目科は「さア時が来た」と云い余を引きて此隠場を出で一直線に藻西の店先に到るに果せるかな先刻見たる下女唯一人帳場に据《すわ》りて留守番せり、目科の姿を見て立来るを、目科は無雑作なる言葉にて「これ/\、内儀《ないぎ》を一寸《ちょっ》と呼で呉れ下「内儀《おかみ》さんは最《も》う出て仕舞いましたよ」目科は驚きたる風を示し「其様な筈は無いよお前先程来た己の顔を忘れたな下「いえ爾では有ませんが、全く内儀《おかみさん》は出て仕舞たのです、虚《うそ》と思えば奥の間へ行て御覧なさい、最う誰も居ませんから目「やれ/\、あゝ夫は困ッたなア実に困《こまっ》た、己よりも先《ま》ア内儀が嘸《さぞ》かし失望する事だろう、困たなア」と頭を掻く其様如何にも誠《まこと》しやかなり、下女は何事かと怪しむ如く、開きたる眼に目科の顔を打眺む、目科は猶も失望せし体にて「実は己が余り粗匆《そゝっか》しく聞て行たから悪かッたよ、折角内儀の言伝《ことづけ》を受《うけ》て、先の番地を忘れるとは、爾々《そう/\》お前若しあの人の番地を覚えて居やア仕無いか、何でもお前も傍で聞て居たかと思たが女「いえ私しは初めから店へ出て居たから聞《きゝ》ませんでしたが、でも何方《どなた》の番地ですか目「何方ッてそれ彼《あ》の人よ」と言掛て目科は忽《たちま》ち詰り「えゝ己の様な疎匆《そゝっ》かしい男が有うか、肝腎の名前まで忘れて仕舞ッた、えゝ何とかさんと言たッけよあの、それ何とかさんよあの、えゝ自裂《じれっ》たい口の先に転々《ころ/\》して居て出て来ない、えゝ何とかさん、何とかさん、おうそれ/\彼のプラトが大変に能く懐《なじ》んで居る人よプラトが己に噛附《かみつこ》うとした時内儀が爾《そう》云た、他人で此犬の従うのは唯何とかさんばかりですッて」下女は合点の行きし如く「あゝ分りました夫なら生田《いくた》さんでしょう、生田さんなら久しく此家の旦那と共に職人を仕て居ましたからプラトを自由に扱います」目科は真実に喜びの色を浮《うか》め「あゝ生田さん生田さん、其生田さんを忘れてさ、今度は能く覚えて行う、其生田さんの居る所は何所《どこ》とか云《いっ》たッけなア」下女は唯此返事一つが己れの女主人には命より大切なる秘密と知らず易々《やす/\》と口に出《いだ》し「生田さんならロイドレ街二十三番館に居るのです目「爾々、爾云たよロイドレ街二十三番館だと、夫を全《すっ》かり忘れて居た、難有《ありがた》い/\、お前のお影で助かッた内儀が帰ッて来れば必ずお前を褒《ほめ》るだろう」と反対の言葉を残して戸表《おもて》へと走り出たり。
あゝ、ロイドレ街二十三番館に住む生田と云える男こそ吾々の当《とう》の敵《かたき》なり、此上は一刻も早く其館に推行《おしゆき》て生田を捕縛する外なしと余は思えど目科は「是から裁判所へ行て逮捕状を得て来ねば何事もする訳に行かぬ」と云う余「ダッて君、裁判所へ行けば倉子が既に行て居るから吾々が逮捕状を得るのを見て、生田を逃す様な工夫を廻《めぐ》らせるかも知れぬぜ、夫に又ぐず/\する間に倉子が内へ帰り下女の言葉を聞くとしても吾々の目的は破れて仕舞う目「何が何でも逮捕状が無い事には此上一歩も運動が出来ぬから」と云い、早くも通り合す馬車を呼留め、之に乗りて僅か三十分と経ぬうちに裁判所に達すれば先ず其小使を呼びて問うに判事は今正に倉子を尋問しつゝありとの事なり、目科は更に手帳の紙を破り之に数行の文字を認《したゝ》め是非とも別室にて面会したしとの意を云い入るゝに、暫くして判事は別室に入来り目科が撥摘《かいつま》みて云う報告を聞き「成る程夫は面白いが最《も》う藻西太郎が白状して仕舞たよ、全《すっ》かり白状したから外に何の様な疑いが有ても自然に消滅する訳だ」と云い取上る景色も無きを猶も目科が喋々《くしゃ/\》と説立《ときたて》て漸くの事に「然《しか》らば」との変事《へんじ》を得、生田なる者に対する逮捕状を認《したゝ》めて差出すや目科は受取るより早く、余と共に狂気の如く裁判所を走り出、待《また》せある馬車に乗り、ロイドレ街を指して馬の足の続く限り走《はしら》せたり、頓《やが》てロイドレ街に達《たっす》れば町の入口に馬車を待せ、幾度か彼の嚊煙草にて強《しい》て顔色を落着けつゝ、二十三番と記したる館を尋ねて、先ず其店番に向い「生田さんは居るか」と問う店「はいお内《うち》です、四階へ上れば直《すぐ》に分ります」と答う、目科は階段《はしごだん》に片足掛けしが忽《たちま》ち何事をか思い出せし如く又も店番の許《もと》に引返し「今日は生田に一杯振舞う積りで来たが生田は毎《いつ》も何の様な酒を呑む店「何の様な酒ですか、常に此筋向うの酒屋へは能く行きますが目「好し、彼所《あすこ》で問うたら分るだろう」と云い大足に向うの酒店《さかみせ》に馳《
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