々と終に停車場まで行った。
 見ると安煙草は早や切符を買い、橋を渡って線路の向う側へ行き、上り汽車を待って居る、時間表に依ると上り汽車は夜の十二時から先は唯二時五分に茲に通過するのが有る許りだ、未だ半時間ほどの猶予がある、何でも彼が如きシレ者を附けるには余ほど用心して掛らねば可けぬと思い、ズッと心を落ち着けて先ず前後を見廻すと、第一に不都合なは余の衣服だ。余は客間に居た儘で来たので小礼服を着けて居る、是では疑われるに極って居るが、家へ引っ返す事は出来ず止むを得ず駅夫に向い、五ポンドの貨幣を二片見せ、夜寒の用意にお前の着替えを売って呉れぬかと云うと存外早く承知して、何所へか走って行き、間もなく風呂敷包みを持って来て、是ではと差し出すのを開けて見ると少し着古したけれど着るに着られぬ事はない、紺色の外被《こうと》と筒袴《ずぼん》が入って居る、筒袴は要らぬと外被だけを取って、上へ着たが寸法も可なり合って居る。
 それから切符を、先ず倫敦まで買ったが、先の人が何所まで買ったかと思い、夫となく今の駅夫に聞いて見るとローストン駅まで買ったと云う事だ、扨は倫敦迄行くのではないと見えるが、何でもローストン駅は何処かへ分れる乗り替える場所だ、是も駅夫に聞いて見ると、駅夫は今の売物で非常に機嫌が好く為って居るので、其の乗替えの汽車が通過する駅々を、指を折りつつ読み上る様に話して呉れた。外の名前は耳に留まらぬけれど其の五番目に数えたペイトン市と云うのが何だか余の耳に此の頃聞いた所の様に感じた、爾だ、爾だペイトン市在の養蟲園と虎井夫人の手紙の上封へ書いて遣ったのだ、扨は彼の男、其の蜘蛛屋とか云う処から来たのであろうか、人を食い殺す毒蜘蛛が網を張って居るとて秀子の身震いをした其の養蟲園へ、余は彼の悪人の後に就いて歩み入る事になるか知らん、斯う思うとわれ知らず右の手が腰の短銃、衣嚢の処へ廻った、撫でて見ると残念な事には短銃を持って居ぬ、エエ何うなる者か、真逆の時には此の拳骨と気転とに頼るまでさ。

第四十六回 奇と云えば

 其のうちに二時五分の上り汽車が来る刻限と為ったから、余も橋を渡り、線路の向う側へ行き、頓て彼と同じ汽車へ乗り込んだが、幸か不幸か外に相乗りはない、車室の内に余と彼の只二人である。
 車室を照らす電燈の光に余は初めて能く彼の姿を見たが、年は五十位でもあろうか、背が低くて丸々と肥え太って居る。顔の色は紅を差した様に真赤だ、蓋し酒に焼けたのであろう、酒好きの人には得てある色だ、爾して顔の趣きは、恐ろしげと云い度いが実に恐ろしげでなく存外柔和だ、ニコニコとして子供でも懐《なつ》き相な所がある、誰やらの著書に、悪相を備えたる人は一見して人に疑わる、故に真の悪人たる能わず、真の悪人には人を油断せしむる如き愛らしき所のある者なりとの、意味を記してあるのを見たが、此の男などが或いは其の一例では有るまいか、併し能く見ると眼の底に一種の凄い光を隠しては居る、是は博奕などに耽る人に能くある目附きだよ、何うしても尋常の人間ではない。
 余は余り彼の様子を見るも宜くないから、唯夫となく一通り見た儘で、彼の反対の側に身を安置し、背後へ寄り掛って眠そうな風を示して居た、茲で読者に断って置くが、昨年の秋ローストンの附近で、線路の故障の為に汽車が転覆した事は、読者が新聞紙で読んだ所であろう、此の汽車が即ち其の汽車で、余も乗り合わして居る一人であったが、勿論其の場に着き其の事変に逢うまでは神ならぬ身の露知らずであった、夫は扨置いて余が眠そうに背後へ寄り掛って居る間に、彼、安煙草は安煙草を咬えた儘で、腰掛けの上へゴロリと横に為ったが、悪人ながらも仲々気楽な質と見え直ちに雷の如き鼾を発して本統に眠って了った、尤も夜の二時より三時の間だから、誰しも眠くなる時ではあるのだ。
 彼の鼾と汽車の音と轟々相い競うて、物思う余の耳には誠に蒼蝿く感じたが、余も何時の間にやら眠って了った、何時間経ったか此の時は知らなんだが後で思うと二時間余も寝たと見え、フト目の覚めたは夜の引き明ける五時頃であった、見ると彼、安煙草が早や余よりも先に起き直って余の寝顔をジッと見詰めて居る、勿論別に悪気が有っての為ではなかろう、余り所在のない時に、同乗の客の顔を見て居るなどは、誰もする事である、余は茲ぞ彼と話を始める機会と思い、ナニ彼が何も言わなんだのは知って居るけれど、故と「オヤ貴方は今、何か私に仰有いましたか」と寝ぼけた様に問うた、彼は平気で「イイエ何も言いは致しませんよ」と、返事する言葉は此の国此の近辺の声ではなく、確かに仏国の訛を帯びて居る、多分本国を喰い詰めて、此の国に渡って来た人であろう、余「併し最う何時でしょう。夜汽車は随分淋しい者ですネエ」と言うを手初めに話の口を開いたが、彼は宵のユスリの旨く行かなんだを猶だ気に障《さ》えて居るのか、顔の柔和さに比べては何となく不機嫌である、話に釣り込れようとはせぬ。
 けれど其のうちに彼は新しい安煙草に火を附け直し、一寸近くも吸うた上で漸くに「貴方は塔の村の停車場から乗りましたネ」と余に問い掛けた、占めたぞ此奴幽霊塔を自分の出稼ぎ場か戦場の様に思って居るので其の近辺の事柄を問う積りと見える、斯なれば余り口数を利かぬ方が却って安心させる元だろうと思い、唯「ハイ」とのみ答えた、果して彼は進み出て「アノ土地に住んで居ますか」余「ハイ彼の村の盡処《はずれ》に昨年から住んで居ます」彼「名高い幽霊塔の中は御覧なさったでしょうね」余「彼の様な恐ろしい噂ばかり有ります所を誰が見ますものか」彼「では少しも塔の事を知りませんか」余「先頃から都の金持が引き移って大層立派に普請した様子ですが未だ招かれた事は有りませんから」彼「アレは丸部朝夫と言う官吏揚りです、彼処に此の頃養女に貰われた女がありますが――」余「爾々大層な美人だとて村の者は評判します」彼は嘲笑って「ヘン、美しくて評判、ナニ美しいよりも最と評判される事が有るのですワ」余「ヘエ貴方は能く御存じですねエ」感心した様に目を見張り、馬鹿になって彼の顔を見揚げるに、彼は悪人には似合わしからぬほど得意げに「世間に私ほど、能く彼の女の事を知った者は有りません、実は彼の女に古い貸し金が有って前夜も催促に行きましたが、最う立派な身分に成ったと思い、高ぶって居て私を相手に仕ませんワ」
 全く悪人にしては少し喋り過ぎる様だけれど、余は夫よりも異様に感じたは秀子の素性だ、此奴に何か秘密を知られて居るのは無論であろうが、夫にしても決して賤しい身分ではなく、生れ附き立派な令嬢であろうと余は確かに思い詰めて居るのに、此奴の言葉では何だか賤しい素性の様にも聞こえる。「立派な身分になったと思い」などの言葉はそうとしか思われぬ、彼は猶言葉を継いで「旨く仮面などを被って居やがって、ヘン仮面を剥って見るが好いワ、イヤ仮面は剥らずとも、左の手の手袋を脱いで見るが好い、中から何の様な秘密が出て来るか、夫こそ丸部の養女では居られまい。如何な養父も驚いて目を廻すわい」と今は全くの独語となり、いと腹立しげに呟いて居る。
 仮面を被るとは勿論譬えの言葉で、地金を隠して居ると言う意味に違いない、秀子が本統に仮面など被って居る筈はない、併し余は此の言葉を聞き、余は初めて秀子に薄暗い所で逢って、余り其の顔が異様に美しいから若しや仮面では有るまいかと思った時の事を思い出す、勿論其の後は見慣れたから、何とも思わず、唯絶世の美人と尊敬する許りではあるが、夫にしても偶然に此の男が仮面という言葉を用うるも、奇と言えば奇だ。
 併し彼様な偶中《ぐうちゅう》は有り中の事で畢竟気に掛ける余が神経の落ち着いて居ぬ為である、夫は兎も角も此の男が斯うも秀子の事を悪く言うは許婚も同様な余の身として甚だ聞き捨て難い所がある、此奴め、最っと深い巧みのある悪人かと思ったら、腹立ち紛れに何も彼も口外する、存外浅薄な、存外|与《くみ》し易い奴である、茲で一言に叱り附けて呉れようかとも思ったが、此の時忽ち思い附いた、イヤイヤ仲々浅薄どころではない深い深い、底の知れぬほど横着な奴だ、浅薄と思ったのが、余の浅薄だ。
 此奴め、昨夜旨く秀子を劫えさせる事が出来なんだので、先ず近辺へ秀子の身に秘密があると言う噂を立たせ爾して秀子に驚かせて置いて再び行く積りである、余を近所の者と思う為、是くらい聞かせて置けば、余の口から村中へ好い加減に広まって爾して秀子が不安の想いをする時が来ると此の様に思って居るのだ、手もなく余を道具に使う積りだ、人つけ、汝等の道具に使われて耐る者かと腹の底で嘲り、更に彼に向い、然る可く返辞せんと思う折しも、汽車は何物にか衝突して、真に百雷の一時に落ちるかと思われる程の響きを発し、オヤと叫ぶ間もない中に早や顛覆し破砕した。乗客一同粉々に為ったかと余は疑うた。

第四十七回 穴川甚蔵

 汽車の転覆は、遺憾ながら随分例の有る事ゆえ、管々しく書き立てずとも、何の様な者か能く読者が知って居られる筈だ、此の度の転覆は僅かに一間ばかりある小河の橋が落ちて居るのを気附かずに進んだ為に起ったと言うことだ、怪我人は十四五人あったが幸いに死人は無かった、怪我人の中の最も重い一人は余と同車して居る例の安煙草で、無難の中の最も無難な一人は余であった。
 勿論余も汽車の衝動と共に逆筋斗《さかもんどり》を打って、何所へか身体を打ち附けて暫しが程は何事だか殆ど合点の行かぬ程ではあったけれど、汽車の転覆と気の附いた時は早や毀《こわ》れ毀れの材木の間に立ち上って居た、唯気の毒なは安煙草である、悪人は斯る場合にも自然の憎しみを受けて、人より余計に甚い目に遭うと言う訳ではあるまいが、覆《くつがえ》った車室の台板に圧し附けられ、最《いと》ど赤い顔の猶一層赤くなったのを板の下から出して、額の筋をも痛みに膨らませて、爾して気絶して居ると言う仲々御念の入った有様だ。
 此奴死んで了ったのか知らん、兎も角斯の様な目に遭えば当分秀子を虐めに来る事は出来ぬと有体に云えば余は聊か嬉しかった、けれど助けぬ訳には行かぬ、茲で恩を着せて置けば後々此奴を取り挫ぐに何の様な便宜を得るかも知れぬと得手勝手な慈悲心を起して台板を持ち挙げて遣った、軽い物かと思ったら仲々重い、力自慢の余の腕にさえヤットである、此の重みに圧《おさ》れては身体は寸断寸断《ずたずた》であろうと思ったが、爾ほどでもなく、拾い集めずとも身体だけ纒って居る、扶けつつ起して見ると肩も腰も骨が挫けて居る様子で少しの感覚もない。水でも呑ませば生き返るかと、四辺を見ると誰のか知らんが、酒を入れる旅行持の革袋が飛び散って居る、是屈強と取り上げて口を開けるとブランデー酒の匂いがあるから、之を彼の口に注ぎ込んだが、死んだ蛙の生き返る様に生き返った。
 何しろ混雑の中で、余一人の力では此のうえ何うする事は出来ぬが、幸い近村の人も馳け附けて来たから、其の一人に番を頼んで置いて、余は遠くもあらぬローストンの町へ馳け附け自分の馬車と医者とを呼んで来た。兎も角も停車場のある所まで馬車で此の者を運んで行く外はない、医者の見立てでは此の者は余ほど大怪我だから早速家へ送り届け、厚く手当をせねば可けぬとの事だ、家とて何所が此の者の家だろう、多分ペイトン在の蜘蛛屋であろうとは既に察しては居るけれど、若し衣嚢の中には姓名を書いた手帳でもあろうかと探って見ると手帳もある名刺もある、名刺の表面を見ると覚悟した。余も流石に胸を騒がせた、真中に「博士穴川甚蔵」とあって端の方にペイトン在養蟲園とある、是が養蟲園の主人で、曾て余が虎井夫人の為に手紙の宛名として認めて遣った其の穴川甚蔵であるのだ。
 軈《やが》て余は彼を馬車に乗せ、停車場まで連れて行った。勿論差し支えはないと云う医者の言葉を聞いた上だ、何をするにも費用の掛かる事だから若し電信為替で金子を取り寄せねば可けまいかと自分の紙入れを検めて見ると嬉しい事には五円の札が厚ぼったいほど這入って居る、是ならば好し、此の穴川を養蟲園まで送り届け、人を食い殺す様な毒蜘蛛の巣をも見よう
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