々《ありあり》と存《のこ》って居るのを見た、殊に余のみではなく、お浦の知人中には折々之を見た人が有ろう、根西夫人なども確かに其の一人だ、所が此の死骸の腕には何の繍身もない。
余が此の二カ条を言い立てると検査官は驚き、直ぐに又叔父を呼び出して、尋問したが叔父も足の裏の大創の事は覚えて居た、次に根西夫人を呼び出して又尋問したが夫人も成るほど浦原嬢の腕に繍身が有って夕衣を着て居る時には何うかすると見えた事を今思い出したと陳べた。
畢竟するに余が此の死骸を斯うまで検める事に成ったのは、唯、入口で医師が「三十位」と探偵に細語くのを洩れ聞いた為である、誰も彼も死骸の事にのみ気を奪われて居る際ゆえ「三十位」と云うのは死骸の事に違いないが、扨死骸の何が三十位であろう、或いは其の年齢では有るまいか、果たして年齢とすれば若しやお浦と別人ではなかろうかと此の様な疑いが一寸と浮かんだ、若し此の言葉をさえ洩れ聞かなんだら、一も二もなくお浦と思い、二ケ条の事柄さえ殆ど思い出さずに終ったかも知れぬ。
読者は何と思うか知らぬが此の死骸がお浦でないとすれば実に大変な事になる。
第一にお浦の消滅に関する今までの探偵は全く水の泡に帰し、お浦の行衛《ゆくえ》、お浦の生死は依然として分らぬのだ、第二に此の死骸、当人は誰か、何の為に斯くも無惨な目に逢わされたかと云う疑いが起る、第三には此の女が何でお浦の着物をき、お浦の指環まではめて居るかとの不審が起る。
第三の不審は実に重大だ、此の死骸へお浦の着物を被せるには、お浦を捕えて着物や指環を剥ぎ取った者があるか、左なくばお浦自らが自分の着物や指環を脱ぎ、此の者に着せたに違いない、着せて置いて殺したのか、殺した後で着せたのか、孰れにしても奇中の奇と云う者だ。
併し其の辺は先ず捨て置いて、何の為に斯様な事が出来たであろう、目的なしにお浦の着物を他の女へ着せ、堀の底へ沈めるなどと云う筈はない、何でも此の死骸と見せ掛けて人を欺き度いと云う目的に違いない、夫なら何故に人を欺き度いのであろうか、第一はお浦が死んだ者と見せ掛けて置いて、お浦自身が遠く落ち延びるとか或いは何か忍びの仕事をするとか云う目的ではあるまいか、第二には若しやお浦が死んだ様に粧い、人殺しの嫌疑を誰かに掛けると云う魂胆《こんたん》では有るまいか、若し其の魂胆とすれば、秀子を憎む者の所為に違いない、前後の事情が自然と秀子へ疑いの掛かる様になって居るから。
愈々秀子に疑いを掛ける為とすればお浦自身の仕業でなくて誰の仕業だ、お浦は秀子を虎の穴へ閉じ込めて殺そうとまで計《たくら》んだ女ではないか、併しまさかに女の手で、幾等大胆にもせよ斯様な惨酷な仕業《しわざ》は出来ようとも思われぬ、夫ともまさかの時には女の方が男よりも思い切った事をするとは茲の事か知らん。
孰れにしても、余や秀子の為には、否、丸部一家の為には、物事が益々暗く、暗くなる許りだ、此の様な次第では此の末何の様な事になるかも知れぬ。
併し此の間に於いて、唯一つ余の合点の行ったのは死骸に首のない一条だ、首を附けて置いては、直ぐにお浦でない事が分る、幾等お浦の着物を被せても、幾等お浦の指環をはめさせても駄目な事だ、首を取ったのは全く着物を被せ指環をはめさせたのと同一の了見から出た事だ、成るほど、成るほど、是で森探偵の言葉も分る、彼は余が何故に死骸の首がないだろうと尋ねたとき、異様に驚き、旨い所へ目を掛けたと云う様に余を褒めたが、彼奴既にアノ時から、此の死骸がお浦でないと疑い、首のないのが即ちお浦でない証拠だと思って居たに違いない、道理で彼は初めて此の死骸を見た時に、是が浦子の死骸なら失望だと云い、自分の今までの推量が悉く間違って来るなどと呟いたのだ、流石は彼だ、シテ見ると彼は初めから此の事件に就いて余ほどの見込みを附け、確かに斯くと見抜いて居る所があるに違いない、何の様に見抜いて居るか聞き度い者だ、と云って聞かせて呉れる筈も有るまい、唯事件の成り行きを待つ外はないか知らん、夫も余り待ち遠しい話だよ。
