肉刺、小刀《ないふ》を我《われ》劣《おとら》じと働かせながらも様々の意見を持出し彼是《かれこれ》と闘わすに、余も目科も藻西太郎を真実の罪人に非ずと云うだけ初より一致して今も猶お同じ事なり、罪人に非《あらざ》る者が何故に白状したるや是れ二人とも合点の行かぬ所なれど個《こ》は目下の所にて後廻しとする外無ければ先ず倉子の事より考うるに、倉子も彼《あ》の夜両隣の細君と共に我家に留りし事なれば実際此罪に手を下せし者にあらぬは必定《ひつじょう》なり、去ればとて犬の返事に詰りたる所と云い猶お其外の細かき様子など考合《かんがえあわ》せば余も目科も大《おおい》に疑いあり、手は自ら下さぬにせよ、目科の細君が言し如く此犯罪の発起人なるやも知れず、縦《よ》し発起人と迄に至らずとも真《まこと》の罪人を知れるやも知れず、否《いな》多分は知れるならん。
爾《さ》すれば罪人は誰なるや此罪人がプラトを連居《つれい》たる事は店番の証《しょう》茲《こゝ》にて明白なれば何しろプラトが我主人の如く就従《つきしたが》う人なるには相違なしプラトは余等に向《むか》いても幾度か歯を露出《むきいだ》せし程なる故、容易の人には従う可《べ》しとも思われず、然《しか》らば家内同様に此家に入込てプラトを手懐得《てなずけう》る人の中《うち》と認るの外なく、凡そ斯《かゝ》る人なれば益々以て倉子が知れる筈なるに露ほども其様子を見せぬのみかは勉《つとめ》て其の人を押隠さんとする所を見れば倉子のためには我が所天《おっと》より猶お大切の人としか思われず、あゝ我が所天よりも猶お大切のひとあるや、有らば是れ何者なるぞ。
茲まで考え来るときは倉子に密夫《みっぷ》あるぞとは何人《なんびと》にも知《しら》るゝならん、密夫にあらで誰が又倉子が身に我|所天《おっと》よりも大切ならんや、唯《た》だ近辺の噂にては倉子の操《みさお》正しきは何人も疑わぬ如くなれど此辺の人情は上等社会の人情と同じからず上等の社会にては一般に道徳|最《い》と堅固にして少しの廉《かど》あるも直《たゞち》に噂の種と為《な》り厳しく世間より咎めらるれど此辺にては人の妻たる者が若き男に情談口を開く位は当前の事にして見る人も之を怪《あやし》と思わねば操が操に通らぬなり、殊に又美人の操ほど当《あて》に成らぬ者は無く厳重なる貴族社会に於てすらも幾百人の目を偸《ぬす》みて不義の快楽に耽《ふけ》りながら生涯人に知《しら》れずして操堅固と褒《ほめ》らるゝ貴婦人も少なからず、物を隠すには男子も遙に及ばぬほど巧なるが凡て女の常なれば倉子も人知れず如何なる情夫を蓄《たくわ》うるや図られず、若し情夫ありとせば其情夫誰なるや、如何にして見破るべきや。
是れ実に難中の至難なり、余は及ぶだけ工夫せし末「何うだ目科君、倉子へ見え隠れに探偵一人を附けて置ては、え君、必ず此犯罪の前に情夫と打合せて有るのだから当分其情夫が此辺へ尋ねて来る事は有るまいけれど、女と云う者は心も細く所天が牢に入られ、其筋からも時々《しば/\》異様な人が来て尋問するなどの事が有ては独《ひとり》で辛抱が出来なく成り必ず忍で其情夫に逢に行くだろうと思うが」目科は余が言葉に返事もせず只管《ひたすら》に考うるのみなりしが忽然《こつぜん》として顔を上げ「いや了《いけ》ぬ、了ぬ、俚諺《ことわざ》にも鉄の冷《さめ》ぬうちに打てと云う事が有る、余温《ほとぼり》を冷ましては何も彼も後の祭だ余「では余温の冷めぬうちに甘《うま》く見破る工夫が有るのか目「随分険呑な工夫だけれど一か八か当《あたっ》て砕けるのさ余「夫にしても何う云う工夫だ目「工夫は唯だあの犬ばかりだ、犬を利用する外無いから旨《うま》く行けば詰る所君の手際だ、犬に目を附け初めたのは君だから、夫にしても遣《やっ》て見るまで黙《だまっ》て居たまえ、今に直ぐ分る事だ余「今に直なら夫まで無言で問ずにも居ようが真に今直遣るのかえ目「左様《さよう》、裁判所から倉子に出頭を命じたのが午後三時だから倉子は二時半に家を出るだろう、家を出れば其留守はあの下女が一人だから吾々の試験す可きは其間だ余「と云て今既に二時を打たぜ目「爾だ、さア直に行う」と云い早や勘定を済せて立上れり、目科が当ッて砕けろとは如何なる工夫なるや知ざれど、余は又も無言の儘従い行く、行きて藻西の家より遠からざる所に達し、再び但《と》ある露路に潜みて店の様子を伺い居るに、幾分間か経ちし頃、倉子は店口より立出たり、先ほどの黒き衣服に猶お黒き覆面を施せしは死せし所天《おっと》の喪に服せる未亡夫人かと疑わる、目科は口の中にて「仲々食えぬ女だわえ、悲げな風をして判事に憫《あわれ》みを起させようと思ッて居る」と呟きたり、暫くするうち倉子は足早に裁判所の方《かた》へと歩み行き其姿も見えずなりしが是より猶も五分間ほど過せし後、
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