秀子も愁いの眉を展《ひら》いた様子だ。
余が此の室を去ると共に秀子は、廊下まで附いて来て、余を引き留め、小さい声で「変な事を伺いますが若しや貴方は過日虎井夫人に頼まれて夫人の被物《きもの》の衣嚢を、裏から※[#「※」は「てへん+劣」、73−上19]取《もぎとっ》て遣りは成されませんでしたか」成るほど其の様な事が有った、余は秘密を守る積りで居たが今は爾も成らず「何うして其の様な事が分ります」秀子「イエ先日私が此の室を出て少し阿父様の傍へ行った間に、夫人の被物の衣嚢が無くなって居りました、勿論夫人が自分で起き上って被物の傍まで行く力はなく、誰かに頼んで仕て貰ったに違いないのですから、夫となく聞き糺して見ますと私の居ぬ間に丁度貴方がアノ室へ夫人の病気見舞に行ったと云う事が分りました」余「其の通りです」秀子「貴方は衣嚢の中を見ましたか」余「イイエ」秀子「その中には私の盗まれた手帳が入って居るに違い有りません」余の思った所と全く同じ事だけれど、余は故と「では幽霊の真似をして私を驚かせた――」秀子「ハイ其の盗坊《どろぼう》は虎井夫人です、私は初めから疑って居ましたが、衣嚢の紛失を見て愈々爾だと思いました、夫人は狐猿に引っ掻れたと云うのも実はあの時古釘に引っ掻れたのだろうと思います、私は過日来図書室へ入り狐猿の事を記した書籍等を調べて見ましたが狐猿の爪に毒が有るなどと云う事は何の書籍にも書いてありません」余は今に初めぬ事では有るが秀子の万事に行き届くに感心し「オオ最うお調べになりましたか、実は私も其の事を調べ度いと思って居ました」秀子「シタガ其の衣嚢は何うしました、中に確かに私の品が有りますから、縦しや夫人の秘密にもせよ私は其の衣嚢を検めて誰にも咎められる事はないと思います、エ、其の衣嚢は何所に在ります」と余ほど決心した様子である、余「其の衣嚢は最う此の家には有りません」秀子「エ、此の家にない――」余「ハイ私が夫人の頼みに応じ直ぐに小包郵便で送り出しました」秀子は今迄そう端下なく顔色など変りはせぬのに、此の時ばかりは顔色を変えて「夫は大変な事を成されました、爾して送った先は若しや蜘蛛屋では有りませんか」蜘蛛屋とは聞いた事もない名前ゆえ、余「エ、蜘蛛屋とは」秀子「ペイトン市在の」余「爾です。ペイトン市在の養蟲園と宛名を書きました」秀子「其の養蟲園と云うのが蜘蛛屋です、貴方は先ア大変な事を成されました、アノ手帳が蜘蛛屋の手へ這入っては」余「イヤ夫ほど大変なら私が其の蜘蛛屋へ行って――爾々主人の名を穴川甚蔵と書いた事も覚えて居ますから其の穴川に逢うて取り返して参ります」秀子「飛んでもない事を仰有る、アノ家へ入らっしゃれば毒蜘蛛に喰い殺されます、蜘蛛の糸に巻かれ身動きも出来ぬ様になり、迚も活きては返られません」今の文明の世に、昔の怪談めきたる毒蜘蛛を養いて人を其の糸に巻き殺させるなどと云う事が有るだろうか、秀子は思い出しても恐ろしいと云う様に、言葉と共に身震いをした。
第三十五回 身の毛が逆立つよ
養蟲園とは真に蜘蛛を養う所であろうか、蜘蛛屋とは聞いた事もない商売柄だ、爾して人を大きな蜘蛛に与えて其の糸で巻かせて了うだろうか、余は秀子が恐ろしげに身震いする様を見て思わずゾッと全身を寒くした、猛き虎に出合ってさえ泰然自若として其の難を逃れた秀子が、話にさえ身を震わす程だから、余ほど恐ろしい所に違いない、とは云え昔の怪談では有るまいし今の世に人間を喰うほどの大きな蜘蛛が有る筈はない、猛獣や毒蛇ばかり跋扈《ばっこ》して居る大の野蛮国なら知らぬ事、文明の絶頂に達した此の英国に、何で秀子の云う様な毒蜘蛛が居る者かと、少しの間に思い直しは直したけれど、余は何うも其の養蟲園へ行って見たい、秀子の手帳を取返し得るや否やは扨置いて、毒蜘蛛の糸に巻かれ身動きも出来ないで喰い殺されると秀子の形容する其の実際の有様を見究め度い、併し今の此の身体では仕方がない、是ならば大丈夫と医師から許しを得る様になれば余は必ず行って見よう。
