れを拭取りながら椅子に憑《よ》り「唯だ大変とばかりでは分らぬが手掛でも有たのか(大)エ手掛、手掛は最初の事です最う悉皆《すっかり》分りました実《まこと》の罪人が―何町何番地の何の誰と云う事まで」荻沢は怪しみて「何うして分った(大)理学的論理的で分りました而《しか》も非常な罪人です実に大事件です」荻沢は殆ど大鞆が俄《にわか》に発狂せしかと迄に怪しみながら「非常な罪人とは誰だ、名前が分って居るなら先ず其名前を聞《きこ》う(大)素《もと》より名前を言《いい》ますが夫より前に私《わた》しの発見した手続きを申ます、けどが長官、私しが説明して仕舞う迄は此|室《ま》へ誰れも入れぬ事に仕て下さい小使其他は申すに及ばず仮令《たと》い谷間田が帰って来るとも決して無断では入れぬ事に(荻)好々《よし/\》谷間田はお紺の隠伏《かくれ》て居る所が分ったゆえ午後二時までには拘引して来るとて今方出て行たから安心して話すが好い」荻沢は固《もと》より心から大鞆の言葉を信ずるに非ず今は恰《あたか》も外に用も無し且は全く初陣なる大鞆の技量を試さんとも思うにより旁々《かた/″\》其言う儘に従えるなり(大)では長官少し暑いけどが茲等《こゝら》を締《しめ》ますよ昨日も油断して独言を吐《いっ》て居た所ろ後で見れば小使が廊下を掃除しながら聞て居ました、壁に耳の譬えだから声の洩れぬ様にして置《おか》ねば安心が出来ません」と云いつゝ四辺の硝子戸を鎖《とざ》して荻沢の前に居直り、紙包みより彼の三筋の髪毛《かみのけ》を取出しつ細語《さゝや》く程の低き声にて「長官|此《この》髪《け》を御覧なさい是はアノ死人が右の手に握って居たのですよ(荻)オヤ貴公も夫《それ》を持て居るか谷間田も昨日一本の髪を持て居たが(大)イエ了《いけ》ません谷間田より私しが先へ見附たのです、実は四本握って居たのを私しが先へ廻って三本だけソッと抜て置きましたハイ谷間田は夫に気が附きません初めから唯一本しか無い者と思って居ます」荻沢は心の中にて(個奴《こやつ》馬鹿の様でも仲々抜目が無いワえ)と少し驚きながら「夫《それ》から何《ど》うした(大)谷間田は之を縮れ毛と思ってお紺に目を附ました、夫が間違いです若し谷間田の疑いが当れば夫は偶中《まぐれあた》りです論理に叶った中方《あたりかた》では在ません、私しは一生懸命に成て種々の書籍を取出しヤッと髪の毛の性質だけ調べ上げました(荻)無駄事は成る可く省いて簡単に述《のぶ》るが好いぜ(大)ハイ無駄事は申しません先ず肝腎な縮れ毛の訳から云いましょう髪の毛の縮れるには夫だけの原因が無くては成《なら》ぬ、何が原因か全体髪の毛は先ず大方円いとした者で、夫が根《もと》から梢《すえ》まで一様に円いなら決して縮れません何《ど》うかすると中程に摘《つか》み挫《ひし》いだ様に薄ッぴらたい所が有る其|扁《ひら》たい所が縮れるのです、ですから生れ附の縮毛には必ず何所かに扁《ひらた》い所が有る、若し夫が無ければ本統の縮毛では無い、所で私しが此毛を疏末《そまつ》な顕微鏡に掛けて熟《よ》っく視ました所|根《もと》から梢《すえ》まで満遍なく円い、薄ッぴらたい所は一ツも無い、左すれば是は本統の縮毛で有ません、分りましたか、夫だのに丁度縮毛の様に揺れ/\して居るのは何う云う訳だ、是は結《むす》んで居るうち附た癖です譬えば真直な髪の毛でもチョン髷に結べば其髷の所だけは解《とい》た後でも揺れて居ましょう、夫と同じ事で此髪も縮れ毛では無い結んで居た為に斯様《かよう》に癖が附たのです、ですからお紺の毛では有りません、分りましたか」荻沢は少し道理《もっとも》なる議論と思い「成る程|分《わか》った天然《うまれつき》の縮毛《ちゞれげ》で無いからお紺の毛では無いと云うのだナ(大)サア夫が分れば追々云いましょう、僅《わずか》三本の髪の毛ですけれど斯う云う具合に段々と詮議して行くと色々の証拠が上って来ます貴方|先《ま》ア御自身の髪の毛を一本お抜なさい奇妙な証拠を見せますから、此証拠ばかりは自分に試験して見ねば誰も誠と思いません先ア欺されたと思って一本お抜なさい、抜て私しの云う通りにすれば期《きっ》と実《まこと》の罪人が分ります」荻沢警部は馬鹿/\しく思えど物は試験《ためし》と自ら我頭より長サ三四寸の髪の毛を一本抜き取り「是を何うするのだ(大)其髪の根《もと》を右向け梢《すえ》を左り向けて人差指と親指の二ツで中程をお摘みなさい(荻)斯うか(大)爾《そう》です/\、次に又|最《もう》一本同じ位の毛をお抜なさい、イエナニ何本も抜には及びません唯二本で試験の出来る事ですから僅《わずか》に最《もう》一本です、爾々《そう/\》、今度は其毛を前の毛とは反対《あべこべ》に根を左り向け末を右向て、今の毛と重ね、爾々《そう/\》其通り後前《あとさき》互違《たがいちがい》に二本の毛を重ね一緒に二本の指で摘《つまん》で、イヤ違ます人差指を下にして其親指を上にして爾う摘むのです、夫で其人差指を前へ突出《つきだし》たり後へ引たり爾々《そう/\》詰《つま》り二本一緒の毛へ捻《より》を掛たり戻したりするのですソレ奇妙でしょう二本の毛が次第/\に右と左へズリ抜るでしょう丁度二|尾《ひき》の鰻を打違《うちちが》えに握った様に一ツは右へ抜け一ツは左りへ抜《ぬけ》て段々とソレ捻れば捻るほど、ネエ、奇妙でしょう(荻)成る程奇妙だチャンと重《か》さねて摘んだのが次第/\に此通り最う両方とも一寸ほどズリ抜《ぬけ》た(大)夫《それ》は皆|根《もと》の方へずり抜るのですよ、根が右に向《むかっ》て居るのは右へ抜け根が左へ向《むい》て居るのは左へ抜けて行くのです(荻)成る程|爾《そう》だ何《ど》う云う訳だろう(大)是が大変な証拠に成るから先ず気永くお聞なさい、斯様にズリ抜ると云う者は詰り髪の毛の持前です、極々《ごく/\》度の強い顕微鏡で見ますと総て毛の類には細かな鱗《うろこ》が有ります、鱗が重なり重なッて髪の外面《うわべ》を包んで居ます丁度筍の皮の様な按排式《あんばいしき》に鱗は皆根から梢《すえ》へ向て居るのです、ですから捻《より》を掛たり戻したりする内に鱗と鱗が突張り合てズリ抜《ぬけ》るのです(荻)成る程|爾《そう》かな(大)未だ一ツ其鱗の早く分る事は髪の毛を摘んで、スーッと素扱《すご》いて御覧なさい、根《もと》から梢《すえ》へ扱《こ》く時には鱗の順ですから極《ごく》滑《なめら》かでサラ/\と抜けるけれど梢より根へ扱く時は鱗が逆ですから何と無く指に膺《こた》える様な具合が有て何《ど》うかするとブル/\と輾《きし》る様な音がします(荻)成る程|爾《そう》だ順に扱けば手膺《てごたえ》は少しも無いが逆に扱けば微かに手膺えが有る(大)サア是で追々に分ります私しは此三筋の髪の毛を其通りして幾度も試してみましたが一本は逆毛ですよ、是は最《も》う死骸の握って居る所を其儘取ッて堅く手帳の間へ挿み大事にして帰ッたのだから途中で向《むき》の違う事は有ません此三筋を斯う握って居たのです、其中でヘイ此一本が逆髪《さかげ》です外の二本とは反対に向て居ます(荻)成る程(大)サア何うです大変な証拠でしょう(荻)何故―(大)何故だッて貴方、人間の頭へは決して鱗の逆に向た毛の生《はえ》る者では有りません、何《ど》の様な事が有《あっ》ても生《はえ》た儘の毛に逆髪《さかげ》は有ません、然るに此三本の内に一本|逆毛《さかげ》が有るとは何故でしょう即ち此一本は入毛《いれげ》です、入毛や仮※[#「鬟」の「口」の下の部分に代えて「小」、33−17]《かもじ》などには能く逆毛の在る者で女が仮※[#「鬟」の「口」の下の部分に代えて「小」、33−17]を洗ッて何うかするとコンガラかすのも矢張《やっぱ》り逆毛が交ッて居るからの事です逆毛と順の毛と鱗が掛り合うからコンガラかッて解《とけ》ぬのです頭の毛ならば順毛ばかりですから好《よし》んばコンガラかッても終には解《とけ》ます夫《それ》や最《も》う女髪結に聞《きい》ても分る事(荻)夫が何の証拠に成る(大)サア此三本の中に逆毛が有て見れば是は必ず入毛です此罪人は頭へ入毛を仕て居る