拠だ、爾して姓名の上に博士とあるのは何故だろう。是も怪しむには足らぬ、誰にも素性を知られて居ぬを幸いに、博士などと冒称して居るのだ。悪人の中で少し智恵の捷《はしこ》い奴は、能く此の様な白痴威《こけおどし》の称号を用うるよ。汽車がペイトンの停車場へ着いたのは早や昼過ぎである。是から穴川の家まで再び馬車を雇う外はないから、穴川を待合室へ抱き入れて置いて、余は外へ出て馬車を呼び、此の在の養蟲園まで行くのだと言うと、馬丁は妙な顔して「エ、養蟲園ですか」と推して問うた。其の様は「アノ様な恐ろしい所へ」と訝り問うように見えた。
第四十八回 婆の顔
養蟲園と聞いて馬丁まで好い顔をせぬ所を見ると余り評判の宜くない家と言う事が分る、余は様々に聞き糺したが今の主人「穴川甚蔵」は六七年前に此の土地へ来た者で、何所から移住して来たかは誰も知る者がなく、殊に町から離れた淋しい土地だから誰も度外に置いてあるとの事だ。
併し馬車は余が充分の賃銭を約束したから行く事になった。馬丁は「アノ様な淋しい所で帰りに乗せる客があるではなし、余計に貰わねば引き合わぬ」と呟いた。余は馬車の中で喫《たべ》る為に、幾種の食品を買い調え、馬丁に手伝わせて大事に甚蔵を馬車に乗せ、車体の動揺せぬ様に徐々《そろそろ》と養蟲園を指して進んだ。
成るほど淋しい所である、町を離れて野原を過ぎ、陰気な林の中に分け入って、凡そ五哩も行ったかと思う頃、養蟲園へ達した。見れば草の茫々と茂った中に、昔の大きな石礎などが残って居る、問うまでもなく零落した古跡の一つで、元は必ず大きな屋敷であっただろう、それが火事に逢って家の一部分だけ焼け残ったのを、其のまま修繕して住居に直したらしく、家の横手に高大な煉瓦の壁だけが所々に立って、低く崩れたもあり高く聳えたもある、但し焼けたのは今より五七十年も前だろうと余の目では鑑定する。
今住居と為って居る家だけでも可なり広い、家の背後は山、左は林、右は焼跡から矢張り林へ連なって居るが、何しろ人里から離れた土地で山賊でも住んで居そうだ、爾して焼けた古煉瓦を無造作に積み上げたのが門の様に成って居て戸が締って居る、誰も此の様な家へ侵入する者はあるまいに戸には錠までも卸してある、後で分ったが外から入る人を防ぐよりも、寧ろ内から出る者を妨げる為であった、不束ながら門に続いて疎な丸木の垣がある、犬猫なら潜って出る事は出来ようが人間には六かしい。
余は門を推してもあかぬから軽く叩いて見ると馬車の中から、今まで無言で居た甚蔵が声を出したから「何事ぞ」と返って問うと「此の鍵がなければ開きません」とて鉄の大きな鍵を差し出した、彼は肩も腰も骨を挫かれて居るけれど右の手だけは達者で、自分で衣嚢を探り鍵などを取り出す事が出来るのだ、何しろ主人が外へ出ると、門に錠を卸してその鍵を持って去るとは全で番人のない家の様だが、内はガラ空か知らんと、此の様に思いつつ進み入ろうとすると、甚蔵は馬車の中から又呻いて余を呼び「門が開いたらその鍵を返して下さい」と請求した、半死半生の癖に仲々厳重な男である、是も何か家の中に秘密がある為に、斯う用心の深い癖と成ったのに違いない、余はその秘密を看て取る迄は此の家を去らぬ事に仕よう。
鍵を返して門を入れば玄関に案内の鐘を吊り、小さい槌を添えてある、槌を取って鐘を叩いたが中からは返事がなく、唯何所からか犬の吠える声が聞こえる、幾度叩いても同じ事だ、再び馬車に返って甚蔵に問うと、彼は鍵を取り返して安心したのか、痛く力が脱けた様子で、唯「裏へ、裏へ」と云う声を微かに洩し、差し図する様に顋を動かす許りである、今度は其の意に従って家の裏口へ廻って見ると茲も戸が閉って居るが、窓の硝子越しに窺くと薄暗い中に、何とも評し様のないほど醜い老人の顔が見えて居る。人間よりは寧ろ獣に近い様だと、怪しんで見直したが獣に近い筈よ犬だもの、此の国にては余り見ぬが仏蘭西には偶に居る、昔から伝わるボルドウ種と云う犬の一類で、身体も珍しいほど大きいが顔が取り分けて大きいのである、爾して大犬の中では此の種類が一番賢いと云う事だ、併し幾等賢いにせよ犬一匹に留守をさせるは余り不思議だと、更に台所の方の窓を窺くと、居るわ、居るわ、是は犬でない全くの人間だ、年頃は七十以上であろう、白髪頭の老婆である、其の顔と来たら実に恐《こわ》らしく、今見た犬の方が猶だ余っぽど慈悲深く見ゆる程だけれど、その顔に何処となく余の目に慣れた処がある、余の知って居る人に似て居るのだ、それは誰に、虎井夫人にサ、若しや此の婆が虎井夫人の母では有るまいか、猶能く考えると穴川甚蔵も此の婆の子で夫人と同胞《はらから》ではあるまいか、甚蔵の顔には愛嬌は有るが彼の創所《きずしょ》の痛みの為にその顔を蹙めた時は此の婆に幾等か似て居る、甚蔵は父の容貌を受け夫人は母の容貌を受けたとすれば別に怪しむに足らぬ、夫人の顔を二分、甚蔵の苦痛の顔を二分、今の犬の顔を二分爾して残る三分は邪慳な心を以て加えたなら十分に此の婆の顔が出来よう。
第四十九回 壁も柱も天井も
余は窓の硝子を叩きつつ、婆に向いて「穴川甚蔵が怪我したから、茲を開けて入れて下さい」と大声に叫んだが、婆は一寸顔を上げた許りで返事をせず、其のまま立って犬の居る方を振り向いた、爾して馳せて来る犬を随がえ、次の室の入口とも思われる一方の戸を開いて、素知らぬ顔で引込んで了い、待っても待っても出ては来ぬ。
余り腹の立つ仕打ちだから、余は憤々《ぷんぷん》と怒って門へ引返し、甚蔵の寝て居る馬車を連れて再び此の台所口まで帰って来た、馬丁《べっとう》の力を借り、共々に戸を叩き破る積りで馬丁にその旨を告げると穴川が目を開いて「硝子窓の戸を持ち上げて家の中に入れば次の間の卓子の上に鍵があります」と云うた、然らばとその言葉に従い、窓の戸を持ち上げた所、中から待ち兼ねて居た様に彼の犬が飛び出した、初めは余に飛び掛る積りかと思い、余は叩き倒さんと見構えしたが、犬は余には振りも向かず一直線に主人の馬車の許へ行った、余はその後で窓を乗り越え台所から次の室の中へ這入ったが薄暗くて宜くは見えぬけれど、第一に余の目に映じたは、壁も柱も、異様に動いて居る一条だ。
余は此の様な有様を見た事がない、壁の表面、柱の表面、総て右往左往と動き、静かな様で少しも静かでない、殊に天井の下に横たわって居る梁などは恰で大きな巨蛇《うわばみ》が背《せな》の鱗を動かして居るかと疑われる許りだ、余は自分が眩暈でもする為に此の様に見えるのかと思い、暫し卓子へ手を附いて居ると、何やらソロソロと手へ這上った者がある、払い落して宜く見ると二銭銅貨ほどの大きさのある一匹の蜘蛛である。ハテなと更に壁に寄って見たが、何うだろう壁一面に細い銅網《かなあみ》が張ってあってその中に幾百幾千万とも数の知れぬ蜘蛛が隊を成して動いて居る、壁その物は少しも見えず唯蜘蛛に包まれて居ると云う有様だ、壁の所々に棚もあり穴もある様だけれどその棚その穴悉く蜘蛛に埋められて居るのだ、養蟲園と云い蜘蛛屋と云う名前で凡そ分って居る筈では有るが、実際是ほど蜘蛛を養って居ようとは思わなんだ、又蜘蛛が斯うまで厭らしく恐ろしく見える者とは思わなんだ、勿論蜘蛛は見て余り気持の好い者ではないが併しその一匹や二匹を見た丈では実際に壁一面、天井一面家の中一面に広がって居る蜘蛛の隊が何れほど厭らしいと云う事は想像が届かぬ、余は頭から足の先までもゾッとした、若し女だったら、絶叫して目を廻す所だろう、男だけに目は廻さぬが、而し立って居る力もなく再び卓子の上へ手を突いたが、見れば此の卓子も蜘蛛の台だ、上へ硝子の蓋をした木の箱が幾個となく並んで居て中には大小幾十百種類の蜘蛛が仕切に隔てられて蠢《うごめ》いて居る、是は見本の箱でもあろう。
余は兎に角も能く心を鎮めた上でなければ、此の室に永くは得留まらぬ、真逆に蜘蛛が銅網を破って追い掛けて来る訳ではなけれど、逃る様に室を出てその戸を閉め切り、爾して先刻婆の居た台所の一方に立った、此の時は最う眼も暗いに慣れて、暗いと感ぜぬ様になったから、茲にもかと四辺を見廻すに茲には蜘蛛らしい物は見えず、却って余の求める鍵が、戸の錠前の穴へ差し込んだ儘であるのが目に入った、多分は婆が次の間に在ったのを持って来て是へ填て置いたのであろう、婆の姿は何所へ行ったか更に見えぬ。
若し余に深い目的がないのなら此の家へは再び這入らぬ、秀子と同様に、此の家の事を思い出してさえ身震いをするであろう、けれど余は再びも三たびも、此の家の秘密を腹へ入れる迄は這入らねば成らぬ、此の家の秘密を知れば秀子の身の秘密も自然に分るに違いない、斯う思って、腹の中で「ナニ蜘蛛などが恐ろしい者か」と繰り返してお題目の様に唱え、馬車の所へ復《かえ》って来て、穴川甚蔵に、寝間は何所に在るかと聞いた、早く彼を家の中へ寝かして遣らねば成らぬから。
「寝間は二階の二室目です」と彼は答えたが、此の怪我人を二階まで運び上げる訳には行かぬ。下の何所かへ寝台だけ降して来て寝かさねばならぬ、更に其の由《よし》を甚蔵に告げて置いて又も家に入り、其所此所を見廻すと、曩《さき》に犬の居た室を隔て其の次に階段がある、狭い裏階子の様な者だ。此の辺にも若し蜘蛛が居はせぬかと見廻しながら階段を上ったが見廻して居て仕合せだったよ、若し見廻さずに昇ろう者なら飛んでもない目に逢う所であった。
第五十回 閉じ込んで置く者
見廻しつゝ登ると階段の中程の横手の壁に潜戸《くぐりど》の様な所がある、何か秘密の一室へでも通ずる隠し道ではあるまいか、戸の色と壁の色と一様に燻《くすぶ》って閉じてあれば、容易には見分けも附くまいが、開いて居る為余の目には留まった。
余が其の前を過ぎようとすると、中から誰か黒い石片《いしきれ》の様な者を投げ附けた、余は大いに用心して居る際ゆえ手早く身体を転《かわ》して何の怪我もせなんだが、後で見たら危ない哉、石片の様に見えたは古い手斧の頭であった、何者の仕業かと少し躊躇して居ると、潜戸の中から以前の婆が、手に斧の柄だけを以て立ち現われ、階段を遮って、寄らば打たんと云う見幕で、其の斧柄《おのえ》を振り上げ「茲へ入っては可けません」と叫び横手の潜戸を尻目に見た、誰も入ろうとは云わぬのに、アア分った此の婆は多少精神が錯乱して居て、爾して多分日頃から甚蔵に、此の潜戸へ人を入れては成らぬと言い附けられて居るのだ、爾すれば此の潜戸の中に此の家の秘密を押し隠してあるのではなかろうかと、此の様に思ったけれど今は穿鑿する時でない、先ず婆を取り押えようと、三つ四つは擲《なぐ》られる積りで敢然と進んで行くと婆は少年の様に身を軽く潜戸の中へ隠れて了った。
余は其の前を通って二階に入り、甚蔵の寝室と云うへ行って見ると、茲も一方ならず荒れて居て古い寝台二脚の外に蒲団|毛布《けっと》寝巻などの類が五六点、散らばって居る、其のうちの好さ相な毛布《けっと》を二枚選び寝台に載せて持ち上げたが、余の大力にも仲々重いけど、下まで運
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