併し之よりも差し当り余が不審に思うのは虎井夫人と秀子との間柄だ、問うは今だと思い「ですが秀子さん、虎井夫人は貴女の附添人であるのに貴女の手帳を盗むとは余り甚いでは有りませんか」秀子「ハイ私の附添人ですけれど少しも気の許されぬ人ですよ、身体の健康な時には色々の事を目論見《もくろみ》まして、幾度私と喧嘩するかも知れません」勿論余は秀子と虎井夫人と意見の衝突する場合の有るのを知って居る、初めて此の土地の宿屋に泊った夜なども、既に記した通り夫人と秀子とが甚く争って居るのを聞いた、だから秀子の此の言葉は少しも偽りのない所であろう、けれど夫ならば何故に暇を遣らぬのであろう、余「其れほど気の許されぬ方なら何故雇うてお置き成さる」秀子「私が雇うて置くという訳でなく、先が離れぬのです、昨日や今日の間柄でないのですから、私も詮方なく我慢をして居ます」余は猶充分の不審を帯びて「ヘヘエ、爾ですか」と云う計りだ、秀子は説き明かす様に「私の乳婆《うば》だものですから」と言い足した、成るほど成るほど、夫で読めた、乳婆ならば何となく秀子を監督する様な素振りの見ゆるも尤もだ、乳婆ならば振り放したとて向うが平気で随って居る事もあろう、殊には幼い時から秀子の身の秘密をも知って居るので猶秀子から解傭《かいよう》する事は出来まい。
此の日は是で済んだが、翌日は例のお浦の消滅一条を詮索する為此の屋敷の堀の底を網で探ると云う事になった、真逆にお浦が死骸になって堀の底に沈んで居ようとは思われぬ、成るほどお浦が余に約束の回復を迫った末、身でも投げるかの様に見せ掛けて堀の方を指し走って行った事の有るのは余は知って居るけれど仲々身投げなどする女ではない、其の後で直ぐに秀子を誘って引返して来た丈でも分って居る、或いは誰かに投げ込まれた者とせんか、それも取るに足らぬ考えだ、お浦の消滅は閉じ切った室の中で起った事件で、少しも堀などに関係はない、だから余は堀の底を探ると聞いて直ぐに叔父に問うた「何の為に堀の底と云う見当を附けたのです」と、叔父は少し当惑の体で「イヤ見当を附けたのではない、何の手掛りもなくて探偵も高輪田氏も甚く心配して居て、此の方は其の心配を坐視するに忍びぬから、高輪田に向い「最早尋ねる所がないから念の為堀の底でも探って見ますか」と云うた、すると高輪田氏は飛び附く様に「私も実は堀の底を探り度いと思って居ましたが御主人が其の御了見なら早速探らせて頂き度い」とて先に立って探偵に説き付けた、探偵は躊躇の気味で「何の手掛りも得ずに、唯深い堀が有るからと云って堀を探るは職業上の恥辱だ」と答えたけれど何しろ千円の懸賞をまで出した人の言葉を無下に聞き流す事も出来なんだか夫に又高輪田氏が「ナニ手掛りのないのに困じて堀を探るのではなく、既に土堤の芝草を踏みにじった所が有ったではないか、是だけの形跡が有れば、兎にも角にも探らずには置かれまい」と云い此の方も自分の口から言い出した事だから傍から賛成の意を表した、夫で探偵も遂に同意し、既に先刻から其の用意を始め、舟も艇庫《ていこ》から出し、此の土地の巡査なども監督の為に出張して居る、最う大方着手する所だろう」と斯う答えた、勿論余は異存など云う可きでなく、最しや腹の中でも無益だろうと思っても念の為探る方が当然には違いないから、唯「アア爾ですか」とのみ答えたが、探って愈々何の様な結果になるだろうとは、神の様な炯眼の読者でも知る事は出来まい、今思うと実に此の様に意外に、恐ろしい結果は又と有るまい、本統に身の毛が逆立つよ。
第三十六回 大変な事を発明
堀の底から何が出るか、既に捜索に着手して居ると云うから、余は行って見たく思うけれど、猶だ医者から外出の許しを得て居ぬゆえ、塔の上から見るとしよう、ナニ堀端まで行った位で余の身体が悪く成る気遣いはないけれど、今は充分に此の身を自重せねば成らぬ時際《とき》だ、是から何の様な闘いに臨まねば成らぬかも知れぬ、毒蜘蛛の巣窟と云う蜘蛛屋へも行かねば成らぬかも知れぬ、秀子の為に骨身を砕かねば成らぬかも知れぬ、何でも大事に大事を取って、一日も早く此の身を鉄の様に丈夫な日頃に癒して了わねばならぬ。
塔の四階に在る自分の室へ登ったけれど、少しの事で充分には見えぬ、もう一階上へ行けばと日頃メッタに昇った事のない時計室へ上って見たが茲ならば先ず我慢が出来る。堀から堤《どて》の九部通りは目の中に在る、堀の中には三艘の小舟があって、一艘は探偵が乗って差図をし、二艘は此の土地の巡査らしい人が乗って網を引き廻して居る、幾等捜したとて消滅した浦原お浦が死骸と為って其の底に沈んで居る筈はない、鯰でも捕える位が関の山だからと此の様には思うけれど何となく終りまで見て居たい。之が人情と云う者だろう。
見て居るうちに余の頭の上で、大きな鳥が羽叩きでもするかと思われる様な物音がした、之は兼ねて秘密の組織と云う此の塔の時計が時を報ずる間際なので、先ず此の様な音を発するのだ、傍で聞くと物凄い程に聞こえる、余は今まで秀子の忠告は受けたけれど深く此の時計の組織などを研究した事はないが、時を打つ時には何か異様な事が有るか知らんと思って、立って検めて見たが、時計の大きさは直径一丈ほども有る、下から見るよりは三倍も大きいのだ、而して其の時刻盤の裏の片隅に直径三尺ほどの丸い鉄板を張ってある、何故か此の鉄板は緑色に塗って有る、何の為の板であろう、時計の機械に甚く関係のある様にも思われぬが、或いは取り脱す事でも出来るか知らんと、力を籠めて動かして見ると仲々動く所ではない、叩いて見ると厚さも可なり厚いと見え、宛も鉄の戸扉を叩く様な音だ。
何しろ余り類のない組織だから余は一時、堀の事を打ち忘れる程になって其の鉄板を検めたが、板の真中に、辛《やっ》と人の手が這入る程の穴がある、併し穴の中は真暗だ、余は之に手を入れようとしたが、女か子供の手なら格別、余の様な武骨な手は到底這入らぬ、殊に穴の周辺《ぐるり》が既に錆びてザラザラして居るから、女でも此の穴へ手を入れれば必ず引っ掻かれて怪我するに極って居る、と斯う思うと忽ち思い当ったのは虎井夫人の事だ、夫人が手を引っ掻かれて居るのは、幽霊の真似をして此の塔へ上り、此の穴へ手を入れたのだ、爾だ、爾だ爾だ、爾して秀子は此の穴の事を知って居るのだから、直ぐに夫と看破して彼の夫人を疑う事になったのだ。
夫にしても虎井夫人が何の為に夜深けに此の塔へ上り、鉄板の穴へ手を入れて見る様な異様な事をしたのだろうと、今更の如く怪しんで居るうち、時計は時を打ち始めた、時は即ち午後の四時である、所が奇妙な事には、時計の鐘が一つ打つ毎に、其の鉄板が少し動いて、自然に右の方へ廻る、若し時計が十二時を打つ時には鉄板は必ず一廻りだけ回って了うだろう、爾して其の廻る度に真中の穴へ外から光明が洩れて来る、変だなと、余は光明の洩れる度に其の穴へ目を当てて窺いて見たが光明は上の方から、斜めに指すので、全く天の光明《あかり》だ、暗の夜ならば決して光明は射さぬであろう、併し其の穴から直接に空を見る事は出来ぬ、穴は唯真向うを見る許りで、奥の方に何があるかは能く見て取る事が出来ぬ、其の中に時計は唯四声打って止んだから鉄板も動き止んだ、穴も元の通り真暗に成って了ったけれど余は大変な事を発明した。
外でもない、丸部家の咒語の中に、全く無意味かと思われる句が有ったが其の句は全く此の時計の此の鉄板と此の穴とを指した者だ、読者は覚えて居るだろう、第九句に「鐘鳴緑揺」とあって第十句に「微光閃※[#「※」は、へんが「火」、つくりが「日」の下に「立」、読みは「よく」、77−下4]」とあった事を、是だ是だ、鐘鳴りとは時計の時を打つ事で、緑揺くとは時計の緑色に塗った鉄板が動くと云う事、爾して微光が穴から閃いて輝いた、アア知らなんだ、知らなんだ、是で見るとアノ咒語は決して狂人の作った囈言《たわごと》ではない、確かな謎が籠って居るのだ、丸部家が先祖代々から其の当主にアノ咒語を暗誦させたも無
前へ
次へ
全54ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
黒岩 涙香 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング