血の文字
黒岩涙香

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)斯《こ》うも

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)宿の者|等《ら》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+擧」、第4水準2−13−59]《あぐ》れば

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)あア/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

          前置(著者の)

「あア/\斯《こ》うも警察のお手が能《よ》く行届き、何《ど》うしても逃れぬ事が出来ぬと知《しっ》たら、決して悪事は働かぬ所だッたのに」とは或《ある》罪人が己《おの》れの悪事露見して判事の前に引据《ひきすえ》られし時の懺悔《ざんげ》の言葉なりとかや、余《よ》は此《この》言葉を聞き此記録を書綴る心を起しぬ、此記録を読むものは何人《なんびと》も悪事を働きては間職《ましょく》に合わぬことを覚《さと》り、算盤珠《そろばんだま》に掛けても正直に暮すほど利益な事は無きを知らん、殊《こと》に今日《こんにち》は鉄道も有り電信も有る世界にて警察の力を潜《くゞ》り果《おお》せるとは到底《とうてい》出来ざる所にして、晩《おそ》かれ早かれ露見して罰せらるゝは一つなり。
 斯く云わば此記録の何たるやは自《おのずか》ら明かならん、個《こ》は罪人を探り之を追い之と闘い之に勝ち之に敗られなどしたる探偵の実話の一なり。
[#改ページ]


          第一回(怪しき客)

 余が医学を修めて最早《もはや》卒業せんとせし頃(時に余が年二十三)余は巴里府《ぱりふ》プリンス街に下宿し居《い》たるが余が借れる間《ま》の隣の室《へや》に中肉中背にて髭髯《くちひげ》を小綺麗《こぎれい》に剃附《そりつけ》て容貌にも別に癖の無き一人の下宿人あり、宿《やど》の者|等《ら》此人を目科《めしな》「様《さん》」とて特に「様《さん》」附にして呼び、帳番も廊下にて摺違《すれちが》うたびに此人には帽子を脱ぎて挨拶《あいさつ》するなど大《おおい》に持做《もてなし》ぶりの違う所あるにぞ、余は何時《いつ》とも無く不審を起し目科とは抑《そ》も何者にやと疑いたり、素《もと》より室と室、隣同士の事とて或は燐寸《まっち》を貸し或は小刀《ないふ》を借るぐらいの交際《つきあい》は有り、又時としては朝一緒に宿を出《い》で次の四辻にて分るゝまで語らいながら歩むなどの事も有りたれど其身分其職業などは探り知ろう様《よう》も無く唯《た》だ此の目科に美しき細君ありて充分目科を愛し且《か》つ恭《うやま》う様子だけは知れり、去《さ》れど目科は妻ある身に不似合なる不規則|千万《せんばん》の身持にて或時は朝|猶《なお》暗き内に家を出《いず》るかと思えば或時は夜通し帰り来《きた》らず又人の皆|寝鎮《ねしずま》りたる後《のち》に至《いた》り細君を叩き起すことも有り其上《そのうえ》時々は一週間ほど帰り来らぬことも珍しからず、斯《かく》も不規則なる所夫《おっと》に仕え細君が能《よ》く苦情を鳴《なら》さぬと思えば余は益々|訝《いぶか》しさに堪《た》えず、終《つい》に帳番に打向《うちむか》いて打附《うちつけ》に問いたる所、目科の名前が余の口より離れ切るや切らぬうち帳番は怫然《ふつぜん》と色を作《な》し、毎《いつ》も宿り客の内幕を遠慮も無く話し散《ちら》すに引代《ひきかえ》て、余計な事をお問《とい》なさるなと厳しく余を遣込《やりこ》めたれば余が不審は是よりして却《かえっ》て、益々|募《つの》り、果《はて》は作法をも打忘れて熱心に目科の行《おこな》いを見張るに至れり。
 見張り初《はじ》めてより幾程《いくほど》も無く余は目科の振舞に最《い》と怪しく且《かつ》恐ろしげなる事あるを見て何《ど》うせ碌《ろく》な人には非《あら》ずと思いたり、其事は他《ほか》ならず、或日目科は当時の流行を穿《うが》ちたる最《いと》立派なる服を被《き》かざり胸には「レジョン、ドノル」の勲章を燦《きら》めかせて外《ほか》より帰ると見たるに其《その》僅《わず》か数日後に彼れは最下等の職人が纏《まと》う如《ごと》き穢《きたな》らしき仕事衣《しごとぎ》に破れたる帽子を戴《いたゞ》きて家を出《いで》たり、其時の彼れが顔附は何処《どこ》とも無く悪人の相《そう》を帯び一目見るさえ怖《こわ》らしき程なりき、是さえあるに或午後は又彼れが出行《いでゆ》かんとするとき其細君が閾《しきい》の許《もと》まで送り出で、余所目《よそめ》にも羨《うらや》まるゝほど親《したし》げに彼れが首に手を巻きて別れのキスを移しながら「貴方《あなた》、大事をお取《とり》なさい、内《う
次へ
全28ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
黒岩 涙香 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング