の後々に至大《しだい》なる影響を及ぼす可《べ》しとは思い寄ろう筈《はず》も無し、目科は宛《あたか》も足を渡世《とせい》の資本《もとで》にせる人なる乎《か》と怪しまるゝほど達者に走り余は辛《かろ》うじて其後に続くのみにて喘《あえ》ぎ/\ロデオン街《まち》に達せし頃、一|輛《りょう》の馬車を認め目科は之《こ》れを呼留《よびとゞ》めて先《ま》ず余に乗らしめ馭者《ぎょしゃ》には「出来るだけ早く遣《や》れ、バチグノールのレクルース街《まち》三十九番館だ」と告げ其身も続て飛乗りつ只管《ひたすら》馬《うま》を急《せか》し立《たて》たり、「はゝア、行く先はバチグノールだと見えますな」とて余は最も謙遜の詞《ことば》を用い目科の返事を釣出《つりだ》さんと試むれど彼れ今までとは別人の如く其唇固く閉じ其眉半ば顰《ひそ》みたるまゝにて言葉を発せず其様深く心に思う所ありて余が言葉の通ぜぬに似たり、彼れ何を斯《か》く考うるや、眼《まなこ》徒《いたず》らに空《くう》を眺めて動かざるは六《むつ》かしき問題ありて※[#「研のつくり」、第3水準1−84−17]《そ》を解かん為《た》め苦めるにや、頓《やが》て彼れ衣嚢《かくし》を探り最《いと》太《ふと》やかなる嗅煙草《かぎたばこ》の箱を取出《とりいだ》し幾度か鼻に当て我を忘れて其香気を愛《めず》る如くに見せ掛《かく》る、去《さ》れど余は兼《かね》てより彼れに此癖あるを知れり、彼れ其実は全く嗅煙草を嫌えるも唯《た》だ空《から》の箱を携《たずさ》え居《お》り、喜びにも悲みにも其心の動く度《たび》我《わが》顔色を悟られまじとて煙草を嚊《か》ぐに紛《まぎ》らせるなり、兎角《とかく》するうちに馬車は早やクリチーの坂を登り其外なる大通《おおどおり》を横に切りてレクルース街《まち》に入り約束の番地より少し手前にて停りたり、停るも道理や三十九番館の前には凡《およ》そ二三百の人集り巡査の制止をも聞かずして推合《おしあ》える程なれば馬車は一歩だも進み得ぬなり、余は何事なるや知らざれど茲《こゝ》にて目科と共に馬車を降《くだ》り群集を推分《おしわけ》て館の戸口に進まんとするに巡査の一人強く余等《よら》を遮《さえぎ》りて引退《ひきしりぞ》かしめんとす、目科は威長高《いたけだか》に巡査に向い「貴官は拙者《せっしゃ》を知《しり》ませんか、拙者は目科です、是なる若者は拙者と一処《いっしょ》に来たのです」目科の名を聞き巡査の剣幕は打って代り「いや貴方《あなた》でしたか、爾《そう》とは思いも寄りませず」と遽《あわたゞ》しく言訳するを聞捨て閾《しきい》を一足館内に歩み入れば驚きて茲《こゝ》に集《つど》える此家の店子《たなこ》の中に立ち、口に泡を吹かぬばかりに手真似しながら迫込《せきこみ》て話しせる一老女あり定めし此家の店番なる可《べ》し、目科は無遠慮に話の先を折り「何所《どこ》だ、何所です」と急ぎ問う「三階ですよ、三階の取附《とっつき》です、本統《ほんとう》に先《ま》ア此様な正直な家の中で、夫《それ》に日頃あの正直な老人を」と老女が答え来《きた》るを半分聞き直様《すぐさま》段梯子を四段ずつ一足に飛上《とびのぼ》る、余は肺の臓の破るゝと思うほど呼吸《いき》の世話《せわ》しきにも構わず其|学《まね》をして続いて上れば三階なる取附の右の室は入口の戸も開放せし儘《まゝ》なるゆえ、之を潜りて客室、食堂、居室等を過ぎ小広《こびろ》き寝室《ねま》へと入込《いりこ》みぬ、見れば茲《こゝ》には早や両人の紳士ありて共に小棚の横手に立てり、其一人の外被《うわぎ》に青白赤《せいはくせき》三色の線ある徽章《しるし》を佩《おび》たるは問《とう》でも著《しる》き警察官にして今一人は予審判事ならん、判事より少し離れたる所に、卓子《ていぶる》に向い何事をか書認《かきしたゝ》めつゝ有るは確《たしか》に判事の書記生なり、是等《これら》の人々何が為に此室にきたりたるぞ、余は怪むひまも無く床の真中に血に塗れたる死骸あるに気附たり、小柄なる白髪の老人にして仰向《あおむき》に打倒《うちたお》れ、傷所《きずしょ》よりいでたる血潮は既に凝《こゞ》りて黒くなれり。
余は驚きの余り蹌踉[#「蹌踉」は底本では「蹌跟」]《よろめ》きて倒れんとし纔《わずか》に傍らなる柱につかまり我が身体を支え得たり、支え得しまゝ暫《しば》しが程は殆《ほとん》ど身動きさえも得せず、読者よ余は当時医学生たりしだけに死骸を見たるは幾度なるを知らず病院にも之を見《み》学校にも之を見たり、然《しか》れども面《まのあ》たり犯罪の跡を見たるは実に此時が初てなり。然り此老人の死骸こそは恐ろしき犯罪の結果なること言う迄も無し、唯《たゞ》余の隣人目科は余ほどに驚き恐れず足踏《あしぶみ》も確に警察官の許《もと》に進むに、警察官は其顔を見るよりも「ア
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