が好い(大)イエ名前を先《さき》云《いっ》て仕舞ては貴方が終りまで聞《きか》ぬから了《いけ》ません先ずお聞なさい、今度は傷の事から申します、第一はアノ背中に在る刃物の傷ですが是は怪《あやし》むに足りません、大抵人殺は刃物が多いから先ず当前《あたりまえ》の事と見逃して扨て不審儀《ふしぎ》なのは脳天の傷です、医者は槌で叩いたと云いますし、谷間田は其前に頭挿《かんざし》でゞも突ただろうかと怪んで居ますが両方とも間違いです、何より前《さき》に丸く凹込《めりこ》んで居る所に眼を留《とめ》ねば成ません、槌で叩たなら頭が砕けるにもしろ必ず膨揚《はれあが》ります決して何日《いつ》までも凹込んで居ると云う筈は無い、夫《それ》だのにアノ傷が実際凹込んで居るのは何《ど》う云う訳でしょう、是は外でも無いアレ丈の丸い者が頭へ当って当ッた儘で四五分間も其所を圧附《おしつけ》て居たのです、其中に命は無くなるし血は出て仕舞い膨上《はれあが》るだけの精が無く成《なっ》た、サア精の無く成た後で其丸い者を取たから凹込切《めりこみぎり》に成たのです、夫なら其丸の者は何か、何うして爾《そう》長い間頭を圧附けて居たのか是が一寸《ちょっ》と合点の行きにくい箇条、併しナニ考えれば訳も無い事です、其説明は先ず論理学の帰納法に従って仮定説から先に言《いわ》ねば分らぬ、此闘いは支那人の家の高い二階ですぜ、一方が逃る所を背後《うしろ》から二刀《ふたかたな》三刀追打に浴せ掛たが、静かに坐って居るのと違い何分にも旨《よ》く切れぬ夫《それ》だから背中に縦の傷が幾個《いくつ》も有る一方は逃げ一方は追う内に梯子段の所まで追詰た、斯うなると死物狂い、窮鼠却て猫を食《は》むの譬えで振向いて頭の髪を取《とろ》うとした、所が悲しい事には支那人の頭は前の方を剃《すっ》て居るから旨く届かぬ僅に指先で四五本|握《つかん》だが其中に早や支那人の長い爪で咽笛《のどぶえ》をグッと握まれ且つ眉間を一ツ切砕《きりくだ》かれウンと云って仰向に脊《うしろ》へ倒れる、機《はず》みに四五本の毛は指に掛った儘で抜けスラ/\と尻尾の様な紐が障《さわ》る其|途炭《とたん》入毛だけは根が無いから訳も無く抜けて手に掛る。倒れた下は梯子段ゆえドシン/\と頭から背《せな》から腰の辺《あたり》を強く叩きながら頭が先に成《なっ》て転げ落《おち》る、落た下に丁度丸い物が有《あっ》たから其上へヅシンと頭を突く、身体の重サと落て来る勢いでメリ/\と凹込《めりこ》む、上から血眼で降《おり》て来て抱起すまでには幾等《いくら》かの手間が有る其中に血が尽きて、膨上《ふくれあが》るだけの勢が消《きえ》たのです、背中から腰へ掛け紫色に叩かれた痕や擦剥《すりむい》た傷の有るのは梯子段の所為《せい》、頭の凹込は丸い物の仕業、決して殺した支那人が自分の手で斯う無惨な事をしたのでは有《あり》ません、何うです、是でも未だ分りませんか(荻)フム仲々感心だ、当る当らんは扨置いて初心の貴公が斯う詳しく意見を立《たて》るは兎に角感心する、けれど其丸い者と云うのは何だえ(大)色々と考えましたが外の品では有ません童子《こども》の旋《まわ》す独楽《こま》であります、独楽だから鉄の心棒が斜に上へ向《むかっ》て居ました其証拠は錐を叩き込だ様な深い穴が凹込の真中に有ます(荻)併し頭が其心棒の穴から砕《くだけ》る筈だのに(大)イヤ彼《あ》の頭は独楽の為に砕《くだけ》たのでは無く其実、下まで落着かぬ前に梯子の段で砕けたのです独楽は唯アノ凹込を拵えただけの事です(荻)フム成る程|爾《そう》かなア(大)全く爾です既に独楽が有たとして見れば此支那人には七八歳以上十二三以下の児《こ》が有ます(荻)成る程爾だ(大)此証拠は是だけで先ず留《とめ》て置きまして再び髪の毛の事へ帰ります、私しは初め天然の縮毛で無い事を知《しっ》た時、猶お念の為め湯気で伸して見ようと思い此一本を鉄瓶の口へ当《あて》て、出る湯気にかざしました、すると意外千万な発明をしたのです実は罪人の名前まで分ったと云うも全く其発明の鴻恩です、其発明さえ無けりゃ何《ど》うして貴方、名前まで分りますものか」荻沢も今は熱心に聞く事と為り少し迫込《せきこ》みて「何《ど》、何う云う発明だ(大)斯《こう》です鉄瓶の口へ当ると此毛から黒い汁が出ました、ハテなと思い能々《よく/\》見ると、何うでしょう貴方、此毛は実は白髪《しらが》ですぜ白髪を此様に染めたのですぜ、染てから一週間も経つと見え其間《そのあいだ》に五厘ばかり延びてコレ根の方は延びた丈け又白髪に成て居ます(荻)成る程白髪だ、熟《よ》く見れば白髪を染《そめ》た者だ、シテ見ると老人だナ(大)ハイ私しも初めは老人と見込を附《つけ》ましたが猶お考え直して見ると第一老人は身体も衰え、従っては一切の情慾が弱くなり其代り堪弁《かんべん》と云う者が強く為《なっ》て居《おり》ますから人を殺すほどの立腹は致しませず好《よし》や立腹した所で力が足らぬから若い者を室中《へやじゅう》追廻《おいまわ》る事は出来ません(荻)夫《それ》も爾《そう》だな(大)爾ですから是は左ほどの老人では有りません随分四十に足らぬ中に白髪ばかりに成る人は有ますよ是も其類です、年が若く無ければアノ吝嗇《しわんぼう》な支那人ですもの何うして白髪を染めますものか、年に似合ず白髪が有て能《よ》く/\見ッとも無いから止《やむ》を得ず染たのです(荻)是は感服だ実に感服(大)サア是から後は直《じき》に分りましょう支那人の中で独楽を弄ぶ位の子供が有《あっ》て、年に似合わず白髪が有て、夫で其白髪を染て居る、此様な支那人は決して二人とは有ません(荻)爾《そう》とも/\、だが君は兼て其支那人を知て居たのだな(大)イエ知りません全く髪の毛で推理したのです(荻)でも髪の毛で名前の分る筈が無い(大)ハイ髪の毛ばかりでは分りません名前は又外に計略を廻らせたのです(荻)何《ど》の様な計略を(大)イヤ夫《それ》が話しの種ですから、夫を申上る前に先ず貴方に聞て置く事が有ります今まで私しの説明した所に何か不審は有ませんか、若し有れば夫を残らず説明した上で無ければ其計略と其名前は申されません(荻)爾かな今までの所には別に不審も無いがイヤ待て己は此人殺しの原因が分らぬテ谷間田の云う通り喧嘩から起った事か夫《それ》とも又―(大)イヤ喧嘩では有ません全く遺恨です、遺恨に相違ありません谷間田はアノ、傷の沢山有ると云う一点に目が暗《くれ》て第一に大勢で殺したと考えたから夫が間違いの初です成る程、大勢で附けた傷とすれば喧嘩と云うより外に説明の仕ようが有りません、併し是は決して大勢では無く今も云う通り当人が、逃廻ったのと梯子段から落た為に様々の傷が附たのです矢張り一人と一人の闘いです一ツも大勢を対手と云う証拠は有ません(荻)併し遺恨と云う証拠は(大)其証拠が仲々|入組《いりくん》だ議論です気永くお聞《きゝ》を願います尤《もっ》とも是ばかりは私しにも充分には分りません唯遺恨と云う事丈が分ったので其外の詳しい所は到底本人に聞く外は仕方が有ません、先ず其遺恨と云う丈の道理を申しましょう」とて掌裏《てのひら》にて汗を拭いたり
大鞆は一汗拭いて言葉を続け「第一に目を附け可き所は殺された男が一ツも所持品を持て居無《いな》い一条です、貴方を初め大概の人が是は殺した奴が露見を防ぐ為めに奪い隠して仕舞ッたのだと申ますが決して爾《そう》では有りません、若し夫《それ》ほど抜目なく気の附く曲者なら自分の髪の毛を握られて居る事にも必ず気が附く筈です然るに髪の毛に気が附かず其儘握らせて有たのは唯|最《も》う死骸さえ捨れば好いとドギマギして死骸を担ぎ出したのです(荻)フム爾だ所持品を隠す位なら成る程髪の毛も取捨る筈だシテ見ると初《はじめ》から持物は持て居無《いなか》ったのかナ(大)イエ爾でも有ません持て居たのです、極々下等の衣服《みなり》でも有ませんから財布か紙入の類は是非持て居たのです(荻)併し夫は君の想像だろう(大)何うして想像では有ません演繹法《えんえきほう》の推理です、好《よ》し又紙入を持ぬにしても煙草入は是非持て居ました彼れは非常な煙草好ですから(荻)夫《それ》が何《どう》にして分る(大)夫は誰にも分る事です私しは死骸の口を引開て歯の裏を見ましたが煙脂《やに》で真黒に染って居ます何《ど》うしても余程の烟草|好《ずき》です煙草入を持て居ない筈は有ません、是が書生上りとか何《なん》とか云うなら随分お先煙草《さきたばこ》と云う事も有ますけれど彼れは爾で有ません、安物ながら博多の帯でも〆《しめ》て居れば是非|最《も》う腰の廻りに煙草入が有る者です(荻)夫《それ》なら其煙草入や財布|抔《など》が何うして無《なく》なッた(大)夫が遺恨だから無《なく》なったのです遺恨とせねば外に説明の仕様が有ません、遺恨も唯の遺恨では無い自分の身に恨《うらま》れる様な悪い事が有て常に先の奴を恐れて居たのです、何でも私しの考えでは彼れ余程|緩《ゆっ》くりして紙入も取出し煙草入も傍に置き、打寛ろいで誰かと話でも仕て居たのです其所へ不意に恐しい奴が遣《やっ》て来た者だから取る者も取合えず逃出したのです夫だから持物は何も無いのです(荻)而し夫だけでは何うも充分の道理とも思われんが(大)何故充分と思われません第一背の傷が逃た証拠です自分の身に悪い覚えが無くて何故逃ます、必ず逃る丈の悪い事が有る柄《から》です、既に悪い事があれば恨まれるのは当前《あたりまえ》です、自分でさえ悪いと思って逃出す程の事柄を先方が恨まぬ筈は有ません(荻)夫《それ》は爾《そう》だ、左すれは貴公の鑑定では先ず奸夫《まおとこ》と見たのだナ奸夫《かんぷ》が奸婦と密《しの》び逢て話しでも仕て居る所へ本統の所夫《おっと》の不意に帰って来たとか云う様な訳柄《わけがら》で(大)爾です全く爾です、私しも初から奸夫《まおとこ》に違い無いと目を附けて居りましたが誠の罪人が分ってから初て奸夫では無かったのかナと疑いを起す事に成りました(荻)夫《それ》は何う云う訳で(大)別に深い訳とても有ませんが実《まこと》の罪人は妻が無いのです夫《それ》は後で分りました(荻)併し独楽を廻す位の子が有れば妻が有る筈だが(大)イエ、夫《それ》でも妻は無いのです或は昔し有たけれど死だのか離縁したのか、殊に又其の子と云うのも貰い子だと申します(荻)貰い子か夫《それ》なら妻の無いのも無理ではないが、併し―若し又|羅紗緬《らしゃめん》でも有はせんか(大)私しも爾《そう》思って其所《そこ》も探りましたが、兎に角自分の宅《うち》には羅紗緬類似の女は一人も居ません(荻)イヤサ家に居無くとも外へ囲《かこ》って有れば同じ事では無いか(大)イエ外へ囲って有れば決して此通りの犯罪は出来ません何故と云《いう》に先《まず》外妾《かこいもの》ならば其|密夫《みっぷ》と何所で逢います(荻)何所とも極らぬけれど爾《そう》サ、先ず待合其他の曖昧な家か或は其《その》囲《かこ》われて居る自分の家だナ(大)サ夫だから囲い者で無いと云うのです、第一、待合とか曖昧の家とか云う所だと是程の人殺しが有《あっ》て御覧なさい、当人達は隠す積《つもり》でも其家の者が黙って居ません、警察へ馳附るとか隣近所を起すとか左も無くば後で警察へ訴えるとか何とか其様な事を致します、ですから他人の家で在った事なら此様な大罪が今まで手掛りの出ぬ筈は有ません(荻)若し其囲われて居る家へ奸夫《まおとこ》を引込で居たとすれば何《ど》うだ(大)爾《そう》すれば論理に叶いません先ず自分の囲われて居る家へ引込む位なら必ず初から用心して戸締を充分に附けて置きます、殊に此犯罪は医者の見立で夜の二時から三時の間と分って居ますから戸締をして有《あっ》た事は重々|確《たしか》です、唯に戸締りばかりでは無い外妾《かこいもの》の腹では不意に旦那が戸を叩けば何所から逃《にが》すと云う事までも前以て見込を附て有るのです夫《それ》位の見込の附く女で無ければ決して我《わが》囲《かこ》われて居る所へ男を引込むなど左
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