すが目「いや其様な筈は有りません縦《たと》い一時は気が転倒したにもせよ夫は少し経てば治《おさま》ります、藻西太郎は一夜眠た今朝に成《なっ》ても矢張り自分が犯したと言張ッて居ますから」此言葉にて察すれば目科は今朝《こんちょう》余の室を叩く前に既に再び牢屋に行き藻西太郎に逢来りしものと見ゆ、何しろ此言葉には充分の力ありて倉子の心を打砕きし者とも云う可く、他《か》れ面色を灰の如くにし「何《ど》うしたら好《よ》う御坐《ござ》いましょう所天《おっと》は本統に気が違ッて仕舞いました」と絶叫せり、あゝ藻西太郎の白状は果して気の狂いたる為なるか余は爾《そう》と思い得ず、思い得ぬのみにあらで余は益々倉子の口と其心と同《おなじ》からぬを疑い、他《か》れが悲みも他《か》れが涙も他《か》れが失望の絶叫も総《すべ》て最《いと》巧《たくみ》なる狂言には非ざるや、藻西太郎の異様なる振舞も幾何《いくら》か倉子の為めに由《よ》れるには非ざるや、倉子自ら真実の罪人を知れるには非ざるやと余は益々疑いて益々|惑《まど》えり。
 目科は如何に思えるや知ざれど彼れ嚊煙草のお蔭にて何の色をも現さず、徐々《しず/\》と倉子を慰めし末「いえ此事件は余り何も彼も分ら無さ過るから詰《つま》り方々へ疑いが掛るのです、事が分れば分るだけ疑われる人も減る訳ですから此上|申兼《もうしかね》たお願ながら何《ど》うか私しに此家の家捜をさせて下されますまいか」と大胆な事を言出せり、余は目科が何の目的にて屋捜せんと欲するにや更に合点行かざれど無言の儘《まゝ》控ゆるに倉子は快よく承諾し「はい爾《そう》して疑いを晴せて戴く方が私しも何れほど有難いか知れません」と云《いう》が否《いな》や其|衣嚢《かくし》を掻探《かいさぐ》りて戸毎《とごと》の鍵を差出す様《さま》、心に暗き所ある人の振舞とは思われず、目科は其鍵を受取りて戸棚押入は申すに及ばず店より台所の隅までも事細かに調べしかど怪む可《べ》き所更に無く「此上捜すのは唯穴倉一つです」と云い又も倉子の顔を見るに倉子は安心の色をこそ示せ、気遣う様子更に無し、去《さ》れど目科は落胆せず、倉子に燭《しょく》を秉《と》らせて前に立たせ余を背《うしろ》に従えて、穴倉の底まで下り行くに、底の片隅に麦酒《びいる》の瓶あり少し離れて是よりも上等と思わるゝ酒類の瓶を置き、猶《な》お四辺《あたり》には様々の空瓶を堆
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