理はない、秀子が切に余に向って咒語と図※[#「※」は「たけかんむりの下にかねへんの碌」、読みは「ろく」、77−下9]とを研究せよと勧めたのも茲の事だ「名珠百斛[#著者による「明珠」の間違いかと思われる]、王錫嘉福」などと云うも夫々確かな意味のあるのに違いない、是からは真面目に咒語と図※[#「※」は「たけかんむりの下にかねへんの碌」、読みは「ろく」、77−下11]とを研究して見よう「神秘攸在、黙披図※[#「※」は「たけかんむりの下にかねへんの碌」、読みは「ろく」、77−下12]」などと云う文句も俄かに恭々しき意味が出て来た様に思われる、虎井夫人が鉄板の穴で手を引っ掻いた抔《など》も矢張り内々で此の咒語を解釈したいと研究して居る為だ、秀子の手帳を盗んだもそれ、秀子が手帳の事を痛く心配するも矢張りそれだ。
 成るほど、秀子がアア心配する所を見るとアノ手帳には余ほど詳しく書いて有ったに違いない、夫も其の筈よ、一寸と茲へ登って来た許りの余ですらも是だけ発明するのだから、久しい以前から毎日の様に研究して居る秀子は、事に由ると最う悉く秘密を解釈し盡くして居るも知れぬ、是は堀の中の詮索よりも、塔の上の詮索の方が遙かに好い結果を来すのだ哩《わい》と余は独り黙首《うなづ》いて居たが、此の時堀の方から人々の異様に叫ぶ声が聞こえた、何の事だか勿論聞き分ける事は出来ぬけれど、直ちに又廊下へ出て見ると、何だか大きな物が網に掛かり、舟へ引き上げようとして居る所だ、余は遽てて下の居室へ降り、双眼鏡を取って又上って来、度を合せて見直したが実に驚いたよ、サア網に掛かって上ったのは何であろう、読者も銘々に推量して見るも亦一興だろう、次回には分るのだから。

第三十七回 切口も見事だ

 網に掛かって揚《あが》ったのは、余の双眼鏡で見た所では大きな不恰好な風呂敷包みの様な物である、勿論多少は泥に塗《まみ》れて居るが、併し此の堀は上下とも流れ河に通じて居て水門こそ毀れて居れど常に水が流れ替わって居る故、底も幾分か清い、世間に有りふれた、水の替わらぬ溷泥《どぶどろ》の様な、衛生の害になる堀とは少し違う、引き上げた品が泥に汚れて居るとは云え、其の正体を見分け難い程ではない。何でも風呂敷包みだ、爾まで古くない風呂敷包みだ、サテ中の品物は何であろう。巡査の船へ引き揚げると探偵の舟も遽てて其の所へ漕ぎ附け探偵が何か差し図して居る。
 其のうちにヤットの事で網から其の品物を取り脱して船の中へ入れたが、オヤオヤ不恰好な其の包みの一方から何か長い物が突き出て居る、何であろう、何であろうと、余は双眼鏡の玉を拭いて見直したが、何だか人間の足らしい、泥の附いた合間々々が青白く見えて居る所は何うも女の足らしい、扨は叔父や高輪田などの見込みが当たって、全くお浦が死骸と為って水底に沈んで居たのだろうか。
 余は実に気持が悪い、けれど双眼鏡を自分の目から離す事は出来ぬ、探偵も巡査も余ほど驚いた様子である、頓て舟は土堤の下へ漕ぎ附けた、大勢が其の所へ馳せて行った、風呂敷包みは土堤へ上げられた、余の叔父は見るに忍びぬと云う様で顔を傍向《そむ》けた、高輪田も熱心に探偵に向って何事をか云って居る、探偵は更に余の叔父に振り向いた、叔父と探偵との間に暫く相談が始まった様に見える。
 後で聞いたら此の相談は、風呂敷包みを直ぐに其の所で開こうか家の中へ運び入れて開こうかとの評議であった相だ、警察の規則では総て斯様な品は現場から少しも動かさずに検査せねば成らぬので巡査等は家の中に運び入れては可けぬと言い張ったけれど余の叔父が事に由りては一家の家名に拘わろうも知れぬから、是非とも他人の見ぬ所で検めて呉れとて探偵に頼み、漸くに聴かれた相だ。
 暫くすると巡査数人が風呂敷包みを舁いで此の家の方へ来る、最早塔の上に居たとて仕方がない、余は双眼鏡を衣嚢に納めて下へ降りて行った、風呂敷包みは玉突き室の隣に在る土間へ入れられ、茲で開かれる事になったが、余は第一に其の風呂敷包みを見て驚いた、何故と云うに尋常の風呂敷ではなく、東洋の立派な織物で、実は先の日お浦が消滅した時、其の室の卓子に掛かって居た卓子掛けである、其の卓子掛けは確かにお浦の消滅する時まで無事で有ったが、お浦と共に紛失したと云う事で、余は病床に居る間に其の事を聞いた、確かに叔父が「大事の卓子掛けが無く成ったが其の方が何所か外の室へ持って行きはせなんだか」と余に聞かれた事がある、是が即ちその卓子掛けである。
 探偵が先ず此の場合の主人公と云う位置を占め、其の包みを解《ほど》き始めた、突き出て居る足は確かに女の足である、其の足の方から順に上へ上へと解いて行くのだ、少し解くと直ぐに着物の端が現われたが、是も余には見覚えがある、消滅の時にお浦のきて居た着物である、探偵は呑み込み顔に「アア水死した者ではない、少しも水は呑んで居ぬ、死骸に成った上で堀に投げ込まれたのだ」と云った、次には腰の辺へ大きな石を縛り附けてあるのが現われた、死骸の浮き上らぬ用心たる事は無論である、叔父は殆ど見兼ねたけれど必死の勇を鼓して辛くに見てるらしい、次には左右の手の所まで解いたが、探偵ばかりは全く落ち着きくさって居て、静かに死骸の其の両の手を悉く熟視した、手には左右とも二個ずつの指環がはまってある、探偵「此の指環に見覚えは有りませんか」と叔父に問うた、勿論見覚えがある。余は幾年来、お浦の両手に都合四個の此の指環が輝いて居るのも見飽きた一人だ、叔父は前にも記した通り検事を勤めた昔と違い、非常に神経が弱く成って、充分に返事は為し得ず、単に「私が買って遣ったのです」と答えた、お浦の名さえも口に得出さぬ、探偵「誰に買って遣ったのです」と飽くまで抉《えぐ》る様に聞くから余は見兼ねて「浦原浦子にです」と代言した。
 何しろ余り無惨な有様に、叔父は勿論余さえも此の上見て居る勇気はない、水の中で恨みを呑んで沈んで居たお浦の顔を見るのが如何にも辛い次第だから、俯向《うつむ》いて暫く目を閉じて居たが、其のうちに探偵は「アッ」と叫んだ、落ち着きくさった探偵が斯うも叫ぶほどだから余ほどの事が有るに違いない、数人の巡査も口々に「是は余りだ」と叫んだ、何事だろうと余も顔を見上げてたが、実に戦慄せずに居られぬ、お浦には顔がない、首の所をプッつり切って、頭だけなくなって居る、余ほど鋭い刃物で切ったに違いない、切口も美事なものだ、何だとて斯うも惨酷な事をしたのであろう。人を殺して首だけ切り取って何所かへ隠し、爾して首のない死骸だけを堀の中へ沈めて置くとは、人間の仕業でない、鬼の仕業だ。

第三十八回 首の無い死骸

 読者は未だ首のない死骸を見た事は有るまい、非常に恐ろしく見ゆるは勿論の事、非常に背丈の短く、非常に不恰好に見ゆる者だ、お浦は随分背も高く、スラリとした好い姿で有ったが、何となく優美な所を失った様に見える、成るほど身体の中の第一に位する首と云う大切の権衡《つりあい》がなくなったのだから全体が頽《くず》れるのは当然だ。
 何しろ此の恐ろしい有様に一同は暫しの間、一言をも発し得ぬ、顔と顔とを見合わす事も出来ぬ程だ、ミルトンの所謂、自分の恐れを他人の顔で読むのを気遣うとは、茲の事だ、其のうち第一に口を開いたのは探偵森主水だ、彼は独言の様に「是が愈々浦原浦子の死骸とすれば実に失望だよ」と云った、何故の失望だろう、彼は更に語を継いで「今までこうああと心に描いた推量が悉く間違って了う事になる」と云うた、此の語で見ると彼は今までお浦が未だ死んでは居ぬと思って居た者と見える。
 探偵の言葉を聞き、今迄|屏息《へいそく》して居た高輪田は、螺旋《らせん》にでも跳ねられたかの様に飛び上って爾して情ないと云う声で「是が何で浦原嬢の死骸でない事は有りません、無事で居たなら今頃は私の妻ですのに」と云い、涙をハラハラと滴《こぼ》して更にお浦の死骸に蹙《しが》み附き「誰に此の様な目に遭わされました、浦子さん、浦子さん、此の敵《かたき》は必ず高輪田長三が打ちますから」と誓う様に云うたけれど首のない者が返事する筈もない。
 余の叔父は最早此の有様を見ては能《よ》う居ぬと思ったか何時の間にか居なくなって了った、探偵は猶独語を続けて「併し斯う意外な事柄が現われると大いに探偵が仕易くなる、一つも捕え所がなくては何の思案の加え様もないが、兎に角死骸――而も首のない死骸が出ては是程明白の手掛かりはないのだから、爾だ、探偵の面白みは減ずるかも知れぬが成功の見込みは増して来る、高輪田さん千円の懸賞は遠からず私が頂きますよ」高輪田は夢中の様だ「千円が二千円でも宜しい。早く下手人を探して下さい、早く早く」と泣き声でせがんで居る、探偵は益々落ち着いて「斯う成れば最う此の土地で探すよりも倫敦で探す方が早や分りだ」と、独語にしては、高過ぎる程の声で云うた。
 此の土地の犯罪を倫敦で捜すとは余り飛び離れた言葉だから、余「此の犯罪は何か倫敦に関係が有ると云うお見込みですか」探偵「イヤ未だ何の見込みも定まりませんが、今までの経験で、小さい犯罪は其の土地限りで有りますけれど此の様な重大な異様な犯罪は必ず倫敦で取り調べる探偵に勝ちを得られます」余「では倫敦へお出ですか」探偵「ハイ、ですが、兎に角検屍官が此の死骸を何う検査するか其の結果を見た上でなければ私の実の判断は定まりません」
 斯う云って猶綿密に死骸の諸々方々を検めたが、頓て「オヤオヤ、此の様な物が」と云って、探偵は死骸の着物の衣嚢から何やら凋《しな》びた様な物を取り出した、熟く見ると彼の松谷秀子が左の手に被《はめ》て居た異様な手袋である、高輪田長三は目を見開き「ヤ、ヤ、森探偵。此の品には確かに私が見覚えの有る様に思います」探偵「爾ですか、愈々見覚えがお有り成されば夫こそ屈強の手掛かりです」高輪田「見覚えが有っても軽率には云われません、私は生涯此の手袋は忘れません」余も生涯此の手袋を忘れる事は出来ぬ、此の手袋がお浦の衣嚢に在るは、全くお浦が消滅する前に無理に秀子より奪い取ったので怪しむには足らぬけれど秀子の身に取っては、何れほど重大な嫌疑の元となるかも知れぬ。
 余も今は殆ど此の所に居かねて、探偵に其の旨を告げて退いたが、家の内の人々は孰れも青い顔して、少しの物音を立てるさえ憚る如く、言葉も細語《ささやき》の声でなくては発せぬ、室の内を歩むにも爪立てて歩む程だ、言わず語らず家の中へ「恐れ」と云う事が満ちて了った、が、其の恐れの中にも最も重い疑いは秀子の身に掛かって居る、誰も口には出さぬけれどお浦の死んだのは秀子に責任があると云う様に心の中で思って居るらしい、「恐れ」が家に充満して居ると同じく「疑い」も家の内に満ちて居る、其の中に早や日も暮れたが余は探偵から呼ばれたに就いて再び死骸の室へ行って見ると、死骸には早や白い布を着せてある、探偵「ナニしろ此の死骸は水底で既に一週間ほど経た者ゆえ、斯うして置く訳に行かず直ぐに検屍を請いましたけれど、本統の取り調べは、既に日も暮れた事ですから明朝でなくては行われません、依って充分に防腐などの手数をも盡くして置きました」余「今夜誰にか番をさせましょうか」探偵「ハイ番は数人の巡査が交代して致します、私は唯明日の検屍の事を申して置きたいので」余「ハイ伺って置きましょう」探偵「明日の検屍には貴方の叔父さん、貴方、高輪田長三、根西夫妻、夫から松谷秀子と是だけが呼び出されますから其のお積りで」と特に秀子の名に力を籠めて云うは或いは到底秀子の罪は逃れぬから今から其の用心せよとの謎ではあるまいか、余は唯「左様ですか」と云って分れたが、此の死骸が何所まで人を驚かす事であろう、翌日の検屍には首のないよりも猶一層重大な事柄が発見された。

第三十九回 事件の眼目

 明日の死骸検査で、何の様な事が分って来るか知らぬが、余は何うしても心に安んずる事が出来ぬ、此の夜は殆ど眠らずに考えた、けれども取り留めた思案は出ぬ。
 全体誰がお浦を殺しただろう、秀子が殺したとすれば何も彼も明白だ、秀子は実際お浦を殺さねば成
前へ 次へ
全54ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
黒岩 涙香 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング