れ笑の浮ぼう筈《はず》万々《ばん/\》無く親友に話を初んとするが如き穏和の色の残ろう筈万々なし、今にも我が敵に噛附《かみつか》んずる程の怒れる面色《めんしょく》を存すべき筈ならずや。
殊《こと》に老人の傷処《きずしょ》を検《あらた》め見れば咽《のど》を一突にて深く刺れ「苦《あっ》」とも云わずに死せしとこそ思わるれ、曲者《くせもの》の去りたる後まで生存《いきながら》えしとは認《みと》む可からず、笑の浮みしは実際にして又道理なり、血の文字を書きしとは、如何に考うるとも受取られず、あゝ余は唯《たゞ》是《これ》だけの事に気附てより、後にも先にも覚《おぼえ》なき程に打驚《うちおどろ》き胸のうち俄《にわか》に騒ぎ出《いだ》して、轟く動悸《どうき》に身も裂くるかと疑わる。
去れば余は猶《な》お老人の傍《そば》を去る能《あた》わず、更に死体《しがい》の手を取りて検《あらた》むるに、余の驚きは更に強きを加え来《きた》れり、読者よ、老人の右の手には少しも血の痕《あと》を見ず唯《た》だ左の手の人差指のみ紅《あか》く血に塗《まみ》れしを見る、此老人は左の手にて血の文字を書きたりと云う可《べ》きか、否《いな
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