第四十二回 一言の酬い
疑わしい廉《かど》は数々あっても、此の死骸がお浦でないと云う事だけは最早確かだ、到底余の陳述を打ち消す事は出来ぬ、爾れば一時間と経ぬうちに陪審員は左の通り判決した。
「何者とも知れざる一婦人に対し、何者とも知れざる一人又は数人の行いたる殺人犯」
殺した人も殺された人も分らぬは、検査官も残念であろうが仕方がない、直ちに此の死骸は共同墓地へ埋められる事となって此の家から持ち去られた、陪審員も解散した、探偵森主水は、愈々此の事件は倫敦へ帰って探らねば此の上の事を知る事は出来ぬと云って立ち去った、根西夫妻も此の様な恐ろしい土地には居られぬと云って鳥巣庵を引き上げ倫敦の邸へ帰った、高輪田長三は死骸がお浦で無かったのは先ず好かったとて一度は安心したが、夫に附けても本統のお浦は何所に居るだろうとて甚く心配の体ではある、尤も之は鳥巣庵に居る事が出来なくなったに就いて、当分(お浦の行方を探るに必要な間だけ)叔父との約束の通り此の家に逗留する事になった、余は何となく此の事が気に喰わぬ、秀子とて、無論其の通りであろう、併し広い家の事だから食事時の外は彼の顔を見ぬ様にするのは容易だ。
兎に角も検屍官が「何者とも知れぬ者の死骸、何者とも知れぬ者の殺人犯」と判決したに付いて秀子に対する恐ろしい嫌疑は消えて了った、余は直ちに此の事を秀子に知らせて喜ばせたいと思い、早速其の室へ行こうとすると廊下で虎井夫人に逢った、夫人は遽しく余を引き留めて「お浦さんの死骸ではない様に貴方が言い立てたと聞きましたが、其の言い立てが通りましたか、判決は何うなりました」余「判決は何者とも知れぬ女となりました」夫人「オオ夫は有難い、松谷嬢もさぞ喜びましょう、嬢は先ほどから此の様な疑いを受けて悔しいと何んなに嘆いて居るでしょう」余「夫にしても貴女は病気の身で」夫人「イイエ熱が冷めましたから最う病気ではないのです、御覧の通りヨボヨボしては居ますが、松谷嬢が傷わしゅうて、知らぬ顔で居られませんゆえ、先刻から検屍の模様を立ち聞きしては嬢に知らせて遣って居ます」悪人でも流石は乳婆だ、嬢の事がそうまでも気になるかと思えば余は聊か不憫に思うた、余「では直ぐに判決の事を貴女の口から嬢に知らせてお遣りなさい」夫人「イイエ最う私は安心して力が盡きました、室へ帰って休まねば耐りませんから嬢へは何うぞ貴方から」と言い捨て、全く力の盡き果てた様でひょろひょろして自分の室の方へ退いた。
余は其の足で直ぐに秀子の室へ行ったが、秀子は全く顔も青ざめ、一方ならず心配に沈んで居る、余の姿を見ても立ち上る気力もないから、余は其の背を撫でる様にして「秀子さんお歓《よろこ》び成さい、あの死骸はお浦のでなく加害者も被害者も何者か分らぬと判決になりました」秀子は打って代ったほど力を得て立ち上り「アア本統に有難いと思います、貴方には命を助けられ、今は又命より大切な事を助けられました」余「ナニ是しきの事を何も有難いなどと云うには足りませんよ」秀子「イエ貴方は何も御存じがないからそう仰有るのです、若し私に嫌疑でもかかれば、幾等自分が潔白でも私は活きて居られぬと思いました、イエ本統ですよ、夫だから亡き後の事を頼む積りで権田時介を呼んで置きました」猶だ余よりも彼の権田弁護士を真逆の時の頼みにするかと思えば余は何となく不愉快だ、余「シテ権田は最う来ましたか」秀子「ハイ最う多分着く時分です」余「私は権田の身に成りたいと思います、若し権田の様に私を信任して下さらば権田の百倍も貴女の為に盡しますが」秀子「アレ信任などと、私は――何れほど、貴方を頼みにして居るか知れませんのに」余「頼みにするとて私へ愛と云う一言をすらお酬い下さらぬでは有りませんか」是が嫉妬と云う者か、余は斯様な事を言う積りでなかったのに、知らず知らず口が辷った、秀子「私の様な到底人の妻と為られぬ者の愛を得たとて何に成ります」余「妻になる成らぬは構いませぬ、唯貴女に愛せられて居るとさえ思えば――」秀子「ではそうお思いに成って宜《よ》いのです」と云ったが、是も言うて成らぬ事を云ったと思ったのか直ちに余の胸に前額《ひたい》を隠した。
余は夢の様に恍惚として「秀子さん、其のお言葉を聞けば私は身を捨てても――イヤ貴女の身に人の妻と為られぬ何の様な事情が有ろうとも其の事情を払い退けます、如何なる困難を冒して成りとも」秀子は飛び離れて「了ません、丸部さん、私は大変な事を忘れて居ました、此の度の事は貴方のお蔭で助かりましたが、之よりも恐ろしい、到底《とて》も助かる路がなかろうと思う様な事柄に攻められて居るのです、妻にもなれず、永く此の世に居る事も出来ません」秀子の言葉は常に秘密の中に包まれ何事だか察することも出来ぬけれど今まで偽りの有った事がない、分らぬながらも皆誠だ、余「人として此の世に居る事の出来ぬ様な其んな事柄が有りますものか、今までは他人ゆえ、深く貴女に問う事も出来ませんでしたが、愛と云うお言葉を聞いた上は最う自分の事として其の困難に当ります、何の様な事ですか、何の様な事ですか」秀子は首を垂れて考え込み、顔も見せねば返事もせぬ、余「其の事柄が若し今直ぐに聞かして下さる事が出来ぬとならば、其の方は後として、其の前に貴女が人の妻に成られぬと云う其の訳を伺いましょう、私を愛しても私の妻に成れぬとは何故です、間を隔てる人でも有るのですか、有れば其の人は誰ですか」
「権田弁護士」と取り次の者の名乗る声が此の時聞こえた、引き続いて権田時介が此の室へ入って来た。
第四十三回 空な約束
権田時介が来た為に、余は実に肝腎の話を妨げられた、若し彼の来るのが半時間も遅かったら、余は必ず秀子を説き伏せて末は夫婦と云う約束を結んだのに、惜しい事をした。
時介が秀子に何を云うか、又秀子が時介に何を頼むか、余は茲に居て聞き取り度いと思ったけれどもまさかにそうも出来ぬ。既に秀子から故々《わざわざ》時介を呼びに遣ったと聞いて居る丈に、厭でも茲を立ち去らねばならぬ、恨み恨み彼の顔を眺むれば彼も余と秀子との間に何か親密な話でも有ったのかと嫉む様に余の顔を見る、余「イヤ権田さん」時介「イヤ丸部さん」と互いに挨拶の言葉だけは親しげに交えたけれど腹の底は火と火の衝突だ、互いに焼き合いだ。
余は詮方なく此の室を退いて、我が心を鎮める為庭に出て徘徊したが心は到底鎮まらぬ、益々秀子の事が気に掛かる一方だ、何で秀子は権田の様な者を呼び寄せただろう、余に打ち明ければ何の様な事でもして遣るのに、何でも権田は秀子の身の秘密に、久しく関係して居るに違いない、今初めて怪しむ訳ではないが其の秘密は何であろう、秀子は到底此の世に活きて居られぬと迄に云った、シテ見ると余ほど切迫して居る事に違いない、唯一度余に打ち明けて呉れさえすれば余は骨身を粉にしても助けて遣るのに、権田には打ち明けて余には隠して居る、何の秘密だか少しも見当が附かぬ、見当が附かぬのに助けると云う訳には行かず、と云って助けずに、知らぬ顔で済ます訳にも猶更行かぬ、困った、実に困った、只問う丈では幾度問うたとて打ち明ける事ではなし、矢張り此の上は、秘密にも何にも構わずに、余の妻になると云う約束をさせ、爾して許婚の所天と云う資格を以て充分の親切を盡くし、追々に其の信任を得て、爾して打ち明けさせるより外はないか知らん、追々と云う様な気の永い話では此の切迫して居る今の場合に間に合わぬかも知れぬけれど、外には何の道もないから仕方がない。
余は此の様に思って再び秀子の室へ行ったが、中は大層静かだ、猶だ権田と話して居るか知らん、斯うも静かな様では余ほど湿やかな話と見える、余が這入るのは勿論悪い、悪いけど此の様な大事の場合に権田の都合の好い様に許りはしては居られぬと、今思うと半ば殆ど狂気の様で、戸を推し開いて中へ這入った、オヤオヤ、オヤ、権田は居ぬ、秀子が一人で泣いて居る、余は安心もしたが拍子も抜け「権田弁護士は何うしまし
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