共夫婦の外は誰を見ても油断せぬ様に仕附《しつけ》て有ります、商売が商売で雇人にも気の許されぬ様な店ですから」余は成る程と思いつゝも声を柔げて「来い/\プラト」と手招するに彼れ応ずる景色《けしき》なし「駄目ですよ、今申す通りわたくしか所天《おっと》の外は誰の言う事も聞きませんから」
 読者よ是等の言葉は当前の事にして少しも怪むにも足らず又心に留むるにも足らざれども、余は此言葉に依り宛《あたか》も稲妻の光るが如く我が脳髄に新しき思案の差込み来るを覚えたり、一分の猶予も無く熱心に倉子に向い「では内儀《ないぎ》犯罪の夜に此犬は何所《どこ》に居ましたか」と打問えり。
 不意に推掛《おしかけ》たる此問に倉子の驚きたる様は実に譬《たと》うるに物も無し、余は疑いも無く他《か》れの備えの最も弱き所を衝《つ》きたり、灸所《きゅうしょ》とは斯《かゝ》るをや云うならん、倉子は今も猶お手に持てる燭台を取落さぬばかりにて「はい此犬は、此犬は、爾《そう》です何所に居ましたか、存じませんいや思い出しませんが」と綴る言葉も覚束《おぼつか》なし余「夫《それ》とも太郎殿に随《つい》て行きでもしましたか」此|添《そえ》言葉に
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