です、藻西太郎より外の者の云う事は決して聴きません」是《こゝ》だけ聞きて目科は「夫で好し最《も》う聞く事は無いからお前下るが好い」と云い老女が外の戸まで立去るを看送《みおく》り済《すま》し更に余が方《かた》に打向いて「最《も》う何《ど》うしても藻西太郎の仕業《しわざ》と認める外は無い」と嘆息《たんそく》せり。
目科が猶お老女を尋問し居たるうちに、先刻判事が向いに遣《やり》しと云いたる医官二名出張し来りて此時までも共々《とも/″\》に手を取りて老人の死骸を検《あらた》め居たれば余は一方に気の揉める中《うち》にも又一方に医官が検査の結果|如何《いかゞ》と殆《ほとん》ど心配の思いに堪えず、凡《およ》そ医師|二人《ににん》以上立会うときは十の場合が七八《なゝやつ》まで銘々見込を異にする者なれば若《も》し此場合に於ても二人其見る所同じからず、縦《よ》し一方が余の見立通り老人は唯一突にて痛《いたみ》を感ずる間も無きうちに事切れたりと見定むるとも其一方が然らずと云わば何とせん、青《あお》書生の余が言葉は斯《かゝ》る医官の証言に向いては少しの重みも有る可きに非ず、斯《かく》思いて余は二人の医官を見較ぶるに一方は瘠《や》せて背高く一方は肥《こえ》て背低し斯《かく》も似寄たる所少き二人の医官が同様の見立を為すは殆ど望み難《がた》き所なれば猶お彼等の言葉を聞かぬうちより既《すで》に失望し居たる所、彼等は頓《やが》て検査し終り、今まで居残れる警察長に向い不思議にも同一の報告を為《な》したり、同一の報告とは他ならず梅五郎老人は唯一突にて即死せし者なれば従ッて血の文字は老人の書し者に非ずと云うに在り。
余は意外にも二人の医官が二人ながら余の意見と同一の報告を為せしを見、ほッと息して目科に向えば目科は益々怪しみて決し兼たる如く「フム老人が書たで無いとすれば誰が書たのだろう、藻西太郎か、藻西太郎が自分で自分の名を書附て行くと云う事は決して無い、無い/\何うしても無い、自分で自分の名を書くとは余り馬鹿げ過て居る」
余は此言葉に何の批評をも加えねど、己が役目の漸《ようや》く終り、やッと晩餐に有附く可き時の来りしを歓びながら出《いで》て行く彼の警察長は目科の言葉を小耳に挟み彼れをからかうも一興と思いし如く「当人が既に殺しましたと白状した後で他人の君が六《むず》かしく道理を附け独り六かしがッて居るのは夫こそ余り馬鹿さが過るじゃ無いか」目科は怒りもせず「左様《さよう》、馬鹿さが過るかも知れぬ、事に由ると僕が全くの馬鹿かも知れぬ、けれども今に判然と合点の行く時が来るだろうよ」警察長は聞流して帰り去り、目科も亦《また》言流して余に向い出し抜《ぬけ》に「さア是から二人で警察本署へ行き、捕われて居る藻西太郎に逢て見よう」
第六回(犬と短銃《ぴすとる》)
藻西太郎に逢《あっ》て見んとは素《もと》より余の願う所ろ何かは以て躊躇《ためら》う可《べ》き、早速目科に従いて又もや此家を走り出《いで》たり、余と云い目科と云い共に晩餐|前《ぜん》なれど唯《たゞ》此事件に心を奪われ全く饑《うえ》を打忘れて自ら饑たりとも思わず、只管《ひたすら》走りて大通りに出で茲《こゝ》にて又馬車に飛乗りゼルサレム街に在《あ》る警察本署を推《さ》して急《いそが》せたり目科は馬車の中にても心|一方《ひとかた》ならず騒ぐと見え、引切《ひっきり》なしに空《から》の煙草を嚊《か》ぐ真似し時々は「何《ど》うしても見出せねば、爾《そう》だ何うしても見出して呉れる」と打呟く声を洩す、余は目科に向いて馬車の隅にすくみしまゝ一つは我が胸に浮ぶ様々の想像を吟味《ぎんみ》するに急《いそが》わしく一は又目科の様子に気を附けるが忙わしさに一語だも発するひま無し、目科は又暫し考えし末、忽《たちま》ち衣嚢《かくし》を探りて先刻のコロップを取出し宛《あたか》も初めて胡桃《くるみ》を得たる小猿が其の剥方《むきかた》を知ずして空《むなし》く指先にて拈《ひね》り廻す如くに其栓を拈り廻して「何にしても此青い封蝋が大変な手掛りだ何うかして看破《みやぶ》らねば」との声を洩せり、斯《かく》て長き間走りし末、馬車は終《つい》に警察本署に達し其門前にて余等《よら》二人を卸《おろ》したり、日頃ならば警察の庭と聞くのみも先ず身震する方にして仲々足踏入る心は出《いで》ねど今は勇み進みて目科の後に従い入るのみかは常に爪弾《つまはじき》せし探偵|吏《り》の、良民社会に対して容易ならぬ恩人なるを知り我が前に行く目科の身が急に重々しさを増し来《きた》り、其|背長《せたけ》さえ七八寸も延しかと疑わる、即《やが》て其広き庭より廊下へ進み入り曲り曲りて但有《とあ》る小室《しょうしつ》の前に出《いず》れば中《うち》には二三の残り員《いん》、卓子《て
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