薄気味の悪い室ではない、若し虚心平気で寝たならば随分眠られようと思うけれど、余は此の夜虚心平気でないと見え熟くは眠られぬ、殆ど夢と現《うつつ》との境で凡そ三十分も居たかと思うが、何やら余り大きくはないが物音がしたと思って目が覚めた、枕頭の蝋燭も早や消えて、何の音で有ったか更に当りが附かぬけれど、暗《やみ》の中に眸《ひとみ》を定めて見ると、影の様な者が壁に添うて徐々動いて居る様だ、ア、之が此の塔の幽霊か知らんと一時は聊か肝を冷した。
 が余は幽霊などを信じ得ぬ教育を受けた男ゆえ、自分の目の所為とは思ったけれど念の為|燐燵《まっち》を手探りに捜し、火を摺って見た、能くは見えぬが何も居ぬらしい、唯燐燵の消え掛った時に壁の中程に在る画板《ぱねる》の間から人の手の様な者が出て居るかと思った、勿論薄ぐらい所では木の株が人の頭に見えたり、脱ぎ捨てた着物が死骸に見えたりする事が好く有る奴だから、朝に成って見直せば定めし詰まらぬ事だろうと思い直して其のまま再び寝て十分も立つか立たぬうち又物音が聞こえた、今度は確かに聞き取ったが、サラサラと壁に障って何物かが動いて居る音である。
 茲で一寸と此の室の大体を
前へ 次へ
全534ページ中117ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
黒岩 涙香 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング