無惨
黒岩涙香
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)嚆矢《こうし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)其著書|訳述《やくじゅつ》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「鬟」の「口」の下の部分に代えて「小」、33−17]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おに/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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無惨序
日本探偵小説の嚆矢《こうし》とは此無惨を云うなり無惨とは面白し如何なること柄《がら》を書しものを無惨と云うか是れは此れ当時都新聞の主筆者涙香小史君が得意の怪筆を染め去年築地河岸海軍原に於て人殺《ひとごろし》のありしことを作り設け之れに探偵の事項を附会して著作せし小説なり予《よ》本書を読むに始めに探偵談を設けて夫《それ》より犯罪の事柄に移りお紺と云う一婦人を捜索して証拠人に宛て之れが口供より遂いに犯罪者を知るを得るに至る始末老練の探偵が自慢天狗若年の探偵が理学的論理的を以て一々警部に対《むか》って答弁するごとき皆な意表に出《いで》て人の胆を冷し人の心を寒《さむか》らしむる等実に奇々怪々として読者の心裡を娯《たのし》ましむ此書や涙香君事情ありて予に賜う予印刷して以て発布せしむ世評尤も涙香君の奇筆を喜び之を慕いて其著書|訳述《やくじゅつ》に係る小説とを求めんと欲し続々投書山を為《な》す之をもって之を見れば君が文事に於ける亦《ま》た羨むべし嗚呼《あゝ》涙香君は如何なる才を持て筆を採るや如何なる技を持って小説を作るや余は敢て知らず知らざる故《ゆえ》に之れを慕う慕うと雖《いえど》も亦た及ばず是れ即ち天賦《てんぷ》の文才にして到底追慕するも亦画餠に属すればなりと予は筆を投じて嗟嘆《さたん》して止みぬ
[#天から2字下げ]明治廿二年十月中旬
[#天から4字下げ]香夢楼に坐して梅廼家かほる識《しる》す
[#改ページ]
上篇(疑団《ぎだん》)
世に無惨《むざん》なる話しは数々あれど本年七月五日の朝築地|字《あざな》海軍原の傍らなる川中に投込《なげこみ》ありし死骸ほど無惨なる有様は稀なり書《かく》さえも身の毛|逆立《よだ》つ翌六日府下の各新聞紙皆左の如く記したり
[#ここから2字下げ]
◎無惨の死骸 昨朝六時頃築地三丁目の川中にて発見したる年の頃三十四五歳と見受けらるゝ男の死骸は何者の所為《しわざ》にや総身に数多《あまた》の創傷、数多の擦剥《すりむき》、数多の打傷あり背《せな》などは乱暴に殴打せし者と見え一面に膨揚《はれあが》り其間に切傷ありて傷口開き中より血に染みし肉の見ゆるさえあるに頭部《あたま》には一ヶ所太き錐にて突きたるかと思わるゝ深さ二寸余の穴あり其上|槌《つち》の類にて強く殴打したりと見え頭は二ツに割《さ》け脳骨砕けて脳味噌散乱したる有様実に目も当《あて》られぬ程なり医師の診断に由れば孰《いず》れも午前二三時頃に受けし傷なりと同人の着服《きもの》は紺茶|堅縞《たてじま》の単物《ひとえもの》にて職業も更に見込附かず且つ所持品等は一点もなし其筋の鑑定に拠れば殺害したる者が露見を防がんが為めに殊更奪い隠したる者ならん故に何所《いずこ》の者が何の為めに斯く浅ましき死を遂げしや又殺害したる者は孰れの者か更に知る由なければ目下厳重に探偵中なり(以上は某《それ》の新聞の記事を其儘《そのまゝ》に転載したる者なり)
[#ここで字下げ終わり]
猶《な》お此無惨なる人殺《ひとごろし》に附き其筋の調《しらべ》たる所を聞くに死骸は川中より上げたれど流れ来《きた》りし者には非ず別に溺《おぼ》れ漂いたりと認むる箇条は無く殊に水の来らざる岸の根に捨てゝ有りたり、猶お周辺《あたり》に血の痕の無きを見れば外《ほか》にて殺せし者を舁《かつ》ぎ来りて投込みし者なる可《べ》し又|此所《このところ》より一町ばかり離れし或家の塀に血の附きたる痕あれど之も殺したる所には非ず多分は血に塗《まみ》れたる死骸を舁ぎ来る途中事故ありて暫し其塀に立掛し者なる可し
殺せしは何者か殺されしは何者か更に手掛り無しとは云え七月の炎天、腐敗《くさ》り易き盛りと云い殊《こと》に我国には仏国|巴里府《ぱりふ》ルー、モルグに在《あ》る如き死骸陳列所の設けも無きゆえ何時《いつ》までも此儘《このまゝ》に捨置く可きに非ず、最寄《もより》区役所は取敢《とりあ》えず溺死漂着人と見做《みな》して仮に埋葬し新聞紙へ左の如く広告したり
[#ここから2字下げ]
溺死人男年齢三十歳より四十歳の間|当《とう》二十二年七月五日区内築地三丁目十五番地先川中へ漂着仮埋葬済○人相○顔|面長《おもなが》き方《かた》○口細き方眉黒き方目耳尋常左りの頬に黒|痣《あざ》一ツあり頭《かしら》散髪|身長《みのたけ》五尺三寸位中肉○傷所数知れず其内大傷は眉間に一ヶ所背に截割《たちわり》たる如き切傷二ヶ所且肩より腰の辺りへ掛け総体に打のめされし如く膨上《はれあが》れり左の手に三ヶ所、首に一ヶ所頭の真中に大傷其処此処に擦傷《かすりきず》等数多あり、咽《のど》に攫《つか》み潰せし如き傷○衣類大名縞|単物《ひとえもの》、二タ子唐桟《ことうざん》羽織但紐附、紺博多帯、肉シャツ、下帯、白足袋、駒下駄○持物更に無し○心当りの者は申出ず可し
[#ここで字下げ終わり]
[#天から4字下げ]明治二十二年七月六日
[#天から8字下げ]最寄区役所
[#地から2字上げ](右某新聞より転載)
人殺しは折々あれど斯くも無惨な、斯くも不思議な、斯くも手掛《てがゝり》なき人殺しは其類少し去れば其日一日は到る所ろ此人殺しの噂ならぬは無《なか》りしも都会は噂の種の製造所なり翌日は他の事の噂に口を奪われ全く忘れたる如し独り忘れぬは最寄《もより》警察の刑事巡査なり死骸の露見せし朝の猶お暗き頃より心を此事にのみ委《ゆだ》ね身を此事にのみ使えり、心を委ね身を使えど更に手掛りの無きぞ悲しき
刑事巡査、下世話《げせわ》に謂う探偵、世に是ほど忌《いま》わしき職務は無く又之れほど立派なる職務は無し、忌わしき所を言えば我身の鬼々《おに/\》しき心を隠し友達顔を作りて人に交り、信切顔《しんせつがお》をして其人の秘密を聞き出し其《そ》れを直様《すぐさま》官に売附けて世を渡る、外面《げめん》如菩薩《にょぼさつ》内心|如夜叉《にょやしゃ》とは女に非ず探偵なり、切取強盗人殺牢破りなど云える悪人多からずば其職繁昌せず、悪人を探す為に善人を迄も疑い、見ぬ振をして偸《ぬす》み視《み》、聞かぬ様をして偸み聴《きく》、人を見れば盗坊《どろぼう》と思えちょう恐《おそろし》き誡めを職業の虎の巻とし果は疑うに止《とま》らで、人を見れば盗坊で有れかし罪人で有れかしと祈るにも至るあり、此人|若《も》し謀反人ならば吾れ捕えて我手柄にせん者を、此男若し罪人ならば我れ密告して酒の代《しろ》に有附《ありつか》ん者を、頭に蝋燭は戴《いたゞ》かねど見る人毎を呪うとは恐ろしくも忌わしき職業なり立派と云う所を云えば斯くまで人に憎まるゝを厭わず悪人を看破《みやぶ》りて其種を尽し以て世の人の安きを計る所謂《いわゆる》身を殺して仁を為す者、是ほど立派なる者あらんや
五日の朝八時頃の事最寄警察署の刑事巡査詰所に二人の探偵打語らえり一人は年四十頃デップリと太りて顔には絶えず笑《えみ》を含めり此笑見る人に由りて評《うわさ》を異にし愛嬌ある顔と褒《ほ》めるも有り人を茶《ちゃ》かした顔と貶《そし》るも有り公平の判断は上向けば愛嬌顔、下へ向《むい》ては茶かし顔なる可《べ》し、名前は谷間田《たにまだ》と人に呼ばる紺飛白《こんがすり》の単物《ひとえもの》に博多の角帯、数寄屋《すきや》の羽織は脱ぎて鴨居の帽子掛に釣しあり無論官吏とは見えねど商人とも受取り難し、今一人は年廿五六小作りにして如才《じょさい》なき顔附なり白き棒縞の単物|金巾《かなきん》のヘコ帯、何《ど》う見ても一個の書生なれど茲《ここ》に詰居る所を見れば此頃谷間田の下役に拝命せし者なる可し此男テーブル越《ごし》に谷間田の顔を見上げて「実に不思議だ、何《ど》う云う訳で誰に殺されたか少しも手掛りが無い」谷間田は例の茶かし顔にて「ナニ手掛は有るけれど君の目には入らぬのだ何しろ東京の内で何家《どこ》にか一人足らぬ人が出来たのだから分らぬと云う筈は無い早い譬《たと》えが戸籍帳を借りて来て一人/\調べて廻れば何所にか一人不足して居るのが殺された男と先《ま》斯《こ》う云う様な者サ大鞆君《おおともくん》、君は是が初めての事件だから充分働いて見る可しだ、斯う云う六《むず》ヶしい事件を引受けねば昇等《しょうとう》は出来ないぜ(大鞆)夫《そ》りゃ分《わか》ッて居る盤根錯節《ばんこんさくせつ》を切《きら》んければ以て利器を知る無しだから六《むず》かしいは些《ちっ》とも厭《いと》ヤせんサ、けどが何か手掛りが無い事にや―先《ま》ア君の見た所で何《ど》の様な事を手掛と仕給うか(谷)何《ど》の様な事と、何から何まで皆手掛りでは無いか第一顔の面長いのも一ツの手掛り左の頬に痣《あざ》の有るのも亦《また》手掛り背中《せなか》の傷も矢張り手掛り先ず傷が有るからには鋭い刃物《はもの》で切《きっ》たには違い無い左《さ》すれば差当り刃物を所持して居る者に目を附けると先《ま》ア云う様な具合で其目の附所《つけどころ》は当人の才不才と云う者君は日頃から仏国《ふらんす》の探偵が何うだの英国《いぎりす》の理学は斯《こう》だのと洋書を独りで読んだ様な理屈を並べるから是も得意の論理学とか云う者で割出して見るが好いアハヽヽ何と爾《そう》では無いか」大鞆は心中に己れ見ろと云う如き笑《えみ》を隠して故《わざ》と頭を掻き「夫《それ》は爾《そう》だけどが書物で読むのと実際とは少し違うからナア小説などに在る曲者は足痕が残ッて居るとか兇器を遺《わす》れて置くとか必ず三ツ四ツは手掛りを存《のこ》して有るけどが是ばかりは爾《そう》で無い、天《てん》きり殺された奴の名前からして世間に知て居る人が無い夫《それ》だから君何所から手を附けると云う取附《とっつき》だけは知《しら》せて呉れねば僕だッて困るじゃ無いか(谷)其取附と云うのが銘々の腹に有る事で君の能《よ》く云う機密とやらだ互いに深く隠して、サアと成る迄は仮令《たと》え長官にも知《しら》さぬ程だけれど君は先ず私《わし》が周旋で此署へも入《いれ》て遣《やっ》た者では有《ある》し殊に是が軍《いくさ》で言えば初陣の事だから人に云われぬ機密を分けて遣る其所の入口を閉《しめ》て来たまえ(大)夫や実に難有《ありがた》い畢生《ひっせい》の鴻恩《こうおん》だ」谷間田は卓子《ていぶる》の上の団扇《うちわ》を取り徐々《しず/\》と煽ぎながら少し声を低くして「君先ず此人殺しを何と思う慾徳尽《よくとくずく》の追剥と思うか但しは又―(大)左様サ持物の一ツも無い所を見れば追剥かとも思われるし死様の無惨な所を見れば何かの遺恨だろうかとも思うし兎に角|仏国《ふらんす》の探偵秘伝に分り難き犯罪の底には必ず女ありと云ッて有るから女に関係した事柄かとも思う(谷)サ、爾《そう》先《さき》ッ潜りをするから困る静《しずか》に聞《きゝ》たまえな、持物の無いのは誰が見ても曲者が手掛りを無くする為に隠した事だから追剥の証拠には成らぬが、第一傷に目を留たまえ傷は背《せな》に刀で切《きっ》たかと思えば頭には槌で砕いた傷も有る既に脳天などは槌だけ丸く肉が凹込《めりこ》んで居る爾かと思えば又所々には抓投《かなくっ》た様な痕も有る(大)成るほど―(谷)未だ不思議なのは頭にへばり附て居る血を洗い落して見た所頭の凹込んで砕けた所に太い錐《きり》でも叩き込んだ様な穴も有るぜ―君は気が附くまいけれど(大)ナニ気が附て居るよ二寸も深く突込んだ様に(谷)夫なら君アレを何で附けた傷と思う(大)夫は未だ思考《かんがえ》中だ(谷)ソレ分
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