た」秀子は泣き顔を隠して「疾《と》うに話が済んで帰りました」彼が来てから三十分とも経たぬ程だのに「疾うに話が済んだ」と云う所を見ると、纔《わずか》に五分か十分で事が分ったと見え、二人の間は余ほど深く合点し合って居るのだなと、斯う思うと余り権田の早く帰ったのが又忌々しい、余「では権田は虎井夫人の室へでも行ったのですか」秀子「イイエ此の家を立ち去ったのです」余「叔父さんにも会わずに」秀子「ハイ誰にも会わずに」
彼の急いで去ったのは愈々秘密が切迫して居る為と見る外はない、余の運動も、少しも早くなくては可けぬと、余は咄嗟の間に思案を定めて、我が思う丈の事を秀子に述べた、秀子は一時「其の様なお話を聞いて居れる時では有りません」と云って、腹を立てて、余に出て行って呉れと云わん許りの様を示したが、併し余の今までの忠実と親切とは充分腹に浸みて居るに違いない、此の後とても余の親切は多少嘉納するに足ると思って居るらしい、腹を立ったも少しの間で再び余の言葉に耳を貸す事に成ったが、愈々論じ詰めた結果が、何時も云う「到底人の妻に成れぬ身です」との一語に帰した、それならそれで宜しいから「若しも人の妻になる事の出来る時が来たなら私の妻になりますか」と云うと「其の様な時は決して来ません」「其の来ぬ者が若しも来る者と仮りに定めれば」「其の時は貴方の妻にでも誰の妻にでも成りますよ」「誰の妻にでもでは了けぬ、私の妻になるとお約束成さい」「約束したとて履行と云う時のない約束だから無益です」「無益でも宜しいから約束なさい」「其の様な空《くう》な約束が何か貴方のお為になりますか」「成りますとも、空でも是が貴女の出来る中の一番近い約束と思えば私に満足ドコロでは有りません、世界を得たほど嬉しく思います」秀子は涙の未だ乾き果てぬ目|許《もと》で異様に笑い「オホホホ可笑い方です事ネエ」余「可笑くても宜いから約束なさい」秀子「ハイ其の様な空な約束なら幾等でも致しますよ」
空とは云っても空ではない、既に此の約束がある以上は、秀子は生涯|所天《おっと》を持たずに終わるかはた余の妻になるかの二つだ、余の妻にならずして他人の妻になると云う事は決して出来ず、又生涯所天を持たぬと云う事は余の叔父が許すまい、叔父は只管此の家に然る可き後嗣ぎの出来て子孫の繁栄する事を祈って居るから。
殊に又秀子の心も此の約束で分って居る、幾等空な約束にせよ、真実余を嫌って居るなら承諾する筈がない、成るほど本心は生涯所天などを持つ様な安楽な事は来ぬと充分覚悟を仕て居るだろうよ、覚悟は仕て居るだろうけれど、若しも婚礼の出来る時が来れば余と婚礼すると云う積りに違いない、之を如何ぞ余たる者|豈《あ》に砕身粉骨して秀子の難を払わざる可けんやだ、余は雀躍《こおどり》して此の室を出て叔父の許に行き、未だ婚礼の時は極らぬけれど秀子と夫婦約束だけは出来たと告げた、叔父は大いに喜んで、秀子と余とを半々に此の家の相続人として早速遺言状を書き替えると云った、果たして三日と経たぬうちに其の通りに仕て了った。
けれど秀子の災難は余の思ったより切迫して居て、又実際余の力で払い除ける事の出来ぬ様な恐ろしい秘密的の性質であった。
第四十四回 星の様な光
余は秀子に向って、問い度い事、言い度い事、様々にあるけれど、此の日も翌日も其の暇を得なんだ。と云う訳は、首のない死骸の事件が遠近《えんきん》へ聞こえたと見え、見舞いに来る客も仲々多い、其の死骸がお浦でなかったと聞いて安心する人も有り怪しむ人も有った様子だが、兎に角是等の客の応接に秀子の手の空いた時は余が忙しく、余の暇な時は秀子が差し支えると云う有様だ、今から考えて見ると秀子の身には真に恐ろしい秘密事件が差し迫って居たのだが能くも秀子は其の心配の中で平気で客の待遇などが仕て居られた者だ、尤も客と談笑する間には夫となく心配気に見ゆる所は確かにあった。他人には分るまいが余の目には暗に分った、夫だから余は折さえ有れば慰めもし問いもしたいと唯此の様に思って居たが、此の日も暮れて早や夜の十二時を過ぎたろう、秀子は客が雑談などに夢中になって居るのを見定め、密《そっ》と客間から忍び出た。
イヤ忍び出たのではない当り前に出たけれど余の目には忍び出る様に見えた、若しや秘密とか密旨とか云う事の為では有るまいかと、余も引き続いて出て見たが、早や廊下には秀子の姿が見えぬ、居間へ行っても居らぬ、或いは虎井夫人の許かと又其の室へ尋ねて行けば、虎井夫人さえも居らぬ、既に病気は直ったと自分では云って居ても未だ客の前へも出得ない夫人が夜の十二時過ぎに室を空けるとは、何うも尋常の事ではない、若しやと思って余は庭へ出たが、月のない夜の事とて樹の下の闇が甚だ暗く、何と見定める事も出来ぬけれど、其所此所を辿って居るうち、一方の茂みの蔭から、密々《ひそひそ》と話しつつ来る二人の人の声が聞こえる、清いのが秀子の声で濁ったのが虎井夫人の声だ。
二人は余の居る所から二三間先まで来て、立ち止った、余が居るを疑っての為ではなく、話が大変な所へ掛った為足を運ぶのを忘れたのだ、秀子の声「幾等大胆でも真逆に茲へは来ませんよ」虎井夫人の声「来ますとも、開放も同様の此の家ですもの、庭まで来たとて誰に見咎められる恐れもなく」秀子「恐れがないから来るが好いと貴女が云うて遣ったのでしょう」夫人「ナニ私が云うて遣りますものか」秀子「夫なら決して来る筈は有りません、自分の身に悪事が重なって居るのですもの」夫人「論より証拠実は最う来て居ますよ、先刻から向うの榎木の蔭で貴女の出て来るのを待って居ます」
何者の事かは知らぬが、何うせ秀子の身に害を為す奴に違いないから、余は其の榎木の蔭へ馳せ附けて引捕えて遣ろうかと思ったが、爾も出来ぬ、承諾も得ずに横合いから手を出して、後で秀子に喜ばれるか恨まれるか夫も分らぬから先ア静かに事の成り行きを見て、秀子が甚く当惑するとか其の者が暴行でもする場合に現われようと、此の様に思い直して、暗の中で自分の身へ力を入れて見るのに、創は勿論既に癒えて、力も充分に回復したらしい、何うも其の様な気がする、是なら悪人の一人や二人を擲倒《なぐりたお》すは造作もない。
秀子は、既に来て居るとの虎井夫人の言葉に余ほど驚いた様子で「エ、今夜来て居るのですか」と叫んだ。虎井夫人「私にも制する事が出来ぬから致し方が有りません、最う逃れぬ所と断念《あきら》めてお了いなさい」オヤオヤ此の夫人まで秀子の敵に成って、悪者に力を添えて居るのだな、尤も今までとても彼の蜘蛛屋とか云う所へ秀子の手帳を盗んで送って遣ったなどで分っては居るけれど余は事新しい様に感じた、暫くして秀子は「断念めよとて何う断念めるのです」夫人「断念めて向うの請求に応じますのサ、夫も六かしい事ではなく、唯貴女の知って居る秘密を一言彼の耳へ細語いて遣るだけですワ、貴女に取っては損もなく彼に取っては大層な利益です、爾して貴女の身も後々が安楽では有りませんか」秀子「可《い》けません、私の口から一言でも洩す事は出来ませんよ」夫人「其の様な事を仰有って、若し彼が立腹すれば、イヤ最う立腹はして居ますけれど、此の上に少しも容赦せぬ事に成れば貴女の身は何うなると思います」秀子「最う既に容赦せぬ事に成って居るでは有りませんか。夜に紛れて此の庭へ忍び入り、爾して私に逢い度いなどと、ナニ構いません。私こそ最う断念めて居るのですから、彼が何の様な事をするか思う存分な目に逢いましょう、彼を恐れて、彼のユスリに従い、縦しや一言でも秘密を教えて遣れば私の密旨は大事の目的を失います、私が密旨の為に生きて居る事は貴女が知って居るでは有りませんか、密旨を捨てて安楽を得るよりも、密旨の為に殺されるのが初めからの願いです、最う此の密旨も様々の所から思わぬ邪魔ばかり出て遂に果し得ずに終るだろうと此の頃は覚悟を極めて居ますから、何と威《おど》されても恐ろしくは有りません、密旨に忠義を立て通して密旨と共に情死をする許りです、金銭ででも済む事なら、イヤ今まで彼と貴女には云うが儘に金銭の報酬を与え、此の上遣るにも及びませぬ、けれど未だ御存じの通り自分の金子が銀行に在りますから惜しいとは思いません、金銭の外の頼みには、応ずるよりも死ぬる方を先にしますから、何うか彼に爾云って下さい、アノ様な者には逢うのも厭です」夫人「厭ですとて、最うソレ、返事の遅いのを待兼ねて彼所《あすこ》へ遣って来ました」
暗の中で何を指さして、彼処へ遣って来たなどと云うかと思い、余は四辺を見廻したが、三十間ほども離れた彼方に、一点星の様な光が有って、何だか此方へ寄って来る様子だ、分った、葉巻煙草を咬《くわ》えて居るのだ、光るのは煙草の火だ、人の屋敷へ忍び入って咬煙草などして居るとは余程横着な奴と見える、其のうちに安煙草の悪い臭気が余の居る所へまでも届いた。
第四十五回 拳骨と気転
安煙草の臭気と共に星の様な光は段々と寄って来る、ハテな何の様な男だろう、秀子との間に何の様な応対があるだろう、全体此の場の一|埓《らつ》は何の様に終わるだろう、余は息を殺して居ながらも全身の筋肉が躍る様な想いである。秀子は再び虎井夫人に向い「厭ですよ。アノ様な人に逢うのは、ナニ初めから来て居ると知れば茲へ出て来る所ではなかったのです、私を欺して連れ出すとは余り甚いではありませんか」と叱る様に云うた、夫人「でも逢わせるのが貴女の為だと思いました、悪気でお連れ出し申したではなく」秀子「何うか貴女から彼にそう云って下さい、金子の外のユスリには決して応ずる事は出来ぬと」夫人「そう云えば決闘状を送るのも同じです、彼は決して容赦せぬ気になりますよ」秀子「構いません、今云う通り、最早密旨の成就する見込みは絶えましたから、愈々の果ては斯うと充分覚悟を極めて居ます、何うか彼に窘《いじ》めて呉れと私から言伝てだと云って下さい」言い捨てて秀子は虎井夫人を振り放し、家の方へ去って了った、何と見上げた勇気ではないか、成るほど是だけの勇気がなければ、女の身として唯一人で、何の様な密旨か知らぬけれど密旨に身を委ねるなどと云う堅い決心は起し得ぬ筈だよ。
虎井夫人は「仕ようがない事ネエ」と呟いたが、病後の身で秀子を追い掛けたり引き留めたりする事は出来ぬと見え、其のまま呟き呟き星の光の方へ行って了った、サア余は何うしたら好かろう、夫人と同じく星の光の方へ行き、彼の男を捕えて呉れ様か、イヤ捕えたとて仕方がない、夫より彼奴の立ち去るを待ちその後を附けて彼奴の何者かと云う事を見届けて呉れよう、何でも此の様な悪人だから身に様々の旧悪が在るに違いない、何うかして其の旧悪の一を捕えて置けば幾等秀子に仇《あだ》しようとても爾はさせぬ、アベコベに彼奴を取り挫《ひし》ぐ事も出来ると斯う思案を極めて了った、其のうちに彼と虎井夫人は、余の居る所から十間ほど離れた所で逢った様子だ、姿は見えぬが何か言葉急しく細語き合う声が聞こえ、爾して巻煙草は口から手へ持ち替られたと見え、星の光が低くなり胸の辺かとも思われる見当で輝いて居る、暫くすると話は終り、二人は分れて、夫人は内へ、男は外の方へと立ち去った、余は直ぐに彼の後を尾けて行こうかと思ったが、秀子の有様も気に掛る、家に這入って何の様な事をして居るか一応は見届けて置き度い。
一先ず家へ帰って客間を窺いて見ると、秀子は何気もない体で、猶起き残る宵ッぱりの紳士三四人の相手になり笑い興じて居る、実に胸中に何れ程余裕のある女か分らぬ、是ならば秀子の事は差し当って心配するにも及ばぬと思い、其のまま戸表《おもて》へ駆出した、勿論彼の男が庭から裏の方へ立ち去った事は知って居るが、裏からは何所へも行く事が出来ぬから、必ず表の道へ出て、停車場の方へ行くに違いない、縦しや姿は見えずとも人通りのない夜の最う一時過ぎだから人違いなどする気遣いはない心の底で多寡《たか》を括って居ると、例の安煙草が何処からか臭って来る、ア、是だ、猟犬が臭いを嗅いで獲物の通った道を尾けるは全く此の工合だと、余は臭いを便りに徐
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