う、其の様な刃物が何所にあるだろうと聞くと、昔|伊国《いたりや》などで、女の刺客が何うかすると此の様なのを用いたが、極めて鋭いから少しの力で人を刺す事が出来るけれど、其の代り創口が余り微妙で、出血が少いから急所さえ外れて居れば存外早く直る、余の怪我も大事にすれば一週間で床を離れる事が出来ようと云われた、シテ見れば驚くほどの大怪我ではない。
 大怪我ではないのに創口の燃える様に痛く、爾して全身の機関が働きを失ったは何う云う者だろう、医師の説は余の考えと同じく印度に産する Curare と云う草と Granil と云う草の液を混ぜて調合した毒薬を剣の刃に塗って有ったに違いないとの事だ、医師は語を継いで「之は専門の刺客のする業です。イヤ刺客に専門と云う事はないが、兎に角余ほど人を刺す術に通じて居る者で無くば、此の様な事は出来ません、薄い刃物で人を刺すには今云う通り遣り損ずる事が有ります、刃《やいば》へ此の毒を塗って置けば遣り損じた所で其の人が働きを失って追っ掛けて来る事が出来ません、其れだから仕損じる恐れの有る場合に、此の様な毒を塗って置くのです、之は臆病の刺客の秘伝だと云いますが、その様な秘伝まで知った刺客が徘徊する室では実に安心が成りませんから、之は丸部さん、其の筋の探偵に詮議させずには置かれますまい」と末の一句は叔父に向って忠告の様に云った。
 叔父は其の言葉に従い翌日直ぐに倫敦へ電報で探偵を一人注文して遣った、翌々日に注文に応じて来着した探偵は、森|主水《もんど》と云って、此の前にお紺婆の殺されたとき此の家へ出張して犯人夏子を取押えた人で、此の幽霊塔の境内の地理や家の間取りなどは充分に知って居るとの事だから最も妙だ、所が此の人の来着して後までもお浦の姿は現われぬ、消えてから既に二昼二夜になるのだから愈々以て唯事ではない、依って森主水は、余の刺客を調べると同時にお浦の消滅の次第をも取り調べる事になった、森の心では或いは此の二事件の間に何等かの連絡がある者と思ったかも知れぬ。

第三十三回 千円の懸賞

 森探偵は其の道に掛けては評判の老練家ゆえ、余の刺された件に就いてもお浦の消滅した件に就いても遺憾なく取り調べるに違いない。
 彼が余の寝室へ上って来たのは、既に下で以て秀子に様々の事を聞いてから後であったとの事だ、余は何と問わるるも有りの儘に答えねば成らぬ、が、若し有りの儘では秀子の身に何等かの疑いが掛りはすまいか、お浦の紛失する前に秀子とお浦との間に一方ならぬ争いが有って、秀子がお浦を永久悔むとも帰らぬ目に遭わせるぞと言い切った一条などは探偵の心へ何う響くか知らん、勿論余の知って居る所では、お浦の紛失は秀子の仕業ではない、お浦が床の上へ仆れると同時に秀子は余の傍へ馳け附けて来た、其の後でお浦が紛失した、爾して秀子は暫く経って後までもお浦が何処かへ隠れて居るのだと信じて居た事は其の時の挙動に分って居る、それだから秀子がお浦の紛失に関係のない事は余がそれに関係のないのと同じ事だけれど、探偵はそうは思うまい。
 余はお浦と秀子との争いを何の様に言い立てて好いか未だ思案が定まらぬに探偵は早や余の枕許へ遣って来た、幸いに彼は秀子の事を問わぬ、余の刺された件のみを問い始めた、余は有りの儘を答え、全く壁から剣が出た様に思ったと云い、猶刃物や毒薬の事に就いては医師の説を其のまま繰り返して耳に入れた、彼は職業柄に似合わず打ち解けた男で、自分の意見を隠そうとせず「イヤ毒薬などの事は、来る道筋で医師の家を尋ねて聞いて来ました、けれど貴方自身が壁から剣が出た様だと云うのでは少しの手掛りも有りませんねエ、シテ見ると矢張り手掛りの有る方から詮議せねば」余「手掛りの有る方とは」探偵「浦原浦女の失踪です」余「お浦の紛失には手掛りが有るのですか」探偵「ハイ手掛りと云う程でなくとも、兎に角、浦女と喧嘩して、永久悔むとも帰らぬ目に遭わせるとまで威した人が有りますから」余「エ、エ、其の様な事を誰に聞きました」探偵「其の当人に聞きました。松谷秀子嬢に」余「秀子が其の様な事を云いましたか」探偵「オオ貴方がそう熱心に仰有る所を見ると貴方と秀子さんは満更の他人では有りませんネ、浦原浦女は貴方の以前の許婚だと云うし両女の間に嫉妬などの有った事は勿論の事ですネ」余は寝床の中から目を剥《む》いて「秀子は私の何でも有りません、全くの他人です、お浦の方には嫉妬が有ったかも知れませんが、若し秀子の方に嫉妬の心などあった様に思ってお調べなさっては必ず大なる違いに陥りますよ」
 探偵は少し笑って「オオ忘れて居ました、貴方に今、心を動かせる様な事は云っては可けぬと医師から堅く断られて来たのです」と云って巧みに此の場を切り抜けて去って了った、後で余は倩々《つくづく》と考えたが秀子は既に自分の口からアノ時の争いの一部始終を告げたと見える、自分の身に疑いの掛るのも知らないで何だって告げたのだろうと、余は残念に堪えぬけれど、又思うと畢竟《ひっきょう》秀子の心が清いから打ち明けたのだ、堅く自分の潔白を信じ、縦し疑われても危険はないと全く安心をして居るのだ、イヤ本来が、何の様な場合にも嘘などは吐かぬ極々正直な心根だよ。
 暫くすると今度は秀子が上って来た、余はアノ左の手を何うしたろうと思い、夫とはなく目を注ぐに、例の異様な手袋はお浦に取られてお浦と共に消えて了ったと見え、別に新しい手袋を被めて居るが、此の手袋も通例のとは違い、スッカリ腕まで包む様に出来て居る、けれど余は其の様な事には気も附かぬ振りで「秀子さん貴女は森探偵にお浦と争った事を話したと見えますネ」秀子「ハイ浦子さんの失踪に付き何か心当りの事はないかと問われましたが、アノ争いより外には何も知った事は有りませんから争いの事を告げました」余「貴女が御自分で密旨を帯びて居らっしゃる事も告げましたか」秀子「イイエ私の密旨は少しも浦子さんには関係はなく、爾して探偵などに告げ可き事柄で有りませんから告げません」余は聊か安心した、密旨などと云うと其の性質の如何には拘わらず、探偵などの疑いを引く者だ、夫を言われなんだは切《せめ》てもだ。
 此の所へ余の叔父も上って来た、続いて彼の鳥巣庵を借り、昔からお浦に一方ならず目を掛けて呉れる根西夫婦も遣って来た、此の度の事件に就いては、全《まる》で余の室が万事の中心点になって居る、頓て又余の嫌いな高輪田長三も遣って来た、根西夫妻が余を慰問して居る間に高輪田は叔父に向って「丸部さん、浦原浦子の失踪に就いて、差し出がましくは有りますが貴方にお願いが有りまして」叔父「貴方のお願いとなら、聞かぬうちに承諾します」高輪田「実は初めから申さねば成りません、私は外国の旅行先で初めて是なる根西夫人と浦原嬢とに逢いました時に、浦原嬢に心を寄せ、其ののち幾度も縁談を申し込みました、所が此の三日前になり嬢は漸く承諾の意を述べて呉れましたから、私はヤレ嬉しやと思いましたら、直ぐに失踪して了いました、私の悲しみをお察し下さい」と殆ど泣き相な顔附きで云って居る、是は実に耳新しい話である、お浦はアノ時も余に向って昔の約束に立ち返って呉れと嘆いたのに其の時既に高輪田の妻たる事を承諾して居たのか知らん、イヤナニ是は怪しむに足らん、お浦の性質として人と約束したり約束を破ったりするのを何とも思わぬ、成るほど余にも高輪田に縁談を言い込まれた事を話した、シテ見ると余と高輪田とへ両天秤を掛けて運動して居たと見える、酷い女だ。
 根西夫人も少し驚いた様子で「オヤ高輪田さん貴方はあの朝、又も浦子さんに縁談を申し込んだのですか、私が尚早いから気永く成さいとアレほど貴方に忠告して置きましたのに」高輪田「でも尚早くは有りませなんだ、嬢の承諾して呉れたのが何よりも証拠です」根西夫人「承諾しても失踪したのが尚早かった証拠でしょう、承諾したのを後悔して夫で姿を隠したでは有りますまいか」此の言葉で見ると此の夫人も余ほど高輪田を憎んで居ると見える、高輪田は顔を赤らめたが其のまま叔父に向って言葉を継ぎ「此の様な訳ですから私は何うしても浦子嬢を探し出さねば成りません、夫に就いては今度の森探偵へ千円の懸賞を附したいと思いますが、何うか貴方の御承諾を」叔父「其の様な事なら私から、願いこそすれ故障などは有りません」高輪田「そうして此の探偵が終る迄は私は此の土地に留まります」根西夫人は又聞き咎め「此の土地に留まるとて私共は近々鳥巣庵を引き払いますよ、彼の家を借りたのも全く浦原嬢の望みに出た事で、嬢の行方が知れぬとあれば、アノ家に居るも不愉快ですから、倫敦へ引き上げる積りですが、爾なれば貴方は何所へ逗留なさるのです」と根城から攻め立られ、高輪田は当惑げに、唯「爾なれば――、左様さ爾なれば」と口籠るばかりだ、叔父は見兼ねて「イヤ其の時は此の家へ御逗留なさる様に」高輪田は渡りに船を得た面持で「そう願われれば此の上もない幸いです」と喜んだが、此の男を此の家へ逗留させる事に成っては何の様に不幸が来るかも知れぬと余は窃に眉を顰《ひそ》めた、秀子も無論同じ思いの様だ。

第三十四回 衣嚢《かくし》は何所に

 高輪田長三は余ほどお浦に執心で居た者と見え、愈々千円の懸賞を其の探偵に賭けた、爾して全で血眼の様で探偵の後を附け廻って、鳥巣庵へは帰らずに大概は此の家に居る、尤も鳥巣庵の主人根西夫婦は未だ鳥巣庵を引き払いはせず、時々余の病気見舞などに来る、余の叔父朝夫も、出来る丈は探偵と高輪田との便利を与える様にして居る。
 探偵は千円の懸賞の為には一入《ひとしお》熱心を増した様だ、けれど少しの手掛りも得ぬ。余を刺した兇徒は何者、お浦の紛失は何の為、依然として黒暗々だ、強いて手掛りと名を附ければ名も附こうかと思われるは堀端の土堤の芝草が一ケ所滅茶滅茶に蹂みにじられてあると云う一事ばかりだ、是は高輪田が見出したので、当人の鑑定では若しお浦が此の土堤で何等かの暴行に遭ったのでは有るまいかと云うので余の叔父は聊か賛成しかけて居るけれど、森探偵は賛成せぬ、余の意見では何しろお浦の紛失は締め切った室の中で少しの間に消えて了ったのだから、尋常一様な詮索で説き明かすことは出来まい。森探偵はそう思って居る様子だが悲しい事には其の時同じ室に居たと云う為に、秀子に疑いを掛け、時々余の前でも秀子を詮議せぬと可けぬと云わぬ許りの口調を用うる、是は余の心を引く為で有ろう、余は併し真逆に秀子が人間一人を吹き消す事が出来ようとも思わぬから其のたびに秀子を弁護するのだ。
 斯う云う様では迚も探偵が進みはせぬ、と云って外に探偵の仕ようもないから、一同余の室へ落ち合っては唯不思議だ不思議だと云う許りだ、其のうちに一週間の日は経ったが、余は医者の云うた通り寝床を離れて運動する事の出来る様になった、自分の気持では最う平生の通りで、何の様な労にも堪えるけれど医者が未だ甚く力を使っては可けぬと云うから先ず大事を取って戸外へは出ぬ、けれど階段の昇降などは平気で遣って居る。
 斯うなると余は又余だけの仕事が有る、お浦の紛失などは何でも好い、怪我する前に仕掛けて置いた取り調べを片附けて了い度い、取り調べとは果して狐猿に引っ掻れた傷が古釘の創と似寄った禍いをするか否やの一件だ、余が之を取り調べる為に書籍室へ行き、書籍を尋ねる間に壁から剣の出た事は読む人が猶覚えて居るだろう、お浦の紛失と云う大問題の出来た今と為って此の様な小問題は殆ど取るに足らぬけど、大問題を取り調べる手掛りがないのだから、小問題と雖《いえど》も捨て置くには優るだろう、此の様に思って第一に余は彼の虎井夫人の室に行ったが、夫人は真に憐れむ可き有様に痩せ衰え今日明日も知れぬ境涯だ、医者も詰め切って居る、秀子も詰め切って居る、狐猿も詰め切って――イヤ狐猿は秀子の注意で、箪笥の許へ縛り附けられて再び人を引っ掻く事の出来ぬ有様と為って居る、医者の言葉では、若し今日に成って熱が下らねば虎井夫人は到底此の世の者ではない所で有ったが、今朝から熱が下ったから此の後は最う恢復に向う一方だと云う事だ、是には
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