ち》には私《わたく》しが気遣うて待て居ますから」と叫びたり、大事を取れとは何事にや、委細《いさい》の心は分らねど扨《さて》は、扨は、細君が彼れの身持を咎《とが》めぬのみかは何も彼も承知の上で却て彼れに腹を合せ、彼れが如き異様なる振舞を為《な》さしむるにや、斯く思いて余は殆《ほとん》ど震い上り世には恐ろしき夫婦もある哉《かな》と嘆《たん》じたれど、此後の事は是よりも猶《な》お酷《ひど》かりき。
余は修学に身を委ねながらも、夜に入《い》りては「レローイ」珈琲館《かひいかん》と云えるに行き球《たま》や歌牌《かるた》の勝負を楽むが捨難《すてがた》き蕩楽《どうらく》なりしが、一夜《あるよ》夫等《それら》の楽み終りて帰り来り、猶《な》お球突《たまつき》の戯《たわむ》れを想いながら眠りに就《つき》しに、夢に球と球と相触れて戞々《かつ/\》と響く音に耳を襲われ、驚き覚《さ》めて頭《かしら》を※[#「てへん+擧」、第4水準2−13−59]《あぐ》れば其響は球の音にあらで外より余が室の戸を急がわしく打叩くにぞありける、時ならぬ真夜中に人の眠りを妨るは何《いず》れの没情漢《ぼつじょうかん》ぞと打呟《うちつぶや》きながら、起行《おきゆ》きて戸を開くに、突《つい》て入《い》る一人《いちにん》は是なん目科其人にして衣服の着様《きざま》は紊《みだ》れ、飾り袗《しゃつ》の胸板は引裂かれ、帽子は失い襟飾りは曲りたるなど一目に他人と組合い攫《つか》み合いたるを知る有様なるに其うえ顔は一面に血|塗《まみ》れなれば余は全く仰天し「や、や、貴方は何《ど》う成《なさ》ッた」と叫び問う、目科は其声高しと叱り鎮めて「いや此傷は、なに太《たい》した事でも有ますまいが何分にも痛むので幸い貴方が医学生だから手当を仕《し》て貰おうと思いまして」と答う、余は無言の儘《まゝ》に彼れを据《すわ》らせ其傷を検《あらた》むるに成《な》るほど血の出る割には太《たい》した怪我にもあらず、爾《さ》れど左の頬を耳より口まで引抓《ひっかゝ》れたる者にして処々《ところ/″\》に肉さえ露出《むきいで》たれば痛みは左《さ》こそと察せらる、頓《やが》て余が其傷を洗いて夫々《それ/″\》の手術を施し終れば目科は厚く礼を述べ「いや是くらいの怪我で逃れたのは未《まだ》しもです。併《しか》し此事は誰にも言わぬ様に願います」との注意を遺《のこ》して退《しりぞ》きたり、是より夜の明るまで余は眠るにも眠られず、様々の想像を浮べ来りて是か彼《あ》れかと考え廻すに目科は追剥《おいはぎ》か盗坊《どろぼう》か但《たゞ》しは又強盗か、何しろ極々《ごく/\》の悪人には相違なし。
爾《さ》れど彼れ翌日は静かに余が室に入来《いりきた》り再び礼を繰返したる末、意外にも余に晩餐の饗応せんと言出《いいいで》たり、晩餐の饗応などとは彼れが柄に無き事と思い余は少し不気味ながらも唯《たゞ》彼れが本性を見現《みあらわ》さんと思う一心にて其招きに応じ、気永く構えて耳と目の及ぶだけ気を附けたれど露《つゆ》ほども余の疑いを晴す如き事柄は聞出しもせねば見出しもせずに晩餐を終りたり。
爾《そう》は云え是よりして余と目科の間柄は一入《ひとしお》近くなり、目科も何やら余に交《まじわ》りを求めんとする如く幾度と無く余を招きて細君と共々に間食《かんじき》を為《な》し殊《こと》に又夜に入《い》りては欠《かゝ》さず余を「レローイ」珈琲館まで追来《おいきた》り共に勝負事を試みたり、斯《か》くて七月の一夕《あるゆうべ》、五時より六時の間なりしが例の如く珈琲館にて戯《たわむ》れ居《い》たるに、衣類も穢《むさ》くるしく怪《あや》しげなる男|一人《いちにん》、遽《あわたゞ》しく入来《いりきた》り何やらん目科の耳に細語《さゝや》くと見る間に目科は顔色を変て身構し「好《よ》し/\直《すぐ》に行く、早く帰ッて皆に爾《そう》云《い》え」と、命ずる間も急《いそが》わしげなり、男は此返事を得《う》るや又|一散《いっさん》に走去りしが、後に目科は余に向い「誠に残念ですが、勤めには代られぬ譬《たとえ》です、此勝負は明日に譲り今日は是で失敬します」とて早や立去らん様子なり、勝負の中止も快からねど夫《それ》よりも不審に得堪《えた》えず、彼れが秘密を見現すは今なり、と余は思切ッて同行せざるの遺憾を述《のぶ》るに「爾《そう》さ、なに構うものか、来るなら一緒にお出《いで》なさい、随分面白いかも知れませぬから」斯《か》く聞きて余は嬉しさに心《こゝろ》迫《せ》き、返す言葉の暇さえ惜しく、其儘《そのまゝ》帽子を戴《いたゞ》きて彼れに従い珈琲館を走出《はしりいで》たり。
第二回(血の文字)
目科に従いて走りながらも余は唯《た》だ彼れが本性を知る時の来りしを喜ぶのみ、此些細なる一事が余
前へ
次へ
全28ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
黒岩 涙香 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング