ますまい、シタが余ほどのお怪我ですか」夫人「大した事も有りませんが痛みが劇《はげ》しいのです、痛みさえなくなれば、医者にも及びませぬけれど」成るほど見れば右の手へ繃帯を施して居る。
是から数日の間、夫人は一室へ籠った儘だ、何でも狐猿の爪の毒に中《あて》られたとか云う事で、益々容体が悪い様子だ、兎に角も此の家の客分だから、余は知らぬ顔で居る訳に行かず、或る時其の室へ見舞いに行った、夫人は非常に喜んだけれど、起き直る程の力はない、床の中から痛くない片手を出し余を拝む様にして「好く来て下さった、貴方に折り入ってお願いが有りますが、病人の頼みだと思い何うか聞き入れて下されませんか」何の頼みだか、来る勿々に此の様に言われるは少し意外で有る、それに余は彼の贋電報で此の夫人の仕業と分って以来、甚だ此の夫人を好まぬけれど、身動きも出来兼ねる病人の頼みを無下に斥ける訳にも行かず「ハイ何なりと聞き入れて上げましょう」夫人「では申しますが、其所に、ソレ掛かって居る私の着物の衣嚢《かくし》に大切な品物が入れて有りますから、貴方は何うか中を見ずに、其の衣嚢を裏から握り爾して破り取って下さいまし」実に異様な頼みかな、衣嚢の中の品物か衣嚢ぐるみに※[#「※」は「てへん+劣」、読みは「むし」、62−上13]《むし》り取って呉れとは、今まで聞いた事もない。
嫌な仕事だとは思ったが、一旦男が承知した事だから怯《ひる》みも成らず、立って行って壁に掛けた着物を取り、言葉の通りに其の裏から衣嚢を握って引き※[#「※」は「てへん+劣」、62−上17]《むし》り、爾して夫人の傍へ持って行くと、夫人は又も枕許の手文庫を指し「其の中に小さい箱が有りますから箱の中へ其の衣嚢を入れ、封をして、私の言う宛名を認め、そうして何うか小包郵便に出して下さる様に願います」益々厄介な事を云うが、詮方なく其の通りにして、余「宛名は」夫人「ハイ申しますよ」とて余に書かしめたは「ハント郡、ペイトン市の在にて養蟲園主人穴川甚蔵殿」と云う宛名だ、余は他日何かの参考にも成ろうかと思い其の名を我記憶に留めたが、養蟲園と云えば虫を飼って繁殖させる所であろうが、余り類のない園名である、夫人「何うぞ密《そっ》と差し出して、誰にも云わぬ様に願います」余は此の夫人の秘密に与るのは厭で厭でならぬけれど、詮方なく其の言葉に従い、自分で郵便にまで托して遣ったが、衣嚢の中の品物は何であろう、怪しむまいと思っても何うも怪しい。
郵便に差し出して家に帰ると又も廊下で彼の医者に逢った、余は一礼して「先生、何うも狐猿の毒は恐ろしい者ですネエ」医者は合点の行かぬ顔で「エ、狐猿とは」余「貴方に掛かって居ます虎井夫人の怪我の事です」医者「アア、あれですか、あれは何でも古釘で引っ掻いた者です、錆びた鉄物《かなもの》の傷は何うかすると甚く禍いを遺します」余は唯「爾ですか」と調子を合わせて分れたけれど深く心を動かした、果して錆びた釘か何ぞで引っ掻いたものならば、何故虎井夫人が狐猿に引っ掻れたなどと言って居るのだろう、若しや先きの夜、余の寝床へ血を落したのは此の夫人では有るまいか、画板の間から手を出したとすれば古釘に引っ掻れる事は随分ある、オヤ、オヤ、爾するとアノ衣嚢の中に在った品は、秀子の盗まれたと云う手帳では有るまいか、今更疑っても既に遅い、イヤイヤ必ずしも遅くはない、必要となれば養蟲園穴川と云う家を尋ねて行っても好いのだ。
第二十九回 壁の中から剣
若し此の翌日、恐ろしい一事件が起らなんだら、余は必ず養蟲園へ行き、穴川甚蔵と云う者が何の様な男かを見届けた上で少しでも怪しむ可き所があれば、第一に秀子に話して虎井夫人が此の甚蔵に送った小包が果して秀子の盗まれた手帳であるや否や究めねばならぬ。
併し養蟲園へ行く前に、一応調べて見たいのは狐猿の爪に果して毒があるや否やの一条だ、若し毒が有って、之に引っ掻れたなら古釘で傷つけられたと同様の害を為すと云う事でも分れば、虎井夫人に対する余の疑いは大いに弱くなる。
余の書斎には斯る事を調べる丈の参考書はないけれど当丸部家の書斎には必ずある、尤も引越※[#「※」は「つつみがまえの中に夕」、読みは「そう」、64−上6]々で未だ書斎は整理して居ぬ、けれど其の室だけは定《きま》って居て、既に本箱などをヤタラに投げ込んである、其の室は昔此の家の主人が自分の居室にする為に建てたので、相変らず内部に様々の秘密な構造が有ると言い伝えられて居る、此の言い伝えさえなくば叔父が自分の居室とする所で有ったが叔父は秘密などのある室は否だとて到頭書斎に充《あ》てたのだ、室の内部は三所に仕切って有って書斎には余り都合が好くないけれど仲々立派な普請である。
余が此の室へ入ろうとする時、室の中に人声が有って、戸を開くと、同時に、余の耳へ「ナニ私の心を疑う事は有りませんよ、安心の者ですよ」との言葉が聞こえ、一方の窓の外から庭へ走り去る人の姿がチラリと見えた、少し怪しんで中へ入ると窓に靠《もた》れてお浦が居る、余「オヤ浦原さん何うして茲に」お浦「貴方に逢い度いと思いまして、ハイ多分貴方が此の室で書見でもして居らっしゃるだろうと考えましたから」余「でも戸の閉めてある室へ何うして這入る事が出来ました」お浦「私は鳥巣庵から庭伝いに茲へ来て、爾して此の窓から入りました」成るほど窓から入られぬ事はない、余「今茲で貴女と話をして居たのは誰ですか」お浦「誰も話などは仕て居ませんよ、ああ分った、私が独言を仕て居たから貴方は其の声をお聞き成さったのでしょう」余「イエ、人の立ち去る姿がチラリと見えた様に思います」お浦は正面からは返事せず、唯「小さい時から私が物を考えるに独言を云う事は貴方が能く御存じでは有りませんか」と胡魔化した、勿論たって問い詰める程の事でないから余も敢えて争わずに止めた。
余「シタが、私に逢いに来たと云う其の御用事は」お浦「折入ってお詫びに来たのです、先ア其の様な恐い顔をせずと、何うか憐れと思ってお聞き下さい」と余ほど打ち萎れた様で余を一方の隅へ連れ行きて腰を卸させ、自分も坐を占めて、直ちに余の両手を握り「済みませんが道さん、何うぞ昔の約束に返って下さい」余「エ、昔の約束とは」お浦「貴方と私は末は夫婦と云う約束で育てられたでは有りませんか」余が驚いて只一言に断ろうとするを推し留め「先ア否だなどと仰有らずに聞いて下さい。少しも貴方を愛せぬなどと言い切って私はアノ約束を取り消し、爾して外国へ立ち去りましたけれど、アレは貴方が素性も知れぬ松谷秀子に心を寄せて居る様に思いましたから嫉妬の余りに云うた事です、外国へ行って居ると益々貴方が恋しくなり、今では後悔に堪えません、夫に此の家の養女で居る時は、何処へ出ても人から大騒ぎをせられましたが、今では誰も構い附けて呉れず、実に残念に堪えません、今までは我儘ばかりでお気に入らぬ事も有りましたろうが、是からは心を入替え、貴方の為ばかりを考えますから、何うぞアノ約束の取り消しを取り消して下さいな、ネエ、道さん」と余の顔を差し窺いたが、余は余りズウズウしいに呆れ、容易には返辞も出ぬ、お浦「道さん、お返事は出来ませんか」余「イエ返事は出来ますけれど貴女の望む様な返事は出来ません」お浦は恨めしげに「私は、斯まで貴方に嫌われる様な厭な女でしょうかネエ、あの高輪田さんなどは、私の外に女はない様に云い蒼蝿《うるさ》く縁談を言い込みますのに」余「夫は爾でしょうとも、貴女は立派な美人ですもの、余所へ心の傾いて居ぬ人なら必ず貴女に心を寄せますよ」お浦は忽ちに怒って立ち上り「分りました、余所へ心の傾いて居ぬ内なら承知も仕ようが己は最う松谷秀子を愛して居るからお前の言葉は聴き入られぬと、斯う仰有るのですね」余「そう云うのとも違いますけどナニそうお取り成さっても大した間違いは有りません」お浦は大声に「エ、悔しい、あの怪美人めが人の所天《おっと》を偸んで了った」と叫び、身を掻きむしる様にして、悶き悶き窓の許へ走って行って、窓から外へ飛び出して庭の面を遠く、堀の方へ馳せ去った、定めし身を投げるかの様に見せ掛けて、余に走り出させて留めさせ度いと云う狂言だろうが、今まで散々お浦の狂言に載せられた余だもの、最う其の手を喰うものか、余は邪魔者を追っ払った気で其のまま次の室へ入り、散らホって居る本箱の間を潜り、先ず壁の際に在るのから順に調べる積りで、但《と》ある本箱の横手へ蹐《しゃがん》だが、此の時壁の中からでも剣が突き出た様に、忽ち余の傍腹を斜めに背後の方から衝《つき》刺したものがある、余は咄嗟の間にそうまでも思い得なんだけれど不意に傍腹へ鋭い痛みを感じ、其の所へノメッて了った、傷は爾まで甚いとも思わぬけれど、切口は宛で火の燃る様に熱く痛い、爾して殊に奇妙なは、助けを呼び度くも声が出ぬ、傷口を押え度くても手が動かぬ、手ばかりでなく足も胴もイヤ身体じゅう一切の感じが麻痺したと見え、倒れたままで少しの身動きさえも出来ぬ。
第三十回 此の様な、此の様な
余は何故に、何者に、斯くは刺されたのであろう、是既に容易ならぬ疑問であるが、是よりも猶怪しいは余が創《きず》の小さい割合に痛みが強く、爾して其の痛みの為に全身が痺《しび》れて了った一事である。人の身体が、斯も痺れる者とは今まで思い寄らなんだ、声の出ぬのは勿論の事、瞼までも痺れて仕舞い目を開き度くとも開く力さえなく、強いて開こうとしても瞼が直ぐに弛く垂れて眼を蔽うて了い、唯|辛《ようや》くに糸ほど細く開いた間から外の明りを見るに過ぎぬ。
曾て或る書物で読んだ事がある、印度の或る部落に住む土人が妙な草の葉を搾《しぼ》り其の汁を以て痺れ薬を製するが、之を刃に附けて人を刺せば傷口は火の燃える様に熱く、爾して全身は痺れて了う、若し水に混ぜて此の薬を半グラムも飲めば殆ど何の痕跡をも止めずに死んで了う、数年前迄は医者さえも此の薬で毒殺せられた死骸を検査して毒殺と看破する事は出来なんだと云う事だ、印度の土人は此の草を「悪魔の舌」と呼ぶ相だ、何となく気味の悪い名前である、若しや余の刺された兇器にも此の草の汁を塗ってあったではなかろうか、爾なくば創口の痛みと全身の痺れ工合が到底説明する事が出来ぬ、誰にもせよ斯る危険な毒薬を持った者が此の辺に出没するとせば、見|遁《のが》して置かれぬ訳だ。
併し余は耳も聞こえる、心も全く確かである、誰か来て助けて呉れれば好いと只管心に祈って居ると、次の室へ誰だか庭の方から這入って来た、直ぐ話声で分ったがお浦と秀子と二人である、何の為に来たのであろう、それも二人の話で分る、秀子「浦原さん、貴女は道九郎さんがお出でだと仰有ったが、茲には見えぬでは有りませんか」お浦「確かに居ましたが、何所へか行きましたか」秀子「貴女は道九郎さんの前で私に話したい事があると仰有ったけれど、アノ方がお出でなければ其のお話とやらも出来ますまい」と、云って秀子は立ち去ろうとする様子だ、お浦「イイエ、お待ちなさい、道九郎さんが居なくとも話して置きましょう」秀子「何のお話か知りませんが成る可く言葉短かに願います」
双方何となく殺気を帯びて居る、お浦「ハイ言葉短かに言いますが、私と道さんとが、夫婦になる筈であったのを御存じでしょう」秀子「道さんとは道九郎さんの事ですか、夫ならばハイ聞いて知って居ます」お浦「貴女が其の仲を割いたのは実に――」秀子「怪しからぬ事を仰有る」お浦「イエ、貴女が御自分で道さんの妻になり度い為道さんを迷わせたのは私共の仲を割いたも同じ事です」秀子「私は道九郎さんの妻になり度いなどと其の様な心を起した事は有りません、殊にアノ方を迷わせるなどと余り甚いお疑いです」
お浦「夫なら貴女は道さんの前へ出て「丸部さん決して貴方の妻に成る事は出来ません」と言い切りますか」秀子「ハイ言い切ります、けれどアノ方が私へ妻に成れとも何とも仰有らぬに、私から其の様な事を云うとは余り可笑しいでは有りませんか」お浦「唯云えば可笑しいでしょうが私と一緒に道さんの前へ行き、爾して私が道さ
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