んに「貴方は此の婦人をゆくゆくは妻にするお積りですか」と問いますから、道さんが何と返事するかに拘わらず貴女が其所で断われば好いのです」秀子「貴女の仰有る事は、罪人をでも取り扱う様な風で、常ならば私は決して応ずる事は出来ませんが、唯貴女が根もない嫉妬を起し、爾して様々の邪推をお廻し成さるのがお気の毒ですからお言葉に従いましょう」お浦「爾して道さんに向い、猶私の肩を持って『是非此の方と元の通り夫婦の約束にお立ち帰り成さい』と勧めて呉ねば可ませんよ」秀子は少し笑いを催した様子で「ハイ」と答えた、お浦「夫だけでは未だいけません、貴女は私が此の家の娘分で有った事も御存じでしょう」秀子「ハイ、夫も聞いて知っています」お浦「夫だのに私の追い出された後へ貴女が更に娘分と為ったのですから、是も辞退して貰わねばなりません」秀子「エエ」お浦「イイエ矢張り叔父に向い『最う此の家の娘分で居る事は出来ません』と言い切って、爾して此の家を立ち去らねば了ません、貴女さえ立ち去れば自然と私が元の通り此の家の娘分と云う地位へ復《かえ》る事が出来ますから、私は自分の権利として貴女へ請求するのです」秀子「夫ばかりは出来ません、何と仰有ても出来ません」お浦は言葉を厳重にして「出来ぬとて貴女は此の家の娘分に成れる様に立派な素性では有りません、貴女を置いては此の家が汚れます」秀子「汚れるか汚れぬか夫は阿父様が御存じです、貴女が裁判する事柄で有りません」お浦「イイエ此の裁判は叔父には出来ず、ハイ私の外にする者はないのです、叔父は只管に貴女を昔失った妻の顔に似て居ると云い眼が眩んで居るのですもの」秀子「似て居ようが似て居まいが貴女から故障を云われる道はなく、爾して――」
お浦「イエ、有ります、顔などは何うでも好い、貴女の素性が――」秀子「私の素性を御存じも成さらずに、矢張り古山お酉と云う以前の此の家の奉公人だと仰有るのですか、猶篤と高輪田さんとやらに見究めて戴くがお宜しいでしょう」お浦「ハイ高輪田さんはお紺婆の殺される頃まで仲働きお酉や養女お夏などと一緒に此の家に居たのですが、不幸にして貴女を見破る事が出来なんだのです、けれど貴女の身に就いて、猶恐ろしい疑いを抱き、貴女の左の手を包んで居る其の異様な手袋を取りさえすれば必ず分ると云って居ます、ナニ高輪田さんより私が見究めて上げますよ」と云って、余の察する所では、出し抜けに秀子の左の手へ飛び附き、手首を捕えて其の手袋を引き抜こうとしたらしい、秀子「余り乱暴な事をなさる」お浦「ナニ乱暴も何も有りません」と云って、何だか組み打ちでも始めた様に、暫し床板を踏み鳴らす音が聞こえる、余はお浦の憎さに堪えぬ、起って行って叩き殺し度いほどにも思うが、身動きさえも叶わぬから如何ともする事が出来ぬ、併し組み打ちも少しの間で、何しろ不意を襲うた事とてお浦の勝利に帰したと見え、お浦は「オー抜き取った、貴女の秘密は此の手に在ります」と勝ち誇る様に叫んだが、此の手とは定めし秀子の左の手の事で有ろう、秀子の左の手に何の秘密が有ったか知らぬがお浦は其の秘密に一方ならず驚いた様子で又一声「オオ恐ろしい、恐ろしい、此の様な此の様な」と云ったまま、後の語を発し得ぬ。
第三十一回 悔むとも帰らぬ目
秀子の左の手の手袋の下に何が隠れて居たであろう、お浦は何の様な秘密を見たのであろう、余は実に怪しさの想いに堪えぬ。
暫くしてお浦は全く敵を我が手の中に取り押えたと云う口調で「此の秘密を見届けたからは秀子さん貴女は最う死骸も同様です、私に抵抗する事も出来ず、イイエ娘分として此の家に居る事さえ出来ますまい、何れ緩々《ゆるゆる》と叔父にも道さんにも此の秘密を話して驚かせて遣りましょう」と憎々しく云うた、秀子は必死の声で「ハイ話すに話されぬ様にして上げます」と云って、遽しく室の中を馳せ廻る様子だ、何の為かと思ったら全く室の出口出口の戸を悉く閉め切ってお浦を此の室より外へ出さぬ為であった、総ての戸に或いは錠を卸し或いは閂木《かんぬき》を施すなどの音が聞こえた、頓て秀子は「サア是で出たくとも出られません」お浦「貴女の出る時に一緒に出て行く迄の事です」秀子「一緒には出しません。此の秘密を見られた上は、貴女が決して口外せぬと云う誓いを立てねば」お浦「其の様な誓いが立てられますものか、私は口外せずには居られません」秀子は物凄いほど熱心な声と為って「貴女が口外なさらずとも、私は自分の密旨を果しさえすれば自分から誰にでも知らせます、それ迄の所は何の様な事をしてでも貴女の口を留めて了います、サア私が言葉を授けますから其の言葉通りにお誓い為さい、誓いなされなければ幾等破ろうとて破る事が出来ません、破れば生涯貴女の身に恐ろしい不幸が絶えません」秀子が何の様にして居るかは知らぬが、お浦は聊か恐れを催した様子で「戸を開けて下さい、私を出して下さい」秀子「出して上げるのは誓いを立てた上ですよ、誓いますか誓いませぬか、今誓わねば、未来永久幾等貴女が後悔しても到底帰らぬ目に遭わせますよ」
未来永久、悔んでも帰らぬ目とは何の様な目に遭わせる積りだろう、茲で殺すぞと云う様な意味にも聞こえる、孰れにしても余の身体が自由でさえあればと、余は心の中で地団駄踏むほどに悶くけれど仕方がない、只紙一重を隔てられて何うしても其の紙を破る事の出来ぬ様な気がする、実に情けない、お浦は一声「其の鍵をお渡し成さい」と叫んだが直ちに秀子に飛び附いた様子だ、再び組み打ちの音が聞こえる、何方が勝つかは分らぬが双方とも必死と見える、頓て一方は、足を踏み辷らせた様子で「アッ」と云って床の上に倒れた、其の声は確かにお浦の方であった。
余は此のとき、悶きに悶いて、辛《や》っと半分起き上って、前へ踏み出そうとしたが足に少しも力が無く、直ちにドシンと倒れて了った、倒れる拍子に、初めて「ウーン」と云う呻きの声が口から洩れたが、其のまま気が遠くなって了った。
極めて少しの間ではあるが、自分と世間とが遠く遠く離れるかと思った、死んで魂魄《たましい》が身体から離れるは此の様な気持ではあるまいか、併し余の呻き声に、直ちに秀子が駈け附けたと見え「丸部さん丸部さん、オヤ先ア傍腹を刺されたと見え、此の血は、オオ恐ろしい何者が貴方を此の様な目に遭わせました」と驚く声が幽かに聞こえた。
少しは身体の痺れが薄らいだか、此の声で目を開く事も出来た、聊かながら声を出す事も出来た、余「オヽ秀子さんですか」と云う中にも秀子の左の手に何の様な秘密が有るか知らんと、見ぬ振りで見た、けれど秀子は手巾《はんけち》で巧みに左の手先を隠していて分らぬ、此の様な隙でも斯う用心する程ゆえ、お浦に見られて必死に成ったのも無理はない、次に余の口から発した言葉は「お浦は何うしました」と云う問いであった、秀子は気が附いた様に「オヽ私より浦子さんが当然介抱なさらねばならぬ方です」と云って、更に今喧嘩をした室に向い「浦子さん、浦子さん、丸部さんのお声が貴女には聞こえませんか、大変ですからサア早く茲へ来て下さい、エ浦子さん丸部さんが呼んで居ますよ」と云えどお浦は何したか返事をせぬ、少しの物音さえもせぬ、秀子は怪しみ「オヤ、私の傍へ来るのがお厭ですか、其の様な場合では有りません」猶もお浦は音沙汰なしだ、秀子「今の喧嘩は私が悪かったから、ヨウ浦子さん、茲へ来て下さいな、私一人では何うする事も出来ません、私の秘密などは最う何うなさろうと貴女の御勝手ですからサア、浦子さん、浦子さん、それほど私の傍へ寄るがお否ならサア今の鍵を上げますから、之を以て戸を開き、早く誰かを呼んで来て下さいな」と云って鍵を次の間へ投げて遣った、けれどお浦は返事をせぬ、秀子は非常に当惑の様子で「本統に仕ようがない事ネエ、此のままで丸部さんをお置き申せば益々血が出て何の様な事に成るも知れず、早く寝台へでもお移し申して充分の手当をせねば、と申して私の力では貴方を抱き上げて行く事も出来ませず」とて、途方に呉れて四辺を見廻した上「では私が行って誰かを呼んで来ましょう」と云い、其の辺の卓子に掛って居た獣の皮を取って巻き、それを枕として余の身体を穏やかな位置に直し、爾して自分で立って行ったが、其の巧者な塩梅は専門の看護婦にも劣らぬ程だ。
余の居直った所から次の室の出口は一直線に見える、余は秀子が何うするかと見て居ると、今投げた鍵を拾い上げて、室の中を見廻し「先ア浦子さんも余り子供らしいでは有りませんか、此の様な場合に何所かへ隠れてお了い成さってサ」と云い捨て、其の鍵で戸を開けて出て行った、余は其の後で何もお浦に来て貰い度くはないけれど、或いは介抱に来るかと思い、絶えず次の室を見て居たけれど遂に遣って来ぬ、去ればとて秀子が開け放して行った出口から出で去る様子もない、扨は日頃の捻けた了見で又も何事をか企んで居るのかと思ううちに、秀子が二人の下部を連れて帰って来て「オヤ浦子さんは私の後でも未だ貴方のお傍へ来ませんか」と云いつつ余の傍へ跼《ひざま》ずいた、余は二人の下部に余の身に手を着けるより前に先ず次の間でお浦を探して引き出して来いと命じたが、下部は怪しみつつ捜した、隅から隅まで凡そ人の隠れるに足る物影は悉く捜した様子だけれど、お浦は居ぬ、全く蒸発でもして了ったかと云うほどにお浦其の者がなくなった、跡方もなく消えるとは此の事だろう、或いは秀子が、悔むとも帰らぬ目に逢わせると云ったのが此の事では有るまいか、何の様な手段かは知らぬがお浦の身体を揉み消したではなかろうか、併し其の様な事をする暇もなかった。
第三十二回 専門の刺客
余は直ちに、二人の下部に舁《かつ》がれて此の室から運び去られた。
余の怪我と聞いて、頓て叔父を初め大勢の人も馳け附けた、叔父は取り敢えず余を一番近い寝間へ寝かせようと云ったけれど、余は矢張り塔の四階に在る余の寝間へ連れて行って貰い度いと言い張った、怪我人の癖に塔の四階とは不便だけれど、余は兼ねて秀子に約束し、必ず塔の四階に寝ると云ってあるから、其の約束を守る積りだ、四階に寝て居れば又何の様な怪しい、寧ろ面白い事があるかも知れぬ。
間もなく余は塔の四階へ舁ぎ上げられたが、何となく気に掛かるは、お浦の消えて了った一条だ、幾等考えてもアノ室より外へ出た筈はなく室の中で消えたに違いないけれど、人一人が燈火の様に吹き消される筈はないから、或いは何う云う事でアノ室を抜け出て鳥巣庵へ帰ったかも知れぬ、念の為だから鳥巣庵へ人を遣って見ねば成らぬと思い、叔父に其の事を頼んだ所、叔父は、「何も茲へお浦が来るには及ぶまい」と云ったけれど又思い直したか、
「爾だ、医者の所へ遣る使いの者に、帰りに鳥巣庵へ寄る様に言い附けよう」と、斯う云って下へ降りた。
三十分ほどを経て、其の使いは帰って来たが、お浦は未だ鳥巣庵へも帰って居らぬと云う事だ、余は熟々《つくづく》と考えたが実に奇妙だ、何うして消えたのか到底想像する事も出来ぬ、併し明日にもなれば現われて来るかも知れぬ、ナニ現われて来ずとも少しも構いはせぬ、あの様な横着な女を寧ろ是きり現われて来ぬ方が幸いかも知れぬけれど、若し現われて来れば何うしてアノ室で身を掻き消したかと云う次第が分る、お浦に逢い度くはないが其の次第だけ知り度い。
併し猶能く考えて見ると、お浦の紛失よりも余の怪我の方が一入不思議だ、アノ室にはアノ時余の外に誰も居なんだ、今思うと刺される前に余の背後で微かな物音が聞こえたかとも思うけれど、刺された後で逃げ去る人の姿さえ見えなんだ、宛《あたか》も壁から剣が出た様に思った、果して壁から剣が出れば剣の出る丈の穴が壁になくては成らぬけれど無論其の様な穴はない、爾すれば余を刺したのは目に見えぬ幽霊の仕業か知らん、昔から奇談は多いが、目に見えぬ一物に刺されたと云う事は聞かぬ、既に是だけの不思議な事が有って見ればお浦の身体が消えたのも怪しむには足らぬ。
其のうちに叔父は医師と共に又上がって来た。医師の診断に由ると、余の傷は剃刀よりも薄い非常に鋭利な両刃の兇器で刺したのだと云
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