重なりし事なれば信ぜらるゝ筈は無く却ッて人を殺せし上裁判官をまで欺《あざむ》く者と認められて二重の恥を晒《さら》す理《り》なれば、我身に罪は無しとは云え、孰《いず》れとも免れぬ場合、潔《いさぎ》よく伏罪し苦しみを短かくするに如《し》くなしと無念を呑《のみ》て断念《あきら》めし者ならぬか、余が斯《か》く考え廻すうちに目科は又問を発して「だが藻西は何時頃に帰て来ました倉「十二時過る頃でした目「何故其様に遅かッたでしょう倉「はい私しも少し遅過ると思いましたから問いましたが或《ある》珈琲店《かひいてん》へ寄り麦酒《ばくしゅ》を飲《のん》で居たと云いました目「帰ッた時は何《ど》の様な様子でした倉「少し不機嫌では有ましたが、夫は尤《もっと》もの次第です目「着物は何の様なのを被《き》て居ました倉「昨日捕えられた時と同一《ひとつ》の着物でした目「夫にしても彼の様子か顔附に何か変ッた所は有りませんでしたか倉「少しも有りませんでした」
第九回(詰らぬ事)
余は初めより目科の背後《うしろ》に立てる故、気を落着けて充分に倉子の顔色を眺むるを得《え》、少しの様子をも見落さじと勉《つと》めたるに、倉子が幾度も泣出さんとし殆《ほとん》ど其涙を制し兼る如き悲みの奥底に何処《どこ》と無く微《かすか》に喜びの気を包むに似たる心地せらるゝにぞ、若しもや目科夫人の言いし如く此女に罪あるに非ざるやと疑う念を起しはじめ、幾度か自ら抑えて又幾度か自ら疑い、終《つい》に目科の誡《いまし》めを打忘れて横合より口を出《いだ》せり余「ですが内儀《ないぎ》、老人の殺された夜、太郎どのが其職人の家へ行かれた留守に貴女《あなた》は何所《どこ》に居たのです」倉子は宛《あたか》も余が斯く問うを怪む如く其|眼《まなこ》を余が顔に上げ来り最《いと》柔《やわら》かに「私しは此家に留守をして居ました、夫《それ》には証人も有る事です余「え、証人が倉「はい有ります、御存《ごぞんじ》の通り一昨夜は毎《いつ》もより蒸暑くて夫《それ》にリセリウ街《がい》で所天《おっと》に分れ内《うち》まで徒歩《あるい》て帰りました為《た》め大層|咽《のど》が乾きまして、私しは氷を喫《たべ》ようと思いましたが一人では余り淋しい者ですから右隣の靴店《くつみせ》の内儀《ないぎ》と左隣の手袋店《てぶくろみせ》の内儀を招きました所《とこ》ろ、二
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