ア目科君か、折角|呼《よび》に遣《やっ》たけれど君を迎えるほどの事件では無《なか》ッたよ目「とは又|何《ど》う云う訳で「いや君の智慧を借るまでも無く罪人が分ッて、仕舞ッた、実は最《も》う逮捕状を発したから今頃は捕縛《ほばく》された時分だ」罪人が解りたらば先《ま》ずほッと安心すべきところなるに目科は爾《さ》は無くて痛く失望の色を現わし※[#「研のつくり」、第3水準1−84−17]《そ》を体好《ていよ》く紛らさんため例の嚊煙草の箱を取出し鼻の先に二三度当て「おやおや罪人が分ッたのか」と云う、今度は予審判事が之に答えんとする如く「分ッたにも、最《も》う明白に分ッたよ、罪人は此老人が死切れた物と思い安心して逃て仕舞ッたが実は是《こ》れが本統《ほんとう》に天帝《てんてい》の見張て居ると云う者だろうよ、老人は未《ま》だ死切《しにきら》ずに居て、必死の思いで頭を上げ、傷口から出る血に指を浸して床へ罪人の名を書附て置《おい》て死《しん》だ。先《ま》ア見たまえそれ血の文字が歴々《あり/\》と残ッて居る」此《この》傷《いた》ましき語を聞きて余は直ちに床中《ゆかじゅう》を見廻すに成《な》るほど死骸の頭の辺に恐ろしき血の文字あり MONIS《モニシ》 の綴りは死際《しにぎわ》の苦痛に震いし如く揺れ/\になりたれど読擬《よみまご》う可《べ》くもあらず、目科も之を見しかども彼れ驚きしか驚かざるか嚊煙草を振るのみにて顔色には現わさず唯《た》だ単に「夫《それ》で」と云う、今度は又警察署長「夫《それ》で分ッて居るじゃ無いか藻西太郎《もにしたろう》と云う者の名前の初めを書掛《かきかけ》て事切れと成《なっ》たのだ、藻西太郎とは此老人の唯一人の甥だ、老人が余ほど寵愛《ちょうあい》して居たと云う事だ」と説明す、目科は唯口の中《うち》にて何事をか呟くのみ、更《さら》に予審判事は今言いし警察官の説明を補わんとする如くに「此文字が何よりの証拠だから何《ど》の様な悪人でも剛情《ごうじょう》は張り得まい、殊《こと》に此老人を殺して夫《それ》が為に得の行くのは唯此藻西太郎|一人《いちにん》だ、老人は巨多《あまた》の財産を持て居て、死《しに》さえすれば甥の藻西へ転がり込む様に成《なっ》て居る、のみならず老人の殺されたのは昨夜の事で、昨夜老人の許《もと》へ来たのは唯《た》だ藻西一人さ、帳番の証言だから是《これ》も確かだ、藻西は宵の九時頃に来て十二時頃まで居た相《そう》だ、其後では誰も老人の室へ這入《はいっ》た者が無いと云うから是ほど確な証拠は有るまい」目科は無言にて聞き終り意味有りげなる言葉にて「なるほど明かだ、日を見るよりも明かに藻西太郎と云う奴は大馬鹿だ、此老人が殺されさえすれば第一に自分は疑われる身だから、其疑いを避る様に、切《せめ》て盗坊《どろぼう》の所為《しわざ》にでも見せ掛け何か品物を盗んで置くとか此室を取散《とりちら》して置くとか夫《それ》くらいの事は仕《し》そうな者《もの》だ、老人を殺しながら夫《それ》をせぬとは余り馬鹿過ると云う者《もの》だ警察官「爾《そう》さ別に此室を取散《とりちら》すとか云う様な疑いを避ける工夫は仕て無《なか》ッた、殺すと早々逃たのだろう、余り智慧の逞《たくま》しい男では無いと見える、此向《このむき》なら捕縛すれば直《じき》に白状するだろう」と云い、猶《な》おも目科を小窓の所に誘い行きて小声にて何か話しを初め、判事は又書記に向い是《これ》も何やらん差図を与え初めたり。


          第三回(又不審)

 是《これ》にて先《ま》ず目科の身の上に関する不審だけは全く晴れたり、彼れは盗坊《どろぼう》にも非《あら》ず追剥にも非ず純然たる探偵吏《たんていり》なり、探偵吏なればこそ其身持不規則なりしなれ、身姿《みなり》時々変ぜしなれ、痛《いた》く細君に気遣われしなれ、「様《さん》」附《づけ》にも呼ばれしなれ、顔に傷をも受けしなれ、今は少しの不審も無し彼れが事は露ほども余が心に関せず、之に引代て唯《たゞ》痛《いた》く余の心に留り初めしは床の上の死骸なり、余が心は全く彼の死骸に縛附《しばりつけ》[#ルビの「しばりつけ」は底本では「しぱりつけ」]られたるに似たり、今まで目科を怪みたるよりも猶《な》お切に彼の死骸を思う、初て死体《しがい》を見し時の驚きと恐れとは何時《いつ》しか消えて次第に物の理を考うる力も己《われ》に復《かえ》りしかば余は唯《た》だ四辺《あたり》に在る総《すべ》ての物に熱心に注意を配り熱心に考え初めぬ、身は戸の口に立《たち》し儘《まゝ》なるも眼《まなこ》は室中《しつじゅう》を馳廻《はせまわ》れり、今まで絵入の雑誌などにて人殺《ひとごろし》の場所を写したる図などは見し事あり孰《いず》れにも其辺《そのあたり》最《い》と取散《とりちら》したる景
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