様な大胆な事は出来ませんサア既に斯《こう》まで手配《てくばり》が附て居れば旦那が外から戸を叩く、ハイ今開ますと返事して手燭を点《つけ》るとか燐寸《まっち》を探すとかに紛らせて男を逃します逃した上で無ければ決して旦那を入れません(荻)夫《それ》は爾《そう》だ、ハテナ外妾《かこいもの》で無し、夫《それ》かと云って羅紗緬《らしゃめん》でも妻でも無いとして見れば君の云う奸夫《まおとこ》では無いじゃ無いか(大)ハイ夫《それ》だから奸夫とは云いません唯だ奸夫の様な種類の遺恨で、即ち殺された奴が自分の悪い事を知り兼々恐れて居《いる》と云うだけしか分らぬと申ました(荻)でも奸夫より外に一寸《ちょっ》と其様な遺恨は有るまい(大)ハイ外には一寸と思い附ません併し六ヶしい犯罪には必ず一のミステリイ(不可思議)と云う者が有ますミステリイは到底罪人を捕えて白状させた上で無ければ何《ど》の様な探偵にも分りません是が分れば探偵では無い神様です、此事件では茲が即ちミステリイです、斯様に奸夫騒ぎで無くては成らぬ道理が分って居ながら其本人に妻が無い是が不思議の不思議たる所です、決して当人の外には此不思議を解く者は有ません(荻)爾《そう》まで分れば夫《それ》で能い最《も》う其本人の名前と貴公の謂《い》う、計略を聞《きこ》う(大)併し是だけで外に疑いは有ませんか(荻)フム無い唯だ今|謂《いッ》たミステリイとかの一点より外に疑わしい所は無い(大)夫《それ》なら申ますが斯《こう》云《い》う次第です」と又も額の汗を拭きたり
扨大鞆は言出《いいいず》るよう「私しは全く昨日の中に是だけの推理をして罪人は必ず年に似合ぬ白髪が有て夫《それ》を旨く染て居る支那人だと見て取《とり》ました、夫《それ》に由り先ず谷間田に逢い彼れが何《ど》う云う発明をしたか夫を聞た上で自分の意見も陳《のべ》て見ようと此署を指して宿所を出ました所宿所の前で兼て筆墨初め種々の小間物を売《うり》に来る支那人に逢《あっ》たのです何より先に個奴《こやつ》に問うが一番だと思いましたから明朝沢山に筆を買うから己の宿へ来て呉れと言附て置ました、夫より此署へ来た所丁度谷間田が出て行く所で私しは呼留たれど彼れ何か立腹の体で返事もせず去て仕舞いました夫《それ》ゆえ止《やむ》を得ず私しは又宿所へ引返しましたが、今朝に成て案の如く其支那人が参りました、夫《それ》を相手に種々の話をしながら実は己の親類に年の若いのに白髪の有て困って居る者が有《ある》がお前は白髪染粉の類を売はせぬかと問ますと其様な者は売《うら》ぬと云います夫《それ》なら若し其製法でも知ては居ぬかと問ましたら自分は知らぬが自分の親友で居留地三号の二番館に居る同国人が今年未だ四十四五だのに白髪だらけで毎《いつ》も自分で染粉《そめこ》を調合し湯に行く度に頭へ塗るが仲々能く染るから金を呉れゝば其製法を聞て来て遣《やろ》うと云います扨は是こそと思いお前居留地三号の二番と云えば昨日も己は三号の辺を通ったが何でも子供が独楽を廻して居た彼《あ》の家が二番だろうと云いました所アヽ子供が独楽を廻して居たなら夫《それ》に違いは有ません其子供は即ち今云った白髪のある人の貰い子だと云いました夫《それ》より色々と問いますと第一其白髪頭の名前は陳施寧《ちんしねい》と云い長く長崎に居て明治二十年の春、東京へ上り今では重《おも》に横浜と東京の間を行通《ゆきかよ》いして居ると云います夫《それ》に其気象は支那人に似合ぬ立腹易《はらだちやす》くて折々人と喧嘩をした事も有ると云いましたサア是が即ち罪人です三号の二番館に居る支那人陳施寧が全く遺恨の為に殺したのです」荻沢は暫し黙然として考えしが「成る程貴公の云う事は重々尤も髪の毛の試験から推て見れば何うしても支那人で無くては成らず又同じ支那人が決して二人まで有《あろ》うとは思われぬ併し果して陳施寧として見れば先ず清国領事に掛合も附けねばならず兎に角日本人が支那人に殺された事で有るゆえ実に容易ならぬ事件で有る(大)私しも夫《それ》を心配するのです新聞屋にでも之が知れたら一ツの輿論を起しますよ何しろ陳施寧と云うは憎い奴だ、併し谷間田は爾《そう》とは知らず未だお紺とかを探して居るだろうナ
斯く云う折しも入口の戸を遽《あわた》だしく引開けて入来るは彼の谷間田なり「今陳施寧と云う声が聞えたが何うして此罪人が分ッたか―(荻)ヤヽ、谷間田貴公も陳施寧と見込を附けたか(谷)見込所では無い最《も》うお紺を捕えて参りました、お紺の証言で陳施寧が罪人と云う事から殺された本人の身分殺された原因残らず分りました(荻)夫《それ》は実に感心だ谷間田も剛《えら》いが、大鞆も剛い者だ(谷)エ大鞆が何故剛い―
下篇(氷解)
全く谷間田の云いし如くお紺の言立にも此事件の大疑団は氷解したり今お紺が荻沢警部の尋問に答えたる事の荒増《あらまし》を茲に記さん
妾《わらわ》(お紺)は長崎の生れにて十七歳の時遊廓に身を沈め多く西洋人支那人などを客とせしが間もなく或人に買取られ上海《しゃんはい》に送られたり上海にて同じ勤めをするうちに深く妾《わらわ》を愛し初めしは陳施寧と呼ぶ支那人なり施寧は可なりの雑貨商にして兼てより長崎にも支店を開き弟の陳金起《ちんきんき》と言える者を其支店に出張させ日本の雑貨買入などの事を任《まか》せ置きたるに弟金起は兎角放埓にして悪しき行い多く殊に支店の金円を遣い込みて施寧の許へとては一銭も送らざる故施寧は自ら長崎に渡らんとの心を起し夫《それ》にしてはお紺こそ長崎の者なれば引連れ行きて都合好きこと多からんと終《つい》に妾を購《あがな》いて長崎に連れ来れり施寧は生れ附き甚だ醜き男にして頭には年に似合ぬ白髪多く妾は彼れを好まざれど唯故郷に帰る嬉さにて其言葉に従いしなり頓《やが》て連《つれ》られて長崎に来り見れば其弟の金起と云えるは初め妾が長崎の廓にて勤めせしころ馴染を重ねし支那人にて施寧には似ぬ好男子なれば妾は何時しかに施寧の目を掠めて又も金起と割無《わりな》き仲と無《な》れり去れど施寧は其事を知らず益々妾を愛し唯一人なる妾の母まで引取りて妾と共に住わしめたり母は早くも妾が金起と密会する事を知りたれど別に咎むる様子も無く殊に金起は兄施寧より心広くしてしば/\母に金など贈ることありければ母は反《かえ》って好き事に思い妾と金起の為めに首尾を作る事もある程なりき其内に妾は孰《たれ》かの種を宿し男の子を儲《もう》けしが固より施寧の子と云いなし陳寧児《ちんねいじ》と名《なづ》けて育てたり是より一年余も経たる頃|風《ふ》とせしことより施寧は妾と金起との間を疑い痛《いた》く怒りて妾を打擲《ちょうちゃく》し且つ金起を殺さんと迄に猛りたれど妾|巧《たく》みに其疑いを言解《いいと》きたり斯くても妾は何故か金起を思い切る心なく金起も妾を捨《すて》るに忍びずとて猶お懲りずまに不義の働きを為し居たり、寧児が四歳の時なりき金起は悪事を働き長崎に居ることが出来ぬ身と為りたれば妾に向いて共に神戸に逃行《にげゆ》かんと勧めたり妾は早くより施寧には愛想尽き只管《ひたす》ら金起を愛したるゆえ左《さ》らば寧児をも連れて共に行かんと云いたるに※[#「研のつくり」、第3水準1-84-17]《そ》は足手纏いなりとて聞入るゝ様子なければ詮方《せんかた》なく寧児を残す事とし母にも告げず仕度を為し翌日二人にて長崎より舩《ふね》に乗りたり後にて聞けば金起は出足《であし》に臨《のぞ》み兄の金を千円近く盗み来たりしとの事なり頓《やが》て神戸に上陸し一年余り遊び暮すうち、金起の懐中も残り少くなりたれば今のうち東京に往き相応の商売を初めんと又も神戸を去り東京に上り来たるが当時築地に支那人の開ける博奕宿あり金起は日頃|嗜《たしな》める道とて直《ただち》に其宿に入込みしも運悪くして僅に残れる金子《きんす》さえ忽ち失い尽したれば如何に相談せしか金起は妾を其宿の下女に住込ませ己れは「七八《チーパー》」の小使に雇れたり此後一年を経て明治二十年の春となり妾も金起も築地に住い難きこと出来たり其|因由《わけ》は他ならず彼の金起の兄なる陳施寧|商業《しょうばい》の都合にて長崎を引払い東京に来りて築地に店を開きしと或人より聞たれば当分の中《うち》分れ/\に住む事とし妾は口を求めて本郷の或る下等料理屋へ住込み金起は横浜の博奕宿へ移りたり或日妾は一日の暇を得たれば久し振に金起の顔を見んと横浜より呼び寄せて共に手を引き此処彼処見物するうち浅草観音に入りたるに思いも掛けず見世物小屋の辺《ほと》りにて後より「お紺/\」と呼ぶものあり振向き見れば妾の母なり寧児も其傍にあり見違るほど成長したり「オヤ貴女は(母)お前は先《ま》ア私にも云わずに居無く成て夫切《それき》り便りが無いから何処へ行《いっ》たかと思ったら先《ま》ア東京へ先《ま》ア、而《そ》して先ア金起さんも先《ま》ア、寧児覚えて居るだろう是が毎《いつ》も云うお前のお母さんだよ、お父さんはお前を貰い子だと云う筈だ此れがお前の本統のお父さん、私は先ア前《さき》へ云わねば成らん事を忘れてサ、お紺や未だ知る舞《ま》いが用心せねば了《いけ》ないよ東京へ来たよ、親指が、私もアノ儘世話に成て居て此通り東京まで連《つれ》られて来たがの、今でもお前に大残りに残て居るよ未練がサ、親指は、お前が居無《いなく》なッた時|何《ど》の様に怒ッたゞろう、私まで叩き出すッて、チイ/\パア/\言たがネ、腹立《はらたっ》た時やア少《すこし》も分らんネ、言《いう》ことが、でも後で私しを世話して置けば早晩《いつか》お前が逢い度く成て帰ッて来るだろうッて、惚《のろ》い事は箝《わ》を掛てるネ日本人に爾《そう》して今は何所に、ア爾《そ》う本郷に奉公、ア爾う可愛相に、金起さんも一緒かえ、ア爾う金起さんは横浜に、ア爾う別々で逢う事も出来ない、ア爾う可愛相に、ア爾う親指の来た事を聞いて、ア爾う可愛相に用心の為め分れてか、ア爾う今日久ぶりに逢ッて、ア爾う可愛相に、夫《それ》ではお前斯うお仕な今夜はネ家へ来てお宿りな金起さんと二人で、ナニ浮雲《あぶな》い者か昨日横浜へ行て明後日で無ければ帰らんよイエ本統に恐い事が有る者かイエお泊りなお泊りよ若し何だアネ帰ッて来れば三人で裏口から馳出さアネ、ナニ寧児だッて大丈夫だよ、多舌《しゃべり》や仕無《しない》よ本統のお父さんとお母さんが泊るのだもの多舌するものか、ネエ寧児、此子の名前は日本人の様で呼び易くッて好い事ネ隣館《おとなり》の子は矢ッ張り合の子で珍竹林と云うのだよ可笑《おかし》いじゃ無いかネエ、だから私が一層の事寧次郎とするが好と云うんだよ、来てお泊りな裏から三人で逃出さアネ、イエ正直な所は私しも最う彼処《あすこ》に居るのは厭で/\成《なら》ないのお前達と一緒に逃げれば好かッた、アヽ時々|爾《そう》思うよ今でも連れて逃げて呉《くれ》れば好いと、イヽエ口《くち》には云《いわ》ぬけれど本統だよ、来てお泊りな、エ、お前今夜も明《あす》の晩も大丈夫、イエ月の中に二三度は家を開るよ横浜へ行てサ、其留守は何《どん》なに静で好だろう是からネ其様《そんな》時には逃《のが》さず手紙を遣るから来てお泊りよ、二階が広々として、エお出なネお出よお出なね、お出よう」母は独りで多舌立《しゃべりた》て放す気色も見えざる故、妾も金起もツイ其気になり此夜は大胆にも築地陳施寧の家に行き広々と二階に寐《い》ね次の夜も又泊り翌々日の朝に成り寧児には堅く口留して帰りたり此後も施寧の留守と為ること分るたびに必ず母より前日に妾の許へ知らせ来る故、妾は横浜より金起を迎え泊り掛けに行きたり、若し母と寧児さえ無くば妾《わらわ》斯《かゝ》る危き所へ足蹈もする筈なけれど妾の如き薄情の女にも母は懐しく児は愛らしゝ一ツは母の懐しさに引《ひか》され一ツは子の愛らしさに引されしなり、去れば其留守前日より分らずして金起を呼び迎える暇なき時は妾唯|一人《ひと》り行きたる事も有り明治二十年の秋頃よりして今年の春までに行きて泊りし事|凡《およ》そ十五度も有る程な
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