《うずたか》きほど重ねあり、目科は外の品よりも是等《これら》の瓶に尤《もっと》も其眼を注ぎ殊に其瓶の口を仔細に検《あらた》むる様子なれば余は初て合点行けり、彼れは此家の瓶の中《うち》に若し彼《か》の曲者《くせもの》が老人の室に投捨て去りし如き青き封蝋の附きたるコロップあるや否《いな》を探究《さぐりきわ》めんと思えるなり、凡《およ》そ二十分間ほども探りて全く似寄りたるコロップの無きことを確め得たれば、彼れ余に向い「何も無い、探すだけは探したから最《も》う出よう」と云う、今度は余が最先に立ち梯子《はしご》を上り、頓《やが》て元の室《ま》に達すれば、件《くだん》のプラトが又寝台の下より出来り歯を露《むき》出して余を目掛け飛掛らんとす、余は其剣幕に驚きて一足|背後《うしろ》に退下《ひきさが》らんとする程なりしが、斯《かく》と見て倉子は遽《あわたゞ》しく「プラトやこれ」と制するに犬は忽《たちま》ち鎮りて寝台の所《した》に退けり、余は漸《ようや》く安心して進みながら「随分|険呑《けんのん》な犬ですね」と云う「なに爾《そう》では有《あり》ません心は極《ごく》優いですが番犬《ばんいぬ》の事ですから私し共夫婦の外は誰を見ても油断せぬ様に仕附《しつけ》て有ります、商売が商売で雇人にも気の許されぬ様な店ですから」余は成る程と思いつゝも声を柔げて「来い/\プラト」と手招するに彼れ応ずる景色《けしき》なし「駄目ですよ、今申す通りわたくしか所天《おっと》の外は誰の言う事も聞きませんから」
読者よ是等の言葉は当前の事にして少しも怪むにも足らず又心に留むるにも足らざれども、余は此言葉に依り宛《あたか》も稲妻の光るが如く我が脳髄に新しき思案の差込み来るを覚えたり、一分の猶予も無く熱心に倉子に向い「では内儀《ないぎ》犯罪の夜に此犬は何所《どこ》に居ましたか」と打問えり。
不意に推掛《おしかけ》たる此問に倉子の驚きたる様は実に譬《たと》うるに物も無し、余は疑いも無く他《か》れの備えの最も弱き所を衝《つ》きたり、灸所《きゅうしょ》とは斯《かゝ》るをや云うならん、倉子は今も猶お手に持てる燭台を取落さぬばかりにて「はい此犬は、此犬は、爾《そう》です何所に居ましたか、存じませんいや思い出しませんが」と綴る言葉も覚束《おぼつか》なし余「夫《それ》とも太郎殿に随《つい》て行きでもしましたか」此|添《そえ》言葉に力を得倉「あゝ思い出しました、爾々《そう/\》全く所天に随て行たのです余「では馬車に乗ても矢張其後に随て行く様に仕込で有ますか、何でも太郎殿はリセリウ街《まち》から馬車に乗たと仰有《おっしゃ》ッた様でしたが」倉子は一言の返事無し、余は益々切込みて充分に問詰んとするに、何故か目科は此時邪魔を入れ「詰らぬ事を問い給うな、内儀も酷《ひど》く心を痛められる際と云い三時からは又裁判所の呼出しにも応ぜねば成らぬ事だから最《も》う少しは休息なさらねば能《よ》く有る舞《ま》い、家捜《やさがし》までして何も見出さぬから最う吾々の役目は済《すん》だじゃ無いか、好い加減にお遑《いとま》に仕様《しよう》、さア君、さア」余は実に合点行かず、折角敵の灸所を見出し今たゞの一言にて底の底まで問詰る所なるに、目科は夫を詰らぬ事と言い無理に余を遮《さえぎ》らんとす、余はむッとばかりに憤《いきどおり》しかども目科は眼にて余を叱り、二言と返させずして匆々《そこ/\》倉子に分れを告げ、余を引摺《ひきず》らぬばかりにして此家を起立《たちいで》たり。
「君は心を失ッたか」とは此家を出て第一に目科が余に向い発したる言葉なりしが、余は彼を佶《きっ》と見詰て「夫は僕の方で云う言《こと》だ、君こそ心を失ッたのだろう、僕が発見した敵の灸所は今まで詮策した中《うち》で第一等の手掛じゃ無いか、返事に窮して倉子のドギマギした様が君の目に見えなんだか、今一思いと云う所で何故無理に僕を制した、君はあの女に加担する気か、え君、夫とも犬が非常の手掛りだと云う事が猶《ま》だ君には分らぬか」鋭き言葉に目科は別に怒りもせず「夫だから前以て誡《いまし》めて置たのだ、成るほど犬に目を附けたは実に感心だ、多年此道で苦労した僕も及ばぬ程の手柄だ、吾々の拠《よ》る所は是から唯《たゞ》あの犬ばかり、夫にしても君の様に短兵急に問詰ては敵が直様《すぐさま》疑うから事が破れる、今夜にも倉子があの犬を殺して仕舞うか夫とも何所かへ隠して仕舞えば何うするか」成る程と感心して余は猶お我腕前の遙《はるか》に目科より下なるを会得したり。
第十回(判然)
兎《と》に角《かく》も犬と云う一個《ひとつ》の捕え所を見出したれば之を本《もと》にして此後の相談を固めんものと余等二人は近辺の料理屋に入たるが二人とも朝からの奔走に随分腹も隙《す》きし事なれば
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