者です(荻)夫《それ》なら矢ッ張り女では無いか女より外に入毛などする奴は無いから(大)爾《そう》です私しも初は爾《そう》思いましたけれど何《ど》うも女が斯う無惨《むざ》/\と男を殺すとは些《ち》と受取憎いから色々考えて見ますと、男でも一ツ逆毛の有る場合が有ますよ、夫《それ》は何かと云うに鬘《かつら》です鬘や仮面《めん》には随分逆毛が沢山交ッて居ます夫《それ》だから私しは若しや茶番師が催おしの帰りとか或は又|仮粧蹈舞《ファンシーボール》に出た人が殺したでは無いかと一時は斯も疑ッて見ました併し大隈伯が強硬主義を取てから仮粧蹈舞は悉皆《すっかり》無くなるし夫《それ》かとて立茶番《たちちゃばん》も此頃は余り無い、夫に逆毛で無い後の二本を熟《よ》く検めて見ると其根の所が仮面《めん》や鬘から抜《ぬけ》た者で無く全く生《はえ》た頭から抜た者です夫は根の附て居る所で分ります殊に又合点の行かぬのは此《この》縮《ちゞ》れ具合です、既に天然《うまれつき》の縮毛では無く全く結癖《ゆいぐせ》で斯う曲ッて居るのですから何《ど》う云う髪を結べば此様な癖が附ましょう、私しは宿所へ来る髪結にも聞きましたが何《ど》うも分らぬと云いました、爾《そう》すれば最《も》う全然《すっかり》分らん、分らんのを能く/\考えて見ると有りますワエ此通り髪の毛に癖の附く結い方が、エ貴方何うです、此癖は決して外では無い支那人ですハイ確に支那人の頭の毛です
荻沢警部は暫し呆れて目を見張りしが又暫し考えて「夫《それ》では支那人が殺したと云うのか(大)ハイ支那人が殺したから非常な事件と云うのです、固より単に人殺しと云うだけの罪ですけれど支那人と有《あっ》て見れば国と国との問題にも成兼《なりかね》ません事に由ては日本政府から支那政府へ―(荻)併し未だ支那人と云う証拠が充分に立《たゝ》ぬでは無いか(大)是で未だ証拠が立ぬと云うは夫《それ》や無理です、第一此罪人を男か女かとお考えなさい、アノ傷で見れば死《しぬ》る迄に余ほど闘った者ですが女ならアレほど闘う中に早く男に刃物を奪取《うばいとら》れて反対《あべこべ》に殺されます、又背中の傷は逃《にげ》た証拠です、相手が女なら容易の事では逃げません、夫に又女は―(荻)イヤ女で無い事は理屈に及ばぬ箱屋殺しの様な例《はなし》も有るけれど夫は不意打、アノ傷は決して不意打で無く随分闘った者だから夫は最《も》う男には違い無い(大)サア既に男とすれば誰が一尺余りの髪《け》を延《のば》して居ますか代言人の中には有《ある》とか言いますけれど夫は論外、又随分チョン髷も有りますが此髪の癖を御覧なさい揺れて居る癖を、代言人や壮士の様な散《ちら》し髪《げ》では無論、此癖は附かず、チョン髷でも同じ事、唯だ此癖の附くのは支那人に限ります、支那人の頭は御存《ごぞんじ》でしょう、三ツに分て紐に組ます、解《とい》ても癖直しをせぬ中は此通りの曲《くせ》が有ます根《もと》から梢《すえ》まで規則正しくクネッて居る所を御覧なさい夫に又支那人の外には男で入毛する者は決して有りません支那人は入毛をするのみならず夫《それ》で足《たら》ねば糸を入れます、此入毛と云い此縮れ具合と云い是が支那人で無ければ私しは辞職します、エ支那人と思いませんか」荻沢は一応其道理あるに感じ猶《な》お彼《か》の髪の毛を検めるに如何にも大鞆の云う通りなり「成るほど一理屈あるテ(大)サア一理屈あると仰有る柄《から》は貴方も最《も》う半信半疑と云う所まで漕《こぎ》つけました貴方が半信半疑と来れば此方の者です私しも是だけ発明した時は尚《ま》だ半信半疑で有たのです、所が後から段々と確な証拠が立《たっ》て来るから遂に何《ど》うしても支那人だと思い詰め今では其住居其姓名まで知て居ます、其上殺した原因から其時の様子まで略ぼ分って居ます、夫も宿所の二階から一足も外へ蹈出さずに探り究めたのです(荻)夫では先ず名前から云